722話 カルドンが泣きながら、ラティルの所へやって来ました。
◇血の匂い◇
自分の主人のように
高慢な侍従が泣いているので、
ラティルは心臓がドキドキしました。
彼女はカルドンに
なぜ泣いているのか。
どこかラナムンの具合が悪いのかと
尋ねました。
執務室の前に立っていた
警備兵たちが、
チラチラ、こちらを見ていました。
カルドンは首を素早く横に振ると、
ラティルにしか聞こえない小さな声で、
ラナムンに、他の人には知らせず
皇帝だけを連れて来るよう言われたと
答えました。
ラティルは、
とても具合が悪いのかと尋ねました。
カルドンは、危急だと答えました。
ラティルは、
ハーレムへと走り出しました。
カルドンもすぐにその後を追いました。
ラナムンの部屋に到着したラティルは
ラナムンの名を叫びながら、
すぐに扉を開けると、 返事より先に
血のにおいがプーンとして来ました。
◇気になる女◇
レアンは、
空をじっと見つめている女性を
じっと見つめました。
風が吹く度に、
彼女の襟足にかかっている髪が
そっと乱れました。
肩がぶつかって、
険悪な言葉を吐いた時とは違い
今の彼女は、壊れそうなくらい
悲しい表情をしていました。
レアンはつられて、
女が見つめる方向を一緒に見ました。
ぽっかり雲が浮かんでいる
普通のきれいな青空でした。
レアンは手を振って
腹心に退けと指示すると、
ゆっくり、そちらへ近づきました。
そのまま通り過ぎても
良かったけれど、
ふと、女に話しかけたくなり
何を見ているのかと尋ねました。
何をあんなに熱心に見ているのか、
なぜ空を見ながら
あんなに悲しい表情なのかが
気になったからでした。
その言葉に、
チラッと女はレアンの方を見ました。
相変らず女は、レアンが誰なのか
分からないようでした。
レアンは優しい声でもう一度、
何を見ているのかと尋ねました。
本当は、彼女が空を見ながら
何を考えていたのか
聞きたかったけれども、
それは、とても私的な質問のように
感じられました。
女は返事の代わりに
レアンをじっと見た後、
さっと身を翻して走って行きました。
レアンは、
思わず手を伸ばしましたが、
姿勢を元に戻すと笑いました。
名前も知らない人に
一体、自分は何をしているのだと
思いました。
腹心は、
とても無礼な女なので、
誰なのか調べて来ようかと
提案しましたが、
レアンは首を横に振り、
女とは逆の方向へ、
再び歩き出しました。
◇皇女の養育者◇
ラティルは強い血の匂いに
鼻を塞ぎましたが、
すぐに手を離しました。
ザイシンがベッドのそばに立っていて
ラティルに向かって
ぺこりと頭を下げました。
ラティルは、
誰の血の匂いなのかと尋ねると
ザイシンのそばまで
素早く歩いて行きました。
青ざめたラナムンが
ベッドに横たわっていました。
意識がないのか、
ラティルが来たのに、
瞼さえ震えませんでした。
ラティルは彼の額に
手を当ててみました。
熱はありませんでした。
ラティルは声を低くして、
ザイシンに、
どうしたのかと尋ねました。
ザイシンはカーペットに
目を落としました。
彼の代わりに、カルドンが
皇女のせいだと、後ろで答えました。
ラティルは後ろを振り向きました。
カルドンは拳を握りしめて
ゆりかごを見つめていました。
皇女のせい?
とラティルが聞き返すと、
カルドンは、
ラナムンが誤って
皇女の額を扉枠にぶつけた。
ところが、いつもと違って
刃が手首の付近ではなく、
首から出て来たと答えました。
袖の内側から、
突然現れた刃のことを思い出した
ラティルは、
それが、首から出たかと思うと
背筋がぞっとしました。
カルドンは、
今日、ザイシンが神殿に行かずに
ここにいてくれて良かった。
もし、そうでなかったらと、
想像するだけでも、ぞっとすると言うと
涙をぽたぽた流しながら
両手で顔を包み込みました。
少し忌まわしいところがあるにしても、
お坊ちゃまがとても大事にしているので
絶対に悪いことは
言わないようにしていた。
忌まわしい面を除けば、
とても皇女は愛らしいから。
毎日、お坊ちゃまの体に
傷がつくのを見ながらも、
大きくなれば良くなると信じていた。
けれども、今日の出来事を見ると、
とても怖いと怯えました。
カルドンも知っていたのか。
確かに、
ラナムンを毎日見ていないラティルも
彼の手の状態を知っていました。
毎日ラナムンといるカルドンが
知らないはずがありませんでした。
ラティルは、ゆりかごに近づきました。
赤ちゃんは、
この状況がわかっていないのか、
人形を抱いて、
一人で遊んでいました。
ラティルが
皇女をぼんやりと見ていると、
後ろからザイシンが近づいて来ました。
彼は、
皇女が害を及ぼすのは
ラナムンだけだと言いました、
ラティルは「自分にも」と
言おうとしましたが、
チラッとカルドンを見ました。
そうでなくても怯えているカルドンは、
皇女が皇帝にも
害を及ぼしたということを知れば、
耐えられないかもしれないと
思いました。
ザイシンは、
自分の部屋で皇女を養育した方が
いいのではないかと提案しました。
カルドンは、ザイシンの言葉に
素早く頷きました。
早く、この恐ろしい赤ちゃんを
片付けて欲しいという顔でした。
前回、来た時は、
カルドンは赤ちゃんを
可愛がっている様子でしたが、
今日の、この事件のせいで
完全に愛想が尽きたようでした。
その時、後ろから、
だめです。
と断固たる声が聞こえて来ました。
ラティルが振り向くと、
意識のなかったラナムンが、
ゆっくりと上体を起こしていました。
ラティルは、
すぐにラナムンに近づき、
もう少し
横になっているようにと言って
彼の肩を押さえ、再び寝かせました。
ラナムンは、
おとなしく横になりながらも、
ラティルの手を握りながら
だめです、陛下!
