773話 サーナット卿は、いまだにラティルの部屋の外に立っていました。
◇子供の父親◇
なぜ、サーナット卿は
まだ、あそこにいるのか。
自分がいることを見せようと思って
わざと、ああしているのだろうか。
ラティルは
サーナット卿をじっと見つめました。
彼はタッシールと
目礼を交わしていました。
タッシールが彼に何か言うと、
サーナット卿が、
眉間にしわを寄せているのが
見えました。
タッシールが去ると、
サーナット卿は
短くため息をつきました。
しかし、彼は
ずっとその場にいました。
そして、サーナット卿が
ラティルの方を見ました。
彼女と目が合っても、サーナット卿は
目を逸らしませんでした。
ラティルは、サーナット卿が
何を言おうとしているのか
聞いてみようと思い、
テーブルの上の鐘を叩きました。
すると秘書や侍従ではなく、
サーナット卿が入って来ました。
彼は、40分待ったけれど、
今日は、ずっと
入れないのではないかと
心配していたと
気分を害したそぶりもなく
笑いながら冗談を言いました。
しかし、ラティルは
冗談を言う気分ではないので、
ここで何をしているのかと
ぶっきらぼうな声で尋ねました。
サーナット卿は扉を閉めて、
もう少しラティルに近づくと、
子供の話を聞いたと、
ラティルの予想通りの
返答をしました。
彼は、自分も子供の父親かも
しれないと思って来たようでした。
嫌がるか、喜ぶか、困るか。
ラティルはサーナット卿の感情が
気になりましたが、
知りたくなかったし、知ったところで、
何の意味があるかと思いました。
ラティルは、
お祝いの挨拶に来てくれたようだと
わざと知らんぷりをして呟きました。
サーナット卿の瞳が揺れました。
彼は、
そう思うのかと尋ねました、
ラティルは、
それ以外に何か言いたいことが
あるのかと尋ねました。
ラティルは、
サーナット卿と自分の初夜について、
彼が子供の父親である可能性について
わざと知らないふりをしました。
サーナット卿はしょんぼりして
何も答えられませんでした。
ラティルは歪んだ楽しみに
笑いながら、サーナット卿が
自分を祝ってくれるために
40分も待ってくれたことに
お礼を言いました。
サーナット卿は
返事をしませんでした。
ラティルは、もっと彼を
苦しめたくなりました。
彼が礼服を燃やしてしまったことを
知った時の気持ちを
共有したいと思いました。
ところが、サーナット卿は
皇帝が知らんぷりをしたいのなら
そうすると言ったので、
歪んだ楽しみが消え失せました。
ラティルは、
何に知らんぷりをしているのかと
尋ねると、サーナット卿は、
皇帝が本当に知らなかったなら、
自分を40分間も
立たせておかなかったと答えました。
ラティルは、
タッシールと話をするために
立たせておいたと言い訳をすると、
サーナット卿は、その前から、
自分の出入りを許可しなかった。
いつもと違う行動だったと
主張しました。
ラティルは机から立ち上がると
サーナット卿の目の前に
近づきました。
身長差のせいで、
こんなに頭にくる瞬間が
あるのだろうかと考えました。
ラティルは再び後ろに下がると、
この子は自分の子供であり、
サーナット卿の子供ではないので
この件について、サーナット卿は
少しも関わらないようにしろと
きっぱり話しました。
サーナット卿は眉を顰めて
その理由を尋ねました。
ラティルは、
できない理由があるのか。
サーナット卿の
得意なことではないかと
皮肉を言いました。
サーナット卿は、
少し怒っているように見えました。
彼は、
誰かが、それを聞いたら、
自分が責任を負っていない子が
数人いると思うだろうと
抗議しました。
ラティルは、
責任を負わない母親が一人はいると
返事をしました。
サーナット卿は息を殺して
自分の子供かと尋ねました。
ラティルは、
どうして自分にそれが分かるのかと
怒りで顔を歪めました。
彼女は、父親候補が10人もいるので
分からないと答えました。
サーナット卿は、
皇子、大神官、タッシール、ラナムン
ゲスター以外の5人は
誰なのかと尋ねました。
そんな人はいない。
話しているうちに
切のいい10人と言っただけだと
ラティルは思いました。
彼女は息を切らしながら、
扉を指差し「出て行け」と
サーナット卿に命令しました。
◇捨てられないボタン◇
執務室の外に出たサーナット卿は
宮殿の正門まで
止まらず歩いて行きました。
宮廷人たちは、近衛騎士団長が
真冬に薄いシャツとズボン姿で
歩き回っているのを見て、
気が狂ったと思いました。
サーナット卿が家に着くと、
執事は慌てて飛び出して来て、
着て行った服を一枚だけ着て、
残りはどこへ置いて来たのかと
尋ねました。
サーナット卿は
「陛下が・・・」と呟くと執事は、
今日、サーナット卿は
本当にきれいにして出かけたからと
言いました。
彼は誤解をしているようでした。
サーナット卿は、
そんなことはないと返事をすると
子供のことを話すこともできずに
自分の部屋に戻りました。
執事が子供の話を聞けば、
大きな衝撃を受けるに
違いありませんでした。
しかし、サーナット卿は
体を洗って食事をしている間、
心を落ち着かせることが
できませんでした。
ラティルのお腹にいるのが
自分との子供なら、
彼にも子供の世話をする
権限と義務がある。
どうして、それを防ぐというのか。
もちろん、答えは分かっていました。
サーナット卿はポケットに手を入れて
どうしても捨てられずに持っていた
礼服のボタンを取り出しました。
初めて拾った時から
一時も離さない物でした。
サーナット卿はボタンに口付けをすると
再び、ポケットの中に押し込みました。
◇家族3人の生活◇
歪んだ楽しみの短所は
後味が苦いことでした。
サーナット卿を追い出したラティルは
5時間ほど、狂ったように
仕事に没頭しました。
会議を開いて報告を聞き
秘書たちと意見を交わして
一人で頭を絞ったり、
歴代皇帝の記録を探したり、
実務陣を呼んで意見を聞いたり、
演武場へ行って兵士たちを点検し、
百花を呼んで、
対怪物小隊の仕事が
うまくいっているか聞いてみました。
そうしているうちにラティルは
衝動的に皇女を訪ね、彼女に、
弟が好きか、それとも妹が好きかと
尋ねました。
皇女は、きゃっきゃっと
笑うばかりでした。
皇女は危険を感じた時に
刃を作るという
ラナムンの解釈のおかげか、
皇女が以前より少し
ぎくしゃくしているように
思われました。
ラティルは、
自分のことが嫌いだからではないよねと
尋ねると、皇女を抱き上げて
下ろしました。
皇女は、たまに会うだけでも
ラティルが好きなのか
熱心に笑っていました。
口から涎が出るほどでした。
皇女に歯が生えていることに
気づいたラティルは、
数本もない皇女の歯を見た後、
ハンカチで口元を拭いてやりました。
驚くべきことに、涎を垂らして笑う
この赤ちゃんを見ているