109話 ようやく「愛と深淵の名前」が出版されました。
悲鳴に近い泣き声が
国王の執務室いっぱいに
響き渡りました。
座り込んで泣いている娘を
見ているラルス国王は、
何でもいいから、グレディスを
落ち着かせなければならないと
思いながらも、口から出るのは、
ため息ばかりでした。
グレディスは、
その本を止めて欲しいと
懇願しました。
乱れたパジャマ姿のグレディスは
床に座り込んだまま
泣いていました。
すでに、まともに開けられないほど
浮腫んだ目から流れた涙が
やつれた頬に沿って、
とめどなく流れ落ちました。
ラルス王は、
まずは冷静になって考えを・・・
と言いかけたところで、
じっと怒りを抑えていた
アレクサンダー王子が
これは明白な条約違反だと、
沈んだ声で力を込めて言いました。
かっと見開いた目に込められた
怒りを見て、
ラルス王の心配は、
さらに深まりました。
王はアレクサンダーに
何をどうするというのかと
尋ねると、アレクサンダーは
その秘密を守るために、
レチェンに支払った代償について
言及し、こんな風にレチェンが
自分たちを裏切ったことに
怒りを爆発させました。
王は、ジェラルド・オーエンの姉が
行ったことの責任を
レチェン王室に問うつもりなのかと
尋ねると、
あの忌まわしい本がレチェンで
出版されるのを防げなかった責任を
問わなければならないと答えました。
レチェンに有利な軍事協定と
両国の競争が激しかった地域での
海上貿易権と資源採掘権の譲歩など
グレディスの不正を隠蔽する代価として
ビョルン・ドナイスターが
持っていったものを思い出すと、
目の前が遠くなるほどでした。
とんでもない条件を受け入れながら
密約を締結したのは、
その事が、ラルス王室の名誉と
直結しているし、
最大の友好国であるレチェンとの
同盟関係を維持する
必要性が大きかったからでした。
レチェンでも、
そのすべてを緻密に計算して
伏せてくれた秘密でした。
王は、
自分たちは油断し過ぎた。
そのことは、
自分たちとレチェン王室だけの
秘密ではなく、
ジェラルド・オーエンのことを
見落としていたと思いました。
王は、ジェラルド・オーエンが
自決した時、内心安堵しました。
これで、娘の秘密も
この世から姿を消したと
信じていたのに、
まさかこんな反撃に遭うとは
夢にも思いませんでした。
詩人の姉が
レチェンで出版した本は、
長年グレディスとやりとりした手紙と
その愛を記録した日記。
そして遺書まで載せられた本でした。
すでにレチェンを騒がせている
ジェラルド・オーエンの
遺作についての話は、
海の向こうにまで
流れ始めているので、
今さら、その本を全部探して
なくしたとしても、
広がる噂を防ぐ方法は
ありませんでした。
ラルスの宮廷詩人の子供を妊娠したまま
レチェンの皇太子妃として
嫁いだ恥知らずの王女。
その事実を知っていながら、
国と王室のためにすべてを覆い、
悪役を自任して
王冠を下ろした皇太子。
すでに、レチェンの全ての新聞が
そのことを大々的に
取り上げていました。
グレディスは父親の前に跪き、
自分とカールの最後の名誉は
守って欲しいと哀願しました。
じっと娘を見守るラルス王は、
目に入れても痛くない
末っ子のお姫様を、
ただ可愛がって育てたことを
後悔し残念に思いました。
美しい花に育て、
一生心強い温室になってくれる
夫候補を探してやれば
十分だと思っていた過ちが
今日のグレディスを作ったので
この可哀そうで愚かなことを
責めることもできませんでした。
王は決意を固めた顔で
アレクサンダーを見つめながら、
彼に、レチェンに
行って来なければならないと
告げました。
この件についての責任を
レチェンに問うことはできないことを
分かっているけれど、
民心を収拾するための
最低限の口実を用意するには、
レチェンに責任を
問うふりでもしなければ
ならない状況でした。
アレクサンダーは頷くと
何でもやってみると返事をしました。
テーブルいっぱいに広げられた
新聞や雑誌を飾っている
自分の写真を見たビョルンは、
写りの良い写真を使っていると
悪口を言うように吐き出し、
少しの苛立ちを込めて
軽く笑いました。
レオニードは、
ゆっくり写真を眺めている
ビョルンの姿を
黙々と眺めるだけで、