と訴えました。
大きくて柔らかい手が
ラティルの手を完全に包み込みました。
ザイシンは、
そうはいっても、
とても危険だと反論しましたが、
だめです!
とラナムンがきっぱり言うと、
ザイシンは眉を顰めました。
ラティルは、
自分もそれは反対だと言うと、
もう一方の手で、
ザイシンの腕を叩きました。
その言葉にザイシンは、
目を丸くしました。
ラティルは、今はラナムンだけを
攻撃しているからといっても、
ずっとそうだという保証はない。
最初は、せいぜい手首を
攻撃しているだけだと
思っていたけれど、
今日はそうではなかったと
主張しました。
しかし・・・
と、ザイシンは
何か反論しようとしましたが、
先に、ラナムンが、
皇帝の言う通りだ。
そこまで、
迷惑をかけることはできないと
言いました。
ザイシンは、
口をパクパクさせながら、
だからといって、
このままにしておくわけには
いかないのではないかと尋ねました。
ラティルは、気が進まなかったけれど
自分が連れて行くと、
無理矢理、口を開きました。
ラナムンとザイシンが
同時にラティルを見つめました。
ラナムンは、
それもダメだと反対しました。
ラティルはカルドンに
出て行くよう、手で合図をしました。
焦った様子で
様子を窺っていたカルドンは、
ぺこりと頭を下げて退きました。
ラティルは、
ずっと一緒にいるわけではない。
ラナムンの言うように、
子供がある程度、
自分をコントロールできるまで
一緒にいるということだ。
自分はラナムンより丈夫だからと
説明しました。
ラナムンは、
扉が確実に閉まったことを確認した後
ダメだと、素早く拒否し、
皇女は対抗者なので、
皇帝にとっても危険だと訴えました。
ザイシンは目を丸くして
ラティルを見ると、
皇女は陛下にも・・・?
と尋ねました。
ラティルは、
一度、そういうことがあったけれど
大丈夫。
皇女が対抗者でも、自分の命を奪うには
対抗者の剣が必要だ。
この子は剣を持っていないからと
答えました。
しかし、ラティルは
そう言っておきながら、
不吉な予感がしました。
この子は、元々なかった刃を作り出す。
もしかして、この子は、
そうやって作った刃を、
対抗者の剣にしないだろうかと
不安になりました。
しかし、ラティルは
違うと思う。
対抗者の剣は、明らかに別にあると、
不安が高ぶるのを抑えました。
それから、自信満々に笑いながら、
自分のお腹に穴が開いた時も、
自分は元気だったと主張しました。
ラナムンは、
長い間意識を失っていたと
訂正しましたが、ラティルは、
とにかく生きていた。
しかし、ラナムンが、
自分と同じ目に遭えば、
ラナムンは死ぬと言いました。
彼は口をパクパクさせた後、
再び、口を閉じました。
それは否定できない真実でした。
しかし、すぐに彼は首を横に振り、
上体を起こすと、
皇帝を危険にさらすことはできない。
自分が面倒を見ると大口を叩いたので
自分が責任を負うと主張しました。
しかし、ラティルは、
大丈夫。
皇女は自分の子供でもあるからと
返事をしました。
しかし、ラナムンは、
自分が一緒にいる。
そうでなければ、他の人たちにも・・
と青白い顔で呟くと、
ラティルは、お腹の中が
捻じれるような感じがしました。
彼の肌の下に青い血管を見つけると、
息詰まるような気持ちが
さらに大きくなりました。
ギュッと一塊になった怒りが
はっきりと感じられました。
一体、なぜこんなに腹が立つのか、
ラティル自身も分かりませんでした。
ヨレヨレの毛糸で作った毛玉のように
ラティルの心の中でも、
様々な感情が勝手に絡み合って
固まってしまったようでした。
ラナムンが、
何かずっと話していましたが、
その言葉が、
一つも耳に入って来ませんでした。
黙って!
