130話 カルレインのドミスに向けられた笑顔にラティルは心が痛みました。
◇不可解な事◇
ラティルはため息をつくと
訳もなく腹が立ち、
万年筆を手に取り、
紙にカルレインの名前を
続けざまに力を入れて書きました。
ペン先が、ぽきっと折れると、
驚いて手を引きましたが、
すでに、そこから
インクが漏れていました。
ラティルはペンを置くと
イライラして、
机に突っ伏しました。
考えてみれば、
カルレインの笑顔なら、
彼を訪ねて「笑って」と言えば
見られるので
腹を立てることでは
ありませんでした。
ただ、気分がすぐれないだけでした。
ところで、ラティルは
ドミスはゾンビに噛まれたのに
死ぬまで人間の姿だったことを
不可解に思いました。
ギルゴールという人も、
ドミスがゾンビになると
言っていました。
ラティルは不思議に思い、
顔を上げると
普段は、目の見える所にいる
サーナット卿の姿が
見えませんでした。
侍従長に
サーナット卿のことを尋ねると
彼はカルレインと一緒に
コーヒーを飲みに行ったとのこと。
ラティルは、
傭兵王と近衛騎士団長という
全く似合わない組み合わせの2人が
時間を作って
コーヒーを飲みに行くほど
仲がいいことに驚きましたが、
両方とも強いから、
そういうこともあるだろうと
納得しました。
ラティルは新しい万年筆を手にして
仕事に打ち込んでいると、
ラナムンの侍従が訪ねてきたことを
秘書が知らせに来ました。
ラナムンは、
ほとんどラティルに
連絡をしてこないので
真昼に侍従を寄こすということは
急を要することが明らかでした。
秘書が出て行くと、入れ替わりに
ラナムンの侍従のカルドンが
入ってきて、挨拶をしました。
彼の顔が強張っているので、
ラティルの予想通り
深刻なことがあるに
違いありませんでした。
ラティルはカルドンに
話すように合図をすると、
彼は、
昨晩、ラナムンが眠れなくて
散歩をしている時に、
湖畔のガゼボへ行ったら、
怪物が飛び出してきて
ラナムンを攻撃した。
ちょうど大神官がそばにいて
怪物を退治してくれたので
事無きを得た。
そうでなければ、
ラナムンは本当に危なかったと
声を震わせて報告しました。
予想外の話に
ラティルはかなり驚きました。
そして、カルドンは
ラナムンは少し驚いたけれど
大丈夫であること。
人々に
大きな混乱を与えかねないので
ラティルにだけ知らせるように
言われたと、話を続けました。
ラティルは、舌打ちしました。
これがクラインなら、
あらゆる愚行を繰り返して
最初にハーレムを混乱させた後、
次にここへ来て、混乱させたはず。
それなのに、ラナムンは
怪物に襲撃されて危ない目に会っても
静かに事を処理しました。
このような点が、
人々の役に立つかもしれない。
油断し過ぎてもいけないけれど
過度に恐れても統制できない。
客観的に見ると
ラナムンの方が皇配にふさわしいと
ラティルは考えました。
彼女は、侍従長に
百花を呼んで、聖騎士たちに
ハーレム全体を
隅々まで調べて欲しいと頼むことと、
第5騎士団の団長に事情を説明して、
万が一のために、湖の周りに
人を来させないようにすることを
指示しました。
ラティルは、カルドンに
ラナムンのことを尋ねると、
彼は自分の部屋にいると答えました。
すると、ラティルは
行くよ。
と言って、さっと外へ出ました。
まさか、ラティルが
すぐにラナムンの所へ行くと
予想していなかったカルドンは、
戸惑って、
ラティルと侍従長を交互に眺めましたが
侍従長と目が合うと、
彼はカルドンに、うまくやれと
合図をしました。
どうやって、うまくやればいいのか
分からないけれど、
カルドンは頷いて、
ラティルに従いました。
◇恋の始まり◇
ラナムンの所へ向かう途中、
ラティルは、カルドンに
ラナムンが
たくさん驚いたか尋ねたので
カルドンは困ってしまいました。
ラティルは、
ラナムンが驚いたと思い
彼を訪ねようとしましたが、
実はラナムンは
全く驚きませんでした。
むしろ、その話を聞いた
カルドンが驚いて
気絶するところだったのに、
ラナムンは、話をしている間、
ずっと鏡だけを見ていました。
カルドンが返事をしなかったので
ラティルは彼を振り返りました。
カルドンは、慌てて
ラナムンは、とても驚いたようで、
見た目はむしろ
無表情だったと答えると、
ラティルは、彼はいつも無表情だと
指摘しました。
それに対してカルドンは、
いつもそうだけれど、
いつもより少し・・・と
しどろもどろに答えたので、
ラティルは、何を言っているのかと
不思議に思いましたが、
怪物が現れたせいで
そうなっていると思いました。
ラティルは、
ラナムンの部屋の前に到着すると
扉を叩いて
部屋の中へ入りました。
すると彼は無表情で
チェスをしていました。
彼が大丈夫そうに見えるので
ラティルは不思議に思いましたが
ラナムンは驚いても
表に出さないのかもしれないと思い
彼に近づいて、大丈夫かと
心配そうに尋ねました。
ラティルがラナムンの顔を
のぞき込んでいる間、カルドンは
両手を合わせて、
お願いだから自分の方を見てと
切に願いました。
祈りが聞き届けられたのか、
ラナムンはラティルに答える前に
カルドンをちらっと見ました。
彼は、全身を使って、
病気のふり、驚いたふりをするよう
合図を送りました。
その間、