特別な言葉は付け加えませんでした。
しかし、ビョルンは、
大学の卒業記念に撮影した
写真を選んで記事を書いた、
司教庁が発行した雑誌を見ると
不満そうに眉をひそめました。
それでも、ビョルンは
厳粛な品位を備えた写真を探そうと
司祭たちが努力したのだと思い
適当に理解することにしました。
それから、ビョルンは、
しばらくホルダーに置いていた
葉巻を手に取りました。
レオニードは、
すでに灰皿が山盛りになるほど
多くの葉巻を吸っているという点を
指摘する代わりに、メイドを呼んで
新しい灰皿と交換させました。
首都のとある小さな出版社が出した
問題の本は、恐ろしい速さで
レチェン全域に
口コミで広がっていきました。
全てのメディアが駆けつけて
連日、競争的に報道戦を
繰り広げているので、
すでに本に載せられた全ての内容が
翻訳されて広がっていったと見ても
差し支えありませんでした。
そして、出版社が準備した
正式な翻訳本が印刷されている事実も
今日の午前に確認されました。
ビョルンは、
「くそハードフォードども」と
悪口を吐くと、
椅子の背もたれに寄りかかりました。
ジェラルド・オーエンの遺作が
波紋を起こし始めたその日の午後、
国王と双子の王子は
首都の王宮に向かいました。
そして、その後は、
何日も嵐のような日々が
続きました。
しばらく続いた真実かどうかの攻防は
ジェラルド・オーエンの姉が
直接、肉筆原稿を持って現れ、
大衆の前に立つことで終結しました。
自分の国にいる詩人の家族一人も
どうすることもできず、
こんな騒ぎを起こすなんて。
ここまでくると、
グレディスの、あの驚くほどの
無策な行動が理解できました。
ともかくも、
こちらが損することのない事故では
ありました。
レオニードは、
次の会議は自分一人で出るので
少し休むようにと
ビョルンに勧めましたが、
彼は、それを断り
ネクタイを締め直しながら
席を立ちました。
最初の数日は、
大臣たちとまともな対話ができないほど
大きな衝撃に襲われていましたが、
時間が経つにつれて
彼らも理性を取り戻したので、
どのように国内の世論を収拾し、
ラルスとの外交的衝突を
解決するかについての議論も
徐々に進んでいました。
レオニードと並んで
廊下を歩くビョルンは、
ずっと淡々とした表情をしていましたが
接見室のドアが見え始めると、
無意識のうちに失笑しました。
奇襲的に世の中に登場した
詩人の遺作が与えた衝撃が消えると
ビョルンは気が楽になりました。
すべてを覆い隠すと決心し、
王冠を下ろした頃とは
全く違う心境でした。
当時、ビョルンは、
レチェンと王室、自分の人生において
真実よりも大きな利益を与える嘘だと
判断しました。
そして、その決定は正しく、
その嘘は大きな国益をもたらし、
王政を安定させました。
思い通りに生きられる自由の価値は
王冠に劣らないので、
決して損をした選択とは
言えませんでした。
だからビョルンは後悔しませんでした。
愛されていた王太子から
王室の悩みの種に転落した現実も、
妻と子供を捨てたという非難と
絶えることのない醜聞も、
その決定を後悔させることは
できませんでした。
そのような軽くてさわやかな生活を
守るために、
買い入れた物件が作った亀裂に
直面するまでは。
ビョルンは、
グレディスの影で
無意味な努力をするエルナが
ずっと気に障りました。
愚かにぶつかって
結局傷ついてしまう姿が
もどかしくて、いらいらして
耐えられませんでした。
妊娠の事実を知ってからは
さらにそうでした。
しかし、それが、後になって訪れた
後悔だったということを、ビョルンは、
今では分かるような気がしました。
妻の前で感じなければならない
無力感が嫌でした。
ある瞬間から、自分を
醜聞の中の
救いようのない蕩児のように
見始めた目つきも嫌でした。
しかし、
どうしようもないという事実が、
罠のように首を締め付け始めた頃に
訪れたこの騒ぎは、
むしろチャンスのように
感じられたりもしました。
しばらく頭が痛くて
うるさい日々が続くだろうけれど
それは大きな問題にはならないし
解決できました。
ビョルンは、エルナの全能な神にでも
なりたい気分でした。
ビョルンは
自嘲混じりのため息をつくと
今日はシュベリンに戻るという
