135話 クラインはラティルの方へ歩いて行きました。
◇全てが誤解◇
ラティルは、
ちょうどクラインの所へ
向っていたので、
彼を見つけると立ち止まりました。
手には、クラインに渡すつもりの
ラベンダーの花束を持っていました。
彼女は笑いながら
クラインに近づきましたが、
彼の表情が良くないことに
気がつきました。
ラティルは心配そうに
クラインに、それを指摘すると
彼は泣きそうな顔になりました。
ラティルは、
ラベンダーを持たない方の手で
彼の額を触りましたが
熱はありませんでした。
しかし、
誰よりも感情に素直なクラインが
元気がないので、
とても気になりました。
しかし、クラインは
ラティルに返事をする代わりに
陛下ですか?
と質問しました。
突然、そんなことを聞かれたので
ラティルは質問の意味を
理解できませんでした。
彼女は、
何が?
と尋ねました。
クラインは、
ラティルの持っているラベンダーを
見ていました。
話をしようかどうか迷っているのか
その瞳は少し揺れているように
見えました。
ラティルは、
クラインの躊躇いを見て
言って後悔することなら言わないでと
心から忠告しました。
大抵の言葉は
言おうかどうか迷っているくらいなら
言わない方がいいから。
言わなかった言葉は、
後から言うことができるけれど、
一度言った言葉は、
取り返しがつかないからでした。
しかし、ラティルの言葉に
刺激を受けたクラインは、
彼女の言葉が終わるや否や、
ヒュアツィンテの初恋の相手は
ラティルかと尋ねました。
彼女は予期せぬ質問に
口をつぐみました。
クラインは、
2人が付き合っていたのか、
兄が一方的に片思いしていたのか
尋ねました。
クラインが、
ヒュアツィンテの初恋に
関心を持っていたのは
知っていたけれど、
ラティルとヒュアツィンテが
付き合っていたのを
知っているい人たちは、
ごく僅かだし
その人たちも、むやみにクラインに
そんなことを
話したりしないはずなので、
ヒュアツィンテの初恋の相手が誰なのか
気づかれないと思っていました。
どうやって真実を知ったのかと
ラティルは考えましたが、
今、それは重要なことでは
ありませんでした。
ラティルがすぐに答えないので、
クラインはイライラして、
何度も唇を噛み締めました。
ラティルは、
肯定すべきか、否定すべきか
悩んでいました。
肯定すれば、
クラインがひどく傷つくだろうけれど
彼が、
どこまで知っているかわからないし、
すでにクラインが確信しているのに
曖昧に否定すれば、
肯定する以上に、
彼が傷つくと思いました。
ラティルは、ヒュアツィンテとは別に
クラインに好感を持っていることを
認めなければなりませんでした。
ヒュアツィンテへの盲目的で
熱烈な愛とは違って、
愛と言うには曖昧な
形も整っていない感情でした。
けれども、今となっては
不可能と思えるけれど
ラティルが
クラインを傷つけたくないのは
確かでした。
とにかく、クラインが
答えを求めているので
ラティルは、
どちらでもいいじゃない。
と答えました。
ラティルの返答に、
クラインの眉の先が下がりました。
そして、ラティルは、
付き合っていても、片思いでも
ヒュアツィンテは
他の人を妻に迎えて、
クラインは自分の所へ来た。
過去に自分とヒュアツィンテが
どのような関係だったか、
今は関係ないと、話しました。
ラティルは、自分の言葉に
無理があるのは分かっていましたが
それでも、一応、言ってみました。
けれども、クラインは
ごまかされず、
関係なければ、兄もラティルも
その話を先にしたはずだと
主張しました。
ラティルは、言う必要がなかったと
答えましたが、クラインは
ラティルとヒュアツィンテが
恋人同士だったら、
自分が来た時に、
すぐに帰らせるべきだったと
言いました。
ラティルは、
その理由を尋ねましたが
クラインは答えませんでした。
ラティルは、
カリセンから送られた
側室が必要だった。
ヒュアツィンテと自分が恋をしても
片思いをしても、
何の実も結ばなかった。
自分とヒュアツィンテは
結婚していないのに、
なぜクラインを送り返さなければ
ならないのかと尋ねました。
ラティルが一つ一つ言葉を吐く度に
クラインは衝撃を受けました。
彼に少しずつ、少しずつ
ひびが入っているように見えましたが
ラティルは、この状況で
特に話すことはありませんでした。
ヒュアツィンテと恋人同士だったことは
知っている人がほとんどいない
非公式のことだったので、
結婚して
皇后まで持つ男の名前を口にして、
元恋人の弟は側室に置けないと
発表できませんでした。
カリセン皇室に対する侮辱になるので、
クラインを
返すこともできませんでした。
だからと言って、正直に
ヒュアツィンテへの当てつけのために
側室を送ってと言ったとは
言えませんでした。
その話をしたら、クラインが
ボロボロになるのは、
目に見えていました。
しかし、ラティルの考えとは違い、
クラインは、
カリセンから送られた側室が
必要だったという言葉のために
すでにボロボロになっていました。
クラインは唇をぶるぶる震わせながら
自分を連れて来た理由は、
カリセンからの側室が
必要だったからなのかと尋ねました。
ラティルは、
「何を言っているの?」
というような目で見たので、
クラインは、
自分を好きだったのではないか、
自分が好きで、
ずっとしがみついていたのではないか
なぜ夜通し、自分を抱き締めて
離れるなと哀願したのか、と
聞きたいと思いました。
しかし、クラインは、
それを言えませんでした。
ラティルが兄と付き合っていたのが
事実なら、
彼女が酒に酔って告白した相手は
自分ではありませんでした。
ラティルが兄を愛していたら、
クラインが夢見ていたことは
全て誤解で、
彼女は自分を好きになったことはなく
自分のことが好きで、
側室として
呼んだのではありませんでした。
クラインの顔が、
だんだん赤く染まって行きました。
泣きながら自分のことを
好きだと告白した
酔っ払いの女騎士。
酔っぱらっていたのが恥ずかしくて
わざと知らん振りをした
高慢な皇女は、
クラインの錯覚の中で生まれた
偽ラトラシルでした。
本物のラトラシル皇帝は、
自分に関心さえなく、
カリセンの皇子という点以外、
興味もありませんでした。
ラティルは
クラインの名を呼びましたが
彼は、その声が
あまりにも恐ろしく聞こえたので
急いで後ろに下がりました。
彼は首筋まで赤くなって
うなだれました。
ラティルに、
自分の滑稽な誤解を
打ち明けることはできませんでした。
ラティルは、
ヒュアツィンテとのことを
話さなかったことを
クラインに謝り、
彼の気分が悪くならないわけには
いかないだろうけれど、
自分とヒュアツィンテとのことは
すでに終わっているので、
あえて持ち出す必要がなかったと
言い訳をしました。
ラティルは、クラインに
あまり衝撃を受けて欲しくないと
思いました。
クラインが真実を知ったら、
寂しがるのではないかと思いましたが
彼は意外にも驚き、
苦痛を感じているようなので、
ラティルは
申し訳ない気持ちになりました。
クラインは、何か話したいのか
口を開けたり閉じたりを
繰り返していましたが、
結局、向きを変えて
走って行きました。
クラインの侍従と護衛は
ラティルに挨拶をすると
彼の後を追いかけました。
疲れ切ったラティルは、
ラベンダーの花束を
隣にいた騎士に渡すと
大きな岩に座りました。
◇裏切ったのは兄◇
夢中で走ったクラインは、
湖畔に到着すると、
やっと立ち止まりました。
彼は手すりにつかまって
息を整えていると、
バニルは泣きながら
クラインの腰を抱き締め、
悪いことを考えたらダメだと
訴えました。
彼は、クラインが
湖に飛び込むと思い込んでいました。
クラインは、違うと言って怒ると
バニルはきまり悪そうに
後に下がりました。
けれども、クラインの表情は
それだけ危なげに見えました。
しかし、クラインが何とか
自分の気持ちを落ち着かせようと
努力していた時、
先に姿を消したサーナット卿が
自分の方へ向かって歩いて来ました。
クラインは、
誰とも話したくなかったので
サーナット卿を見ないふりをして
湖に目を向けました。
しかし、サーナット卿は
クラインの目の前まで迫って来たので
クラインは、どうしたのかと
尋ねました。
すると、サーナット卿は
陛下に怒らないでください。
と冷たく不愛想に言いました。
クラインは手すりから手を離して
腰を伸ばしました。
サーナット卿の顔は、
先ほど見た時よりも
表情が強張っていました。
クラインは、サーナット卿が
関わることではないと言って、
不快感を隠しませんでした。
新たに知った衝撃的な事実に
胸が痛くてたまらないのに
そうでなくても
嫌いなサーナット卿が
このようなことを言うことに、
非常に腹が立っている様子でした。
しかし、サーナット卿も、
クラインがむやみに
ラティルを非難していたのを
見てしまい、
すでに気分が悪くなっていました。
サーナット卿は、
ずっと話したかったけれど、
陛下は尋ねられても
隠そうとしたので、
私も尋ねられても隠そうとしました。
ところが、皇子様が先に暴いたので
私も暴くことにします。
皇子様のお兄様が
初恋の話をされなかったのは、
それが、美しい別れでは
なかったからかもしれないと
話したことがあります。
「恋人」「片思い」
お二人の関係を表すには
もったいない言葉です。
皇子様のお兄様は、
陛下を裏切って去って行きました。
陛下はそのことで、
とても苦しみました。
何年も待っていた陛下に、
一抹の礼節さえ守らず裏切りました。
責める人が必要なら、
あなたのお兄様を責めなさい。
全ての始まりであり発端だからです。
と言いました。
クラインの目元に涙が溜まりました。
彼は呆れていたし、
腹が立って苦笑いをしました。
クラインは、
兄がラティルを裏切ったから、
彼女が自分を騙してもいいのかと
尋ねました。
サーナット卿は、その言葉を否定し
ラティルを傷つけた人の弟が、
またラティルを傷つけるのを
見たくないからだと答えました。
そして、
ラティルが憎いなら帰るように。
傷ついた顔で、
ラティルのそばをウロウロするなと
言いました。
バニルとアクシアンは、
上品なサーナット卿の悪口に
ショックを受けて彼を見ました。
皇帝の忠臣だから、
クラインが彼女を恨まないように
間に入ったとしても、
あの言葉はひどいと思いました。
帰れって?
小さく呟いたクラインの口元に
虚しい笑みが浮かびました。
そして、
そうだ、帰る。
と言って、あっという間に
サーナット卿に拳を振り下ろすと
自分の部屋へ向かいました。
サーナット卿は、
近衛騎士団長ですが、
一国の皇子で、
主君の側室であるクラインに
そこまで言ってもいいのか。
ラティルを愛していて、
彼女が傷つくのを見たくないと
言っても、
ここまで、クラインに対して
暴言を吐けるのか。
サーナット卿は、
クラインに、その場で切られても
文句を言えないくらい
無礼を働いたと思います。
ここまで、サーナット卿が
感情を露わにしたのは、
何か理由があるのでしょうか。
クラインは真実を知って
ショックを受けているのに
ラティルには
のらりくらりとかわされ、
彼女が自分のことを
好きではなかったと知って
深く傷ついている上に、
自分が誤解していたことで
それまでの行動を恥じているのに
サーナット卿には傷口に
塩を塗り込まれたクライン。
あまりにも、可哀そうすぎます。