ラナムンを観察していたラティルは
彼の顔色があまりにも普通なので、
カルドンの言葉を
疑い始めていました。
その時、
ラナムンはラティルの手を取り
自分の額の上に置きました。
熱もないのに、どうして?と
ラティルが不思議に思っていると、
ラナムンは眉間にしわを寄せて、
「痛い」と言いました。
ラティルは驚いて、
自分の手を引っ込め、
ラナムンの手を退けましたが、
彼の額には傷どころか
皺ひとつありませんでした。
けれども、
怪物に襲われそうになった人に、
あなたは何ともないように見えると
言えないので、
ラティルは何ともない
ラナムンの額に触れて
彼を見下ろしました。
すると、ラナムンは
ぎこちなくラティルを抱き締めて
彼女がいれば、
頭は痛くないと言いました。
ラティルは、頭が痛いのなら
大神官を呼んだ方がいいと
言いましたが
ラナムンは、
表面の傷のせいではないと
言いました。
ラティルも、見た目は
ケガをしていないように見えると
言いました。
ラティルは、傷がなくても
驚いて頭が痛くなったのだと
納得して、
彼の額をそっと撫でながら
何をしてあげたらよいかと
尋ねました。
カルドンは、
その姿を遠くから眺めて
ほっとしました。
ラナムンは、
アトラクシー公爵が
夜の事でも昼の事でも
何でも頑張ってほしいと言って
持ってきた
「恋愛の始まり」という本を
ここ数日、持ち歩いていましたが、
それが役に立ったのは明らかでした。
カルドンは、席を外した方がいいか、
用事が済むまで、
ここにいた方が良いか悩みましたが
注意深く、後ずさりしました。
その間、ラティルは
あまりにもラナムンが
魅惑的な顔をしているため、
天井を見たり、
ラナムンと目を合わせたり、
床を見たりしていました。
クラインも同じくらい
美しいけれど、
彼は、とても明るく、
色々なことを話すので、
向き合っていると、
視覚より聴覚が刺激されました。
一方、ラナムンは何も言わず、
混乱したような顔で
ぼんやりとラティルを見ているので
彼女が照れ臭くなりました。
そして、ラナムンの肩にかかる
毛並みの良い髪を見て、
なぜ、彼の髪の毛は
柔らかく見えるのかと考えた後、
今はそんなことをしている場合ではないと
自分の考えを打ち消しました。
ラティルはもう一度、ラナムンに
何をしてあげたら良いか尋ねました。
彼は、頭が痛いので横になると
言いました。
ラティルは彼をベッドに運ぶために
持ち上げようとすると、
ラナムンは自分の足で立ち上がり、
ラティルの手の上に、
自分の手を乗せました。
あっという間に、
両手を取り合う形になると
ラナムンはラティルを
ベッドへ連れて行き
蒲団をめくると、
彼女の手を離しました。
そして、ベッドに横になりながら
ラティルをじっと見つめ、
彼女も横になるかと尋ねました。
ラティルは、
それが頭痛と何の関係があるのかと
一瞬、考えましたが
ベッドに横になったラナムンは
椅子に座っている時よりも、
2.5倍もラティルを惑わせました。
彼の髪がベッドの上で乱れているのと
片手で上着のボタンを外す仕草が
一層、そうさせているのかも
しれませんでした。
ラティルは腕時計を見ながら、
そんなに長居はできないと
言いました。
ラナムンは、自分が眠るまで
そばにいてくれればいいと
言いました。
ラティルの右脳は
「横になれ!」と叫び、
左脳は「横になってはダメ!」と
叫んでいました。
彼女は、悩んだ末、
ベッドに横になる代わりに
深く腰掛けました。
横になりたくないのですか?
そんなはずはない。
そうみたいですね。
ラティルは、
ベッドに横になると
寝てしまいそうだから。
仕事の途中で来たので、
そんなに時間を作れないと
言い訳をしました。
ラナムンは頷くと、
蒲団から少し抜け出し
ラティルに近づきました。
座っている彼女の太ももに
彼の顔が近づくと、
先ほど、
彼が上着のボタンを外したせいで
白いシャツの間から、
彼の胸が垣間見えました。
ラティルは目のやり場に困り
四方を見渡しましたが、
ラナムンはもう少し彼女に近づき
頭をラティルの足の上に乗せました。
彼の髪が、
ラティルのズボンの裾の下に現れた
足首に触れると、
羽毛でくすぐられたような気がして、
脊椎がびりびりしました。
彼は冷静で傲慢な瞳で
ラティルを見ていました。
彼女はゆっくりと
彼の髪を撫でました。
ラティルは「痛い?」と
尋ねました。
すでにラナムンが
病気でないことは分かっていましたが
それは重要ではありませんでした。
ラティルを見上げていたラナムンは
ゆっくりと目を閉じました。
彼女は、ここで唾を飲み込んだら
自分が変な人みたいだと思いました。
これまで、
こっそり会っていたと思われる
カルレインとサーナット卿。
サーナット卿が、
ラティルのそばを離れてまで、
カルレインと一緒に
コーヒーを飲みに行き、
しかも、それを隠さないのは
何か理由があるのか。
それとも隠す必要がなくなったのか
とても気になります。
キツネの仮面は
ラナムンを何とかしたくて、
トゥーラを焚きつけ、
怪物にラナムンを襲わせるように
仕向けたと思いますが、
結局、ラティルを誘惑する機会を
ラナムンに与えてしまいました。
このことがなければ、
ラティルは、
アトラクシー公爵の件で、
ラナムンを
遠ざけていたかもしれません。
ラナムンは、
とても運が強いと思います。