決心を固めました。
レオニードが持ってきた
その本を見た直後、
エルナが帰ってくるのを待つ
余裕がなかったので、しばらく
首都に行くことになったという一言を
フィツ夫人を通じて残し
大公邸を去ったので、
妻を最後に見てから、
もう1週間近くになっていました。
あの朝、バルコニーに立って
風に当たっていたエルナの姿が
浮かんだ瞬間に、
接見室のドアが開きました。
雑念を払うように閉じていた目を
開けながら、
ビョルンは中へ入りました。
ビョルンは
今日も帰って来ませんでした。
エルナは諦めたように明かりを消して
ベッドに横になりましたが、
なかなか寝付けませんでした。
ビョルンが来ないことを
よくわかっているのに、
彼が急いで首都に発った理由を知った
その瞬間から今まで、
エルナの目は
寝室のドアに向けられていました。
彼女は、
一体何が起こっているのか、
あまり実感が湧きませんでした。
リサを通じて手に入れたその本を
何度も繰り返して読んでみても
同じでした。
もちろん、そこに書かれた文字と
人々が騒ぐ言葉の意味が何なのかは
知っているけれど、エルナは
ビョルンに話を聞き、
彼の言う通りに信じたいと
思いました。
相変わらず彼を信じて頼る自分が
情けなかったけれど、
エルナは切実に
ビョルンだけを待っていました。
しかし、彼は一週間が過ぎても
短い手紙一通も寄こしませんでした。
結局、眠ることを諦めたエルナは、
体を起こして座ると
再びランプをつけました。
その下に置かれた
「愛と深淵の名前」を
エルナは数十回読んだので、
表紙がすり減っていました。
詩人の残した、
あの残酷で美しい文章が
すべて真実だとすれば、
ビョルン・ドナイスタは
一体どんな男なのか。
果たして自分は
彼のことを知っているのか、
エルナはこれ以上
確信が持てませんでした。
1年近く夫婦として一緒に暮らして来て、
お腹の中にいる子供の父親が
突然、完璧な他人のように
感じられました。
そして、この結婚には
何の意味があるのだろうかと
考えた瞬間、扉の向こうから
それほど急がない足取りと低い声。
ドアが開いて再び閉まる音が
聞こえました。
夢を見る気分で、
ビョルンの名前を囁いた瞬間に
寝室のドアが開き、
ビョルンが表れました。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます(^^)
待ちに待った
グレディスの暴露本の出版。
当の本人が何とかしてくれと
父親に訴えたところで
もう、どうすることもできない状態に
なっていると思います。
グレディスの言う彼女とカールの
最後の名誉とは
どういうものか分かりませんが
それを守るのも
無理な状態ではないかと思います。
ビョルン曰く、
最強の出来損ない(マンガ46話)の
アレクサンダー王子も
条約違反だと怒っていますが、
それは理不尽なことだと理解し、
自分の子育ての失敗と
油断したことを、
王が後悔しているだけ、
まだラルスは救いようがあると
思います。
息子の代になったら、
王権すら危うくなりそうですが・・・
ビョルンは、自分の評判が悪くなっても
嘘をついたことを
全く後悔していなかったのだから
グレディスとの再婚話に
目もくれなかったのも
当然だと思います。
けれども、そのビョルンが
エルナと結婚したことで、
ようやく、自分が嘘をついたことを
後悔していることに気がついた。
けれども、グレディスの件だけは
自分にはどうすることも
できなかったので、
苛立っていたところへ
「愛と深淵の名前」が
出版されたことは、
棚から牡丹餅だったと思います。
これで、エルナの苦痛も
解消されると思ったビョルンは
彼女にとっての
全能の神だと驕っているけれど、
エルナは、
自分がビョルンの醜聞の盾だと
思っているでしょうから、
ビョルンの醜聞がなくなれば、
このまま夫婦でいる意味があるのかと
悩まなければいいと思います。
ビョルンが、優しい態度で
これでエルナを苦しめるものはない。
本当に良かったと言ってくれれば
エルナは安心するでしょうけれど、
俺様的な態度で、
思いやりの欠片もない言葉を
投げかけたら、エルナは
耐えられなくなるのではないかと
思います。
余談ですが、
「愛と深淵の名前」の内容を
知りたいと思いました。