107話 アルセン公爵夫人の次は・・・
最近のビョルンは、
一種の挨拶のように
「エルナは?」と
使用人たちに質問するせいで
大公邸のすべての使用人は
大公妃の動線を把握しようと
努めました。
まともに答えられなくても、
問責を受けるわけではありませんが、
その瞬間、
何の役にも立たないものを見るような
王子の視線に、使用人たちは
大きな侮蔑感を覚えました。
今、王子から
その質問をされたカレンは、
大公妃は寝室にいる。
お風呂に入っていると聞いていると
あらかじめ準備しておいた答えを
無事に伝えることに成功しました。
ビョルンは頷くと
さらに歩幅を広げて廊下を横切り、
妻の部屋に近づいてからは、
徐々に本来の速度を
取り戻していきました。
突拍子もないことを
言い出したアルセン公爵夫人と、
差し出がましいことをした
レオニードに加えて、
ビョルン宛に送られて来た
バーデン男爵夫人からの手紙に、
しばらく孫娘を田舎の家に
滞在させたいと書かれていたのを
読んだビョルンは、
最後の忍耐心まで
使い果たしてしまいました。
離婚を望むなら受け入れると、
とても疲れた顔で
淡々と話していたエルナが
その手紙の上に浮かびました。
これからはエルナの祖母まで
動員して、
この家を抜け出するための
企みをするのだろうかと
ビョルンは考えました。
気配もなく開かれた
浴室の扉の向こうに姿を現した
ビョルンを見たメイドたちは
驚いて「王子様 !」と叫びましたが
ビョルンは気にせず
パーテーションの奥に向かいました。
それからビョルンは、
浴槽の前をふさいでいるリサを見下ろし
「退け」と冷たく命令しました。
リサは、
まだお風呂が終わっていないので
出て行って欲しいと言いました。
しかし、再び「退け」と命じる
ビョルンの声からは
微かな怒りがにじみ出ていました。
膝の裏がしびれるような
気がしましたが、
リサは退きませんでした。
彼女は、
エリクソン先生が、来月になるまでは
絶対に駄目だと言っていたと話すと
ビョルンは「え?」と
聞き返しました。
悲壮な様子で耐えるリサを見る
ビョルンの眉間にしわが寄りました。
しかし、それからリサが
顔を真っ赤にして、
もう少しだけ子供のことを考えて
忍耐を・・・と言うと、
その言葉の意味を理解したビョルンは、
リサは気でも狂ったのかと言って
そら笑いを爆発させました。
今、誰を、発情した獣の子だと
思っているのかと呆れましたが
リサは依然として深刻な顔でした。
ビョルンは、彼女をクビにしようかと
真剣に悩んでいると、
エルナはリサに大丈夫だと言いました。
彼女の声は、警戒する気配もなく、
落ち着いていました。
リサは、何か言い返そうとしましたが
エルナは、
大丈夫なので、
少し席を外してくれないかと
リサを言い聞かせました。
彼女は、渋々、下がりましたが
そんな中でも、
全く信用できないといった目で
ビョルンをチラッと見たので、
彼は本当にリサをクビにしようかと
もう少し具体的に悩んでいるうちに
リサは出て行きました。
ビョルンは、
ここまで勢いよく攻め込んで来た
理由をしばらく忘れたまま、
じっと妻を見つめました。
浴槽の端に、しゃがんでいるエルナは
今日に限って、
さらに小さく、細く見えました。
水に濡れた肌は、
夏の夕方の色に染まっていました。
ゆっくりと
下に向かっていたビョルンの視線が
水に浸かっている
平らなお腹の上で止まりました。
彼は、お腹はいつ膨らむのかと
言おうとしたこととは全く違う
馬鹿げた言葉を
無意識のうちに口にしてしまいました。
後で、それに気づきましたが、
ビョルンは気にしませんでした。
エルナは、
今でも、ほんの少し
膨らんで来たけれど、
主治医の先生の話では、
おそらく1、2週間くらい経てば、
はっきり分かるそうだと
少し当惑した表情で
もじもじ答えました。
ビョルンは、
まだ、よく分からないと言うと
窓に寄りかかったまま、
じっくりエルナを観察しました。
胸は、確かに分かるけれどと言う
ビョルンの視線が
エルナの胸の上で止まりました。
よく食べられず、
前よりやせた肩のせいで、
その変化が
より鮮明に感じられました。
改めて頬を赤らめ、
ビョルンの視線を避けていたエルナは
両膝を抱えながら、
深く頭を下げました。
蘇った妻の警戒心が、
ビョルンをここまで来させた理由を
思い出させましたが、
すでに怒りは色褪せていました。
興奮が収まってから考えてみると、
エルナは、自分の祖母を
そのように利用する女性ではないし
バーデン男爵夫人も、
妊娠した体で気苦労をしている孫娘が
心配なだけだということが
理解できたので、
ビョルンは虚しくなりました。
息を整えたエルナはビョルンに
早く話してと言うと、
困った顔で彼を見上げました。
胸を見るのをやめたビョルンは
ゆっくりと顔を撫で、
手を下ろしました。
力を入れて拳を握ったり
緩めたりを繰り返すうちに、
何度か、低いため息が漏れました。
クビにしようとしたメイドに
ふと会いたくなる、
救いようのない、ろくでなしにでも
なったような気分でした。
ビョルンは、
夕食を一緒に食べよう。
準備させるからと、
思いもよらない言葉を
突然、口にすると、浴室を出ました。
突然、扉を開けると、
その向こうで待機していた
メイドたちが、
身震いしながら引き下がりました。
疑いの目を向けるリサの横を
通り過ぎるビョルンは、
いつもと変わらない歩き方で
妻の部屋を去りました。
扉が閉まる音が
背後から聞こえて来ると、
自然と失笑が漏れました。
頭のおかしい奴だと
そら笑いをしながら呟いたビョルンは
廊下を歩き始めました。
久しぶりに、
大公夫妻が共にする夕食の食卓は、
大噴水と庭園が見下ろせる
バルコニーに用意されました。
前もって来ていたビョルンは、
優しい視線と笑顔で
エルナを迎えてくれました。
まるで何事もなかったような
甘い嘘の日々に戻ったような
瞬間でした。
虚しい気分を消すように、
エルナは、この男が望む
明るい笑みを浮かべるために
努力しました。
ビョルンが望むものも、
自分が与えられるものも、
今はその一つだけだからでした。
そして、
ぼそっと交わされる話は優しく、
料理も美味でした。
エルナが、スズキ料理の
最後の一口を口に入れた時、
男爵夫人が手紙を送って来たと
ビョルンが、想定外の話を
持ち出したので、
食べ物を噛むのを忘れたエルナは、
目を丸くして
ビョルンを見つめました。
ビョルンはバーデン男爵夫人に
しばらくエルナをバーデン邸で
過ごさせてもいいかどうか
聞かれたと話しました。
気が弱くなるのが嫌で、
考えないように努力してきた
祖母の懐かしい顔が
蝋燭の光の中に浮び上がりました。
祖母と一緒にいたい気持ちは
切実でしたが、結局は
嘘をつくしかありませんでした。
去年の夏のスキャンダルで
心臓に無理が来て倒れたのに、
孫娘の置かれた状況を
直接、見たら・・・
それを想像するだけでも
目の前が遠くなりました。
それよりは、むしろ遠い所で、
適度に薄められたニュースだけで
この事に接した方が
良いと思いました。
けれども、面目なくて
どうしても言えなかった
バフォードに行きたいという
その願いが、
ビョルンの口から出てくると、
エルナは
胸がどきどきし始めました。
久しぶりに感じる
気持ち良いときめきでした。
急いで水で食べ物を流し込んだ
エルナは、祖母に返事をしたのかと
尋ねました。
ビョルンは頷いて
ワイングラスを握ると、
やはり、ここにいた方がいいと思うと
返事をしたと答えると、軽く笑って、
ワインを一口飲みました。
そして、
あの奥深い田舎より、
いつでも主治医を呼べる
ここの方が、
子どもにとってもいいし
弱った体で、バフォードまで
長い旅をこなすのは無理があると
言いました。
ビョルンの笑みを浮かべた赤い唇が
蝋燭の光を浴びて煌めく一方、
そんなビョルンを見るエルナの瞳は
空っぽの井戸のように深くなりました。
エルナは、
静かに笑いながら頷きました。
ビョルンの言葉はすべて正しく、
それが最も理性的な判断であり、
子供のための道だということを
エルナは十分に
納得することができたので、
ただ受け入れればいいだけでした。
ビョルンは、
代わりに男爵夫人を
ここに招待すると言いましたが、
エルナは、それを断り、
大丈夫。
自分は、このままが好きだと
返事をすると、
さらに明るい笑顔を見せました。
このように、簡単に軽やかに
言葉が飛び交うと、
すれ違いざまの視線一つや
短い返事の一言も得るのが難しくて
気をもんでいたこの1年が
突然虚しくなりました。
ビョルンの良い妻になる道は
結局、このように簡単だったのに
一人で茨の道をかき分けながら、
道ではない道を、
激しく彷徨って来ました。
ビョルンは、エルナを呼ぶと、
彼女は、
本当に大丈夫だと言って、
ビョルンが、
たくさん気を使ってくれたことに
お礼を言うと、
ビョルンから目をそらしました。
ちょうど
次の料理が出て来たので、
突然の静寂が与えたぎこちない雰囲気は
それほど長くは続きませんでした。
いつもと全く同じとは
言えませんでしたが、
それでもエルナは
