97話 エルナとビョルンはシュベリンに戻って来ました。
うとうとしていたエルナは、
ノックの音に驚いて目を覚まし、
その拍子に落とした筆が
机の下に転がり落ちました。
よりによって
赤い染料が付いていたので、
エルナは慌てて返事をしながら、
布の切れ端を掴むと
カーペットの上にうずくまって、
汚れを拭きました。
その間に、中へ入って来たリサは
驚いた顔でエルナに駆け寄り、
彼女を立ち上がらせ、
染料がついた布切れを奪いました。
リサは、なぜエルナが
メイドの仕事をするのかと
尋ねると、エルナは、
自分のせいだ。
また、うとうとしてしまったからと
答えました。
リサは、
そろそろ暑くなって来たし
人は疲れたら
少しくらい居眠りするものだと
エルナを慰めました。
先日、行われたオペラ公演で
エルナが
居眠りしている姿を見せたことが
発端となり、
めっきり眠ることが
多くなったエルナをめぐり、
再び人々は、
あれこれ騒ぎ始めました。
もちろん、
居眠りは良くないけれど、
だからといって、
大きな非難を浴びるほどの
ことでもないのに、好事家たちは、
野蛮人でも見たかのように、
大騒ぎしながら
大公妃をけなしました。
誰よりも上品で優雅な淑女だった
グレディスとの比較も
欠かしませんでした。
そして、グレディスの体調が
悪くなったという噂が
出回り始めてからは、
エルナへの非難が
一層激しくなった感じでした。
リサは眉間にしわを寄せながら、
机の上に散らばっている
造花の材料や作業道具を見回すと、
大公妃が勤勉過ぎるからいけない。
無理をするから体が耐えられない。
暇な時にでも
少し休まなければならないのにと
注意しました。
エルナは、大公邸の人たちに
夏の花もプレゼントしたらどうかと
思った。
この前、プレゼントした造花を
喜んでくれたからと
涼しそうに笑いながら答えました。
リサは、
確かにそうだけれど、
なぜ大公妃が、
このような苦労をするのかと
尋ねました。
そんなことをしても、
どうせ何の役にも立たないとは
どうしても言えなかったけれど、
エルナはすでに知っているような顔で
微笑みました。
リサは、
プレゼントをもらっておきながら
大公妃の悪口を言う使用人たちの名前を
言いたいところでしたが、
ぐっと我慢しました。
やってみたいというエルナの気持ちが
理解できないわけではないし、
シュベリン宮殿の塀の中に限っては、
最初に比べて、大公妃の肩を持つ人が
増えたからでした。
リサは、
造花作りは少し後でやることにして
プレゼントを見に行こう。
博覧会会場で、王子が購入した品物が
今ちょうど到着した。
見たら本当に驚くと思うと、
嬉しそうな顔でエルナを催促しました。
ボートの練習をしている
元気いっぱいの青年たちの声に
屈することなく耐え抜いた
ビョルンでしたが、
寝室の扉を勢いよく開けて、
彼を呼びながら駆け寄って来る
エルナの切羽詰まった叫び声は
彼らの気合の入った声を
圧倒していました。
ベッドの上に座ったエルナは、
力いっぱい彼の肩を揺すり始めたので
これ以上耐えられなくなった
ビョルンは長いため息をついて
目を開けました。
昨夜のポーカーが長びき、
日が昇る頃になって
ようやく帰宅したので、
ビョルンにとって今は真夜中なのに、
エルナは、そんなことを
考える余裕がない顔でした。
エルナは、博覧会会場が
どっとここへ押し寄せて来た。
全部、ビョルンが
買ったもののようだと話しました。
そのことだったのかというように
ビョルンは、苛立たしげに
知っていると、言い放つと
シーツを頭までかぶりました。
しかし、エルナは
少し話がしたいと言いました。
ビョルンは、どんな話かと尋ねると
エルナは、
プレゼントが多すぎると答えて
泣きそうになりました。
喜びに酔っている声ではないので
ビョルンは冷水でも
浴びせられたような気分になり
体を起こしてエルナを見ました。
彼女の表情は、期待していたのとは
随分、違っていました。
息を殺したまま
ビョルンの顔色を窺っていたエルナは
彼に面倒をかけてしまって
申し訳ないけれど、
あれを全て受け取ることはできないので
必要ないものは返品して欲しいと
躊躇いながら頼みました。
ビョルンは、
その答えを知りながらも
その理由を尋ねました。
エルナの瞳が揺れました。
彼女は、「人々が・・」と答えると
ビョルンは、ぐっと
こみ上げてきた怒りを抑えるように
目を閉じ、何度も深呼吸をしました。
そして、エルナが何をしようと、
どうせ人々は、
自分の好きなように考えて
騒ぎ立てると言いました。
彼の視線は冷たい刃のようでした。
ビョルンは、
最近になって、エルナが
めっきり評判を気にしていることと、
無意味な努力をしていることが
気に入りませんでした。
エルナは、
自分も分かっているけれど、
あえて非難の口実を作る必要はないと
怯えた顔で反論しました。
それらを買うのに払った
お金のことを考えたビョルンは
虚しく笑いました。
このような扱いを受けるには、
少し悔しい思いをするくらいの
金額でした。
一度ぐらい、
ただ喜んでくれればいいのに、
この女性は、
何をあげても戦々恐々としてて、
周りの顔色を窺うことだけに
汲々としている。
その理由を知らないわけではないけれど
猶更、ビョルンの気に障りました。
ビョルンは、エルナが
死んだようにじっとしていて、
ただ息だけして、
過ごすつもりなのかと尋ねました。
そして、エルナの顔を手で包み込むと
もしそうしたとしても、人々は、
エルナが何もしない無能な大公妃だと
悪口を言うだろうと告げました。
エルナは、改めて傷ついたような
表情をしましたが、
ビョルンは気にしませんでした。
これがシュべリン大公妃の人生で、
エルナではなく、
他の女性がこの席に座ったとしても、
大きく変わらなかったはずでした。
エルナは、
悪役というレッテルが貼られた
ビョルン・ドナイスタの
2番目の妻の役を
任せるために選んだ女性であり、
それに見合う代価を支払ったので、
エルナには、
この人生に耐えなければならない
義務がありました。
こんなことを
何度も思い起こす自分が滑稽なだけに
ビョルンは妻の未練がましい態度が
嫌でした。
彼は、
エルナが気を遣えば遣うほど、
人々は、より執拗で
残忍になるだけなので、
何と言われようと放っておいて、
自分の人生を生きればいいと
諭しました。
ビョルンもそうしているのかと
エルナは声を震わせながら
真剣に尋ねました。
エルナは、
ビョルンの言葉は正しく、
自分も心を鬼にして、
自分の人生に忠実でいればいいと
頭ではよく分かっていました。
しかし、聞こうとしなくても
耳に入って来るもの全てに
超然としているのは、思ったほど
簡単なことではありませんでした。
祖母の引き出しの中に
山積みになっていた
自分の記事を思い出すと、
なおさらそうでした。
穏やかな目で
エルナを見つめていたビョルンは、
自分はそうだと、
軽い口調で答えました。
確かに彼は、
自分へ向けられた全ての非難と憶測に
驚くほど無関心で、
他人がむやみにけなす彼の生き方は
自分のものではないと
思っているかのように
徹底的に傍観的な態度でした。
唇をパクパクさせていたエルナは、
結局、何も話すことができず、
頭を下げました。
それが気に入らないのか
ビョルンは、
彼女の顔を包み込んでいた手に
力を入れて、彼女の視線を上げると
だからエルナも耐えられる。
エルナが選んだ人生なのだからと
無情な命令を下しました。
そのような瞬間でも、
エルナの頬を触るビョルンの手は
柔らかでした。
彼の輝く美しい瞳の中に、
空前の贅沢な大公妃という
明日になれば街中を飛び交う
鋭い非難と視線が、
浮かび上がりました。
ビョルンが買い取った品物は、
エルナが博覧会会場で注目した
すべての物が、
この邸宅に運ばれて来たと言っても
過言ではなく、
あの落ち着いたフィツ夫人でさえ
驚愕するほどでした。
エルナは、
いくらか諦めの気持ちを込めて
ビョルンに謝った後、
注意深くお礼を言いました。
それは、間違いなく本心でした。
ビョルンは、
ようやくにっこり笑うと
エルナの顔を離しました。
そして、窓越しに聞こえてくる
漕艇選手たちの
熱っぽく、気合いを入れた声に
あの狂った奴ら!と悪態をつくと
ベッドから降りました。
彼の体を
ぼんやりと見守っていたエルナは、
一歩遅れて恥ずかしくなり
視線を避けました。
それが面白くて笑ったビョルンは、
ガウンを羽織って
川に面した窓に向かい、
窓枠に腰をかけて、
葉巻一本を唇の間に挟んだ瞬間、
エルナが近づいて来て、
なぜ、あの大きな象の彫刻を
買ったのかと尋ねました。
象と聞いて驚いたビョルンの眉間に
しわが寄りました。
自分が何を購入したかも
しっかり分かっていない顔でした。
一体、このような贈り物を
どのように受け取ればいいのか
エルナが混乱していると
執事が入って来ました。
彼はすぐに口を開くことができず、
困った様子で
エルナの方をチラッと見ました。
しかし、ビョルンは
顔色を窺いながら出て行こうとする
エルナを抱きしめながら
執事に話すよう命じました。
もう一度エルナを見た彼は、
特に何も言わずに、
報告書の入ったファイルを渡しました。
ビョルンは目を細めて、
ゆっくり、それを読み始めました。
注意深く彼の表情を見ていたエルナは
もしかして何かあったのかと
心配そうに尋ねました。
執事は、数回、咳払いした後、
視線を逸らしました。
ビョルンは「いやはや」と
淡々と答えるとファイルを閉じ
執事に目配せしました。
執事は報告書を持って
寝室を去りました。
ビョルンは、
大したことないと答えると、
平然と笑ってエルナに向き合いました。
しかし、エルナは、ビョルンが
良くない表情をしているけれど
本当に大丈夫なのかと、
彼女の父親の名前を見たはずがないのに
ずっと疑っている様子でした。
葉巻を置いたビョルンは、
老婆心に囚われている妻を
自分の膝の上に座らせました。
唇が触れ合うと、エルナは
ぎょっと肩を震わせましたが、
いつものように
彼を拒否しませんでした。
唇が触れて離れる度に、ビョルンは
大丈夫だと優しく囁きました。
それは嘘ではありませんでした。
ウォルター・ハルディの欲望は、
まだ制御可能な範囲内にあり、
その過程が
多少面倒で汚くはあるけれど、
近いうちに、その手綱を
しっかり握ることができるからでした。
自分にできることは
エルナもできると思い込んでいる
ビョルンは、
自分とエルナの精神的な強さが
そもそも違うことを
理解して欲しいです。
ビョルンが
エルナのための高価な買い物を
やめれば
エルナへの非難が少し収まると
エルナが思っているならば
我慢しろというのではなく、
エルナの望み通りに
してあげればいいのにと思います。
エルナがビョルンに望んでいるのは、
高価な物を買ってもらうことではなく
バフォードにいた時のように
一緒に過ごす時間を
作ってくれることだと
分かって欲しいです。
捨てた娘を金づるにして、
悪辣なことをしている
ウォルター・ハルディに
ビョルンが鉄拳を喰らわすことを
期待しています。