固く団結していた感情は、
結局、口の外に飛び出しました。
ラナムンは口を閉じて、
驚いた目でラティルを見つめました。
深刻に悩んでいた皇帝が
突然、目をギラギラさせて
睨んでいるのが不思議でした。
ザイシンも当惑した表情で
ラティルを見ると、
彼女に、大丈夫かと尋ねました。
ラティルは、ラナムンを呼ぶと、
今、自分は皇女ではなく、
ラナムンが一番大事だと言いました。
ラナムンの目が、
いつもの2倍は大きくなりました。
その中で、
彼の灰色の瞳が揺れました。
信じられないといった目を
していました。
しかし、口はつぐんでいました。
ラティルは、
心の中を打ち明けるや否や、
落ち込んで、
一緒に静かになりました。
ラナムンとラティルは
互いに見つめ合っていたので、
隣に立っているザイシンの表情を
確認することができませんでした。
ザイシンは、
ラナムンとラティルを交互に見ると
頭を下げて表情を隠しました。
重苦しくて居心地の悪い沈黙が
赤ちゃんの泣き声で破れました。
ラティルは、
これ見よがしにゆりかごに近づき、
赤ちゃんを、さっと抱き上げると、
前は、小さかったから
危なっかしかったけれど、
今は、このように抱っこできる。
だから自分が一緒にいると
言いました。
しかし、ラナムンは
ラティルの腕が
絶え間なく震えていると
言い放ちました。
しかし、いつもと違って、
冷たく聞こえませんでした。
ラティルは腕を震わせながらも、
赤ちゃんを抱えて背中を叩き、
私もよく面倒を見られるでしょう?
と主張しました。
ラティルの手が
ブルブル震えるのを見たザイシンは、
寝る時間も足りない皇帝が、
皇女を養育するのは現実的に無理。
でも、皇女をここに置くのも危ない。
だから、いっそのこと
皇帝の部屋の近くに
ベビールームを作って、
自分と皇帝とラナムンが
交互に面倒をみるのはどうかと
提案しました。
ラナムンは反論しようとしましたが、
ザイシンは、
先ほども話そうとしたけれど、
自分は赤ちゃんに攻撃されても
すぐに、自分で治療できると、
素早く付け加えました。
◇ただ笑ってください◇
3人は、もう少し話をして
結論を出した後、
皇帝は子供部屋を準備すると言って
出て行き、ザイシンも
皇帝に付いて行きました。
廊下で待っていたカルドンは、
すぐに部屋の中に入って来て、
ラナムンに大丈夫かと尋ねましたが
ラナムンの表情が、先程より、
一段と良くなったことに
気づきました。
カルドンは、ラナムンに
そのことを指摘すると、
ラナムンは、
そうですか?
と淡々と話しましたが、
カルドンは
ラナムンとは長い付き合いなので
彼はラナムンが
動揺していることに気づきました。
しかし、彼の気分は
悪そうに見えませんでした。
カルドンは、
皇帝は何と言ったのかと尋ねると
ラナムンは、
皇帝の寝室の近くに
赤ちゃんの部屋を作ることになったと
答えました。
カルドンは、
大丈夫ですか?
お坊ちゃまは皇女様を・・・
と心配しましたが、ラナムンは
赤ちゃん部屋の隣に
自分の部屋も作ってくれると言ったと
話しました。
カルドンは目を見開いて、
皇帝の隣の部屋に移るのかと
尋ねました。
ラナムンは、それを否定し、
そこに、もう一つ部屋を作ると
答えました。
カルドンは、
それでもいい。皇配だって、
皇帝の隣の部屋では過ごさないと
言うと、
じっとしていられなくなって
動き回りました。
ラナムンは片手で口元を隠し、
目を半分ほど閉じました。
カルドンは、ラナムンが
このことで喜んでいるのだと思い、
一緒に嬉しくなりました。
しかし、
ラナムンが気にしているのは
部屋の位置ではなく、
自分が一番重要だと
言われたことでした。
ラナムンは
しきりに上がろうとする口の端を
下ろしました。
皇女より
自分の方が好きだという言葉に
こんなに喜んではいけないと
思いました。
しかし、みだりに上がる口の端を
コントロールするのは
容易ではありませんでした。
ラナムンは
無理矢理、口元を下げようと
努力しました。
彼は皇帝の心をとらえ、
皇配なるためにここに来たので
皇帝の一言に、
このように振り回されては
いけませんでした。
しかし、カルドンはラナムンに
お坊ちゃま、ただ笑ってください。
その方がいいと思います。
と言いました。
ラティルは、
あまり皇女と接触していないし、
皇女は
アニャドミスの生まれ変わりなので
皇女よりラナムンの方が
大事だと言うのは
当然と言えば当然なのでしょうけれど
そのような言葉を、ラティルから
一度も言われたことがない
ラナムンは、純粋に
喜んでしまったのでしょうね。
本当にラティルは側室たちに
罪深いことをしていると思います。
感情を押し殺そうとしてる
ラナムンへ
「笑ってください」と言う
カルドンは、
心からラナムンのことを
気遣っているのだと思いました。
今さらながらですが、
ロードは、
元々、癒しの力を持つ
大神官が堕落した姿なので、
人間は癒せないけれど
自分自身や、吸血鬼など
人間以外のものを
癒せるのではないかと思いました。