いっそう明るくなった笑顔を
見せました。
多分に形式的な笑いだと知りながらも
ビョルンは、
特に何も言いませんでした。
すぐに、以前のように戻るのは
難しいという事実を
受け入れることにしたビョルンは、
空のグラスを満たしました。
そのグラスを空にし、
再び満たした後、視線を上げると
じっと噴水台を見下ろしている
エルナが見えました。
風になびく髪の毛と水色のリボン、
か細い体を包んだ
白いリネンのドレスから、
ビョルンは長い間
目をそらすことができませんでした。
エルナと結婚する決心をした時に、
適正な線の中にいれば受け入れ
その線を越えたら片付けると
すでにウォルター・ハルディの処分を
考えておきました。
しかし、どこにも
今回のようなケースは
存在しませんでした。
ウォルター・ハルディのせいで
離婚をする気など、
初めからありませんでしたが、
このように熱心な後始末をする意志も
やはりありませんでした。
ただ自分の人生から切り取った後、
忘れてしまえばいいと思い、
エルナの立場なんて
考えたことがありませんでした。
彼のそばで、
どんな苦難を経験したとしても、
それはあの女性が持つことができる
最善の人生だろうからと
思っていました。
彼は何度かグラスにワインを注いでは
飲み干しましたが、激しい喉の渇きは
なかなか解消されませんでした。
その瞬間にも、ビョルンの視線は
彼を見ないエルナに向かっていました。
ウォルター・ハルディを
刑務所から引き出すために、
少なくない和解金を支払ったり
この都市を離れて定住する田舎で
ハルディ一家が
どうにか生活できるほどの
基盤を用意する時、
ビョルンは悩みませんでした。
なぜ、そうしたのか
理解できなかったけれど、
エルナのことばかり
考えていたからだと分かりました。
ウォルター・ハルディが
刑務所へ行っても、残った妻子が
路頭に迷っても、
彼らはエルナではないので、
ビョルンは気にせずにいられたけれど
自分の妻として生きていく
この女の残りの人生が、
少しは苦しくないことを願いました。
グレディスの名前の影は
手の施しようがないとしても
愚かな父が残した染みは
いくらでも消してあげることが
できました。
だから、夢を見るように
自分を見るこの女性の目と
笑顔を手に入れるために
とんでもない費用を
喜んで支払いました。
それなのに、
エルナはどうしてなのか。
いつの間にか
ワインの瓶が底をついたことを
確認したビョルンの目が
さらに苛立たしげになりました。
エルナは、
まだ彼を見ていませんでした。
こんな自分を、
どうして見てくれないのかと
思いました。
ビョルンは呼び出しの鐘を
鳴らそうとしましたが
気が変わり、
そっと目を閉じて雑念を消しました。
そして、再び目を開けた時、
ビョルンの目は
冷徹な銀行家のそれに戻っていました。
ビョルンが淡々とエルナを呼ぶと、
彼女は、ほどなくして彼を見ました。
その顔は美しいけれど、
これだけでは足りませんでした。
ビョルンは無表情で、
躊躇うことなくエルナに
「笑って」と要求しました。
ぼんやりとした目を
何度かゆっくり瞬きしたエルナは、
素直に、優しい子供のように
微笑んで見せました。
以前と同じではないけれど、
これくらいなら、赤字ではないと
ビョルンは判断できました。
どうせ時間は流れるし、
エルナのお腹の中には
自分たちの子供がいるので
必然的に自分が勝利するしかない
状況でした。
彼は「もう一度」と要求しました。
一層低くなった声から、
本来のビョルン・ドナイスタらしい
余裕が感じられました。
しばらく躊躇いましたが、
エルナは再び、先程よりも
きれいな笑みを浮かべました。
彼にはそれを享受する資格が
ありました。
エルナは、まだ19歳なのに、
すでに人生を
あきらめているような気がしますし、
笑っていても、何となく目が
泣いているような気がして
読んでいて辛くなりました。
ビョルンは
エルナが少しでも楽になれるようにと
多大な犠牲を払ったわけですが
そんな思いやりを
エルナに見せることなく、
自分は、これだけのことを
やってあげたのだから、
笑顔くらい見せろと
傲慢な態度しか見せられないのは
ビョルンが見せかけではなく
本物の愛情の表現方法を
知らないせいなのかなと思いました。
余談ですが、
エルナを守るためとはいえ、
リサのビョルンに対する態度は
無礼なのではないかと思いました。
いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
明日は、2話公開します。