773話 サーナット卿は、いまだにラティルの部屋の外に立っていました。
サーナット卿は自分に会うために
わざとあのようなことを
やっているのか?
なぜ、あそこで、
あのようなことを続けているのか?
ラティルはサーナット卿を
見つめました。
彼は、タッシールに
頷いて挨拶しました。
タッシールが何をすべきか指示すると、
彼は顔をしかめました。
そして、タッシールが去ると
すぐに短くため息をつき、
彼女がいる所に、
目をやりました。
視線が合うと、サーナット卿は
視線を逸らしませんでした。
感心したラティルは、
サーナット卿の言いたいことを
聞くことにしました。
ラティルは机の上のベルを鳴らすと、
入って来たのは、
秘書でも使用人でもなく、
サーナット卿でした。
彼は、一日中、
中に入れてくれないのではないかと
思った。
到着してから40分ほど待たされたと
悪びれることなく、
笑顔で冗談を言いました。
しかし、ラティルは
冗談に付き合う気分に
なれなかったので、
あそこで何をしていたのかと、
鋭い声で尋ねました。
サーナット卿は扉を閉め、
少しラティルに近づくと、
彼女に赤ちゃんができたという
話を聞いたと告げました。
ラティルの思った通りの
展開になりました。
サーナット卿は、
自分も子供の父親かもしれないと思い、
ここに来たと言いました。
それが嫌なのか、嬉しいのか。
悩んでいるのか。
ラティルはサーナット卿の気持ちが
気になりましたが、
知りたくありませんでした。
それを知ったところで、
どうなるのかと思いました。
ラティルは知らんぷりをして、
サーナット卿が
自分を祝福しに来てくれたようだと
わざとらしく呟きました。
サーナット卿は
目をパチクリさせ、
ラティルに、そう思っているのかと
尋ねました。
彼女は、
それ以外に何か言うことがあるのかと
尋ねました。
ラティルは、
サーナット卿との最初の夜と、
彼が赤ん坊の父親である可能性を
わざと思い出さないふりをしました。
サーナット卿は、
まるで死んでしまったかのように、
何も言えませんでした。
ラティルは邪悪に笑いながら、
お祝いしてくれるために、
40分も待ってくれてありがとうと
言いました。
サーナット卿は返事をしませんでした。
ラティルは、
もっと彼を困らせたいと思いました。
ラティルは、
彼が礼服を燃やしたことを
知った時と同じような気持ちに
なっていたので、その気持ちを、
サーナット卿と
分かち合いたいと思ったからでした。
しかし、サーナット卿が、
ラティルが
知らないふりをしろと言うのなら、
そうすると言ったので、
その不愉快な満足感は、
小さくなってしまいました、
ラティルは、
それはどういう意味かと尋ねると、
サーナット卿は、
ラティルに身に覚えがなければ、
自分を40分も放っておかないと
言いました。
ラティルは、
タッシールと話すために、
その時間を確保していたと
返事をしましたが、サーナット卿は、
タッシールと話し始める前に
自分を中に入れてもくれなかった。
いつもと違う行動だったと
指摘しました。
ラティルは机から立ち上がり、
サーナット卿の鼻先に近づきました。
彼との身長差で、
ここまで怒ることがあるのは、
どうしてだろうかと考えました。
ラティルは再び後ろに下がると、
この子は自分の子で、
サーナット卿の子ではない。
だから、どうかこの件には
一切関わらないで欲しいと
きっぱり告げました。
サーナット卿は顔をしかめ、
どうして、
そんなことができるのか。
自分にできないことがあるのか、
自分は、そういうことが得意だと
言いました。
そして、少し怒ったような顔で、
誰かがラティルの言葉を聞いたら、
自分が責任を取っていない子供が
2、3人いると思われると
言いました。
ラティルは、父親がいないのは、
サーナット卿のせいだと反論すると、
彼は、自分の子供なのかと
息を止めて尋ねました。
ラティルは不機嫌になり
顔に皺を寄せて、
子供の父親が10人もいるので
分かるわけがないと叫びました。
すると、サーナット卿は、
皇子、大神官、タッシール、ラナムン、
ゲスターは別として、
他の5人の候補は
誰なのかと尋ねました。
いるわけがない。
そういう意味で、
10人いると言ったわけではないと
ラティルは思いました。
そして、彼女は微笑み、
扉に向かって手を振りながら、
サーナット卿だと答えました。
執務室を出たサーナット卿は、
宮殿の正門まで、
休むことなく歩きました。
薄着で帰宅した彼を見て、
執事は、
何があったのかと尋ねましたが、
サーナット卿は、
彼を気にかけることなく、
赤ん坊のことには触れずに
自分の部屋へ直行しました。
しかし、彼は
落ち着くことができませんでした。
ラティルのお腹の中に
自分の子供がいるのなら、
彼は、その子の面倒を見る権利も
義務もありました。
それなのに、なぜ彼女は
彼を止めるのか。
サーナット卿は、
その答えを知っていました。
彼はポケットに手を入れ、
礼服のボタンを取り出しました。
それを拾って以来、
常に持ち歩いていました。
サーナット卿はボタンにキスをすると、
ポケットに戻しました。
悪意のある快楽の欠点は、
口の中に苦い味が残ることだと
ラティルは思いました。
彼女は仕事に没頭し続け、
会議を開き、報告書を読み、
秘書たちと話し、
古代皇帝の記録を調べ、
訓練所に行って
兵士たちの様子を確認し、
百花を呼び出し、部隊の中で
全てがうまくいっているかどうか
尋ねました。
最後にラティルは、
衝動的に皇女のところへ行き、
弟か妹が欲しいかと尋ねました。
皇女は、ただ笑っていました。
ラティルは、
皇女は危険を感じた時だけ
攻撃するというラナムンの考えに
脅威を感じることなく、娘を抱き上げ
そして周りを見渡した後、
寝かせました。
皇女はラティルに微笑みかけました。
すでに小さな歯が生えていました。
ラティルはハンカチで、
娘の唇についている涎を拭いました。
ラティルは安心しました。
会長が赤ん坊の過去の記憶を
呼び覚まさない限り、
この子はアニャドミスではなく、
ラティルとラナムンの赤ちゃんであり、
彼に似ているけれど、
笑顔が素敵な赤ちゃんでした。
その時、ラナムンが哺乳瓶を持って
部屋の中に入って来ましたが
ラティルの背中を見て
一歩下がりました。
そして、彼はしばらく扉に寄りかかり
ラティルがフローラを愛撫するのを
眺めました。
ラナムンは、
彼と彼女と娘。側室のいない
彼ら3人だけの家族という
シンプルだけれど、
実現不可能な幻想を抱きました。
翌日、ラティルは気持ちが落ち着き、
秘書にレアンを呼び出させました。
彼女は、この後会議があるので、
彼と話すには良い機会でした。
レアンは、
ラティルが今年も健康であるようにと
温かい声で語りかけました。
ラティルは、
健康で過ごしていると答えましたが、
体が弱いので
気をつけなければならないと
返事をしました。
レアンは、眉をひそめて笑いました。
ラティルはレアンに、
新しいバイオリンを買ったかと
尋ねました。
彼は、買ったと答えました。
パーティの時、
ギルゴールはレアンのことを
バイオリンと呼んだので、
レアンの支持者は、
それを侮辱だと受け止めました。
ラティルは、
そんな風に馬鹿にされるのは嫌だと
証明しなければならないと
告げました。
すると、レアンは、
ラティルの妊娠を祝福し、
その子も特別なのかと
話をそらしました。
ラティルは、
特別の意味が分からない答えました。
その場に残っていた秘書たちは、
その場を離れるつもりで
顔を見合わせましたが、
ラティルは、彼らに
その合図をしませんでした。
レアンと一緒にいる時に
目撃者がいることで、
大きな助けとなるからでした。
レアンは、なぜラティルが
自分を呼び出したのかと尋ねました。
ラティルは、彼の支持者たちが、
よくレアンの結婚について
話しているからだと返事をしました。
レアンは、まさかラティルが
そんな話をしてくるとは
思わなかったので驚きました。
彼らがその問題について
話している間、
まだそこにいた秘書たちは
再び顔を見合わせました。
彼らは一般人であり、
兄妹の間の
ナイフが飛び交うような言葉を
理解できませんでした。
ラティルは、
タッシールの計画を考えながら、
レアンに
結婚を考えている女性はいないのかと
親切そうに尋ねました。
彼女はレアンに相手がいないことを
知っていましたが、
彼が一瞬顔をしかめたのを見て、
もしかして、好きな人がいるのかと思い
ラティルは目をしばたたかせました。
これまで、高貴な令嬢たちは、
誰もレアンの恋人になったことはなく、
今でも彼は、誰かと交際することに
あまり興味がなさそうでした。
レアンは考えておくと返事をしたので、
ラティルは、
そんなの話にならないと思いましたが
考えておいて、1週間後に
返事をするようにと言いました。
レアンはすぐに立ち上がり、
その場を去りました。
彼が来てから、
10分しか経っていませんでした。
彼は何を企んでいるのかと
ラティルは思いました。
ラティルの心配とは裏腹に、
レアンは今のところ
何の予定もありませんでした。
しかし、
ラティルが結婚の話をした途端、
レアンは名前も知らない
女性のことを思い浮かべました。
2度ほど会っただけの、その女性は
下女か職員のようでしたが、
それ以上のことは
分かりませんでした。
そして、それ以来、
彼は彼女を見かけなくなりました。
時折、彼女を見かけた場所を
通りかかるけれど、
そこに彼女の姿はありませんでした。
レアンは顔をしかめて、
どうして名前も知らない女のことを
思い浮かべるのだろうかと
不思議に思いました。
ラティルにとって、
レアンの結婚は絶好のチャンスで
理由もなくそんな話を
持ち出すわけがない、
何か企みがあるに違いないと
彼は思いました。
レアンはこの件に関して
覚悟を決めました。
彼女は平民に違いない、
昔は平民との結婚は
許されなかったけれど、
ラティルはそういうのが
好きなのかもしれないと
彼は思いました。
しかし、
彼は彼女の名前も知りませんでした。
それに彼女は人妻の可能性もあるし、
子供もいるかもしれないと思い、
少し立ち止まって
気持ちを落ち着かせました。
そして、
自分は彼女に一目惚れしたわけでもなく
彼女が自分のことを
好きになったわけでもない、
くだらないことを考えてしまったと
思いました。
レアンが自分の部屋に戻ると、
側近がやって来て、
大丈夫かと聞いて来ました。
レアンは、
ある人を探したいと言って、
以前、会った女性のことを
話そうとしましたが、
その時、逮捕されたもう1人の側近と
一緒だったことを思い出しました。
彼は、
黒髪でうなじまでのショートヘア、
とても印象的な女性だと
説明したところ、側近は
照れ臭そうに、
「えっ?」と聞き返して来ました。
とても曖昧な説明だと思い、
一旦、レアンは口を閉ざしましたが
おそらくこの宮殿で、
使用人として働いているはずなので
彼女を探すように指示しました。
レアンは、
自分に見つけられないものは
ないけれど、
自分は、ただ彼女を探しているだけで
見つける必要はないと思いました。
しかし、ラティルは自分に、
1週間考える時間を与えてくれたと
思うようになりました。
レアンは父親似のラティルのように
美しい人を見て、ときめくこともなく
今まで、誰とも
付き合ったことがないとしたら、
人を好きになるという感情が
どういうものなのか、
分からないかもしれません。
レアンはアニャに
一目惚れをしたと思いますが、
彼女が先代ロードの親友で
吸血鬼であることを知ったら
どうするのか、とても気になります。
サーナット卿は、
ラティルのお腹の中に
自分の子供がいるかもしれないと
知った時に、
嬉しいと思ったかもしれませんが
義務と責任を前面に出しているのは
好きではありません。
タッシールのように素直に喜んだり
ラナムンのように、
家族3人だけの生活を望んだりと
自分の感情に正直になればいいのにと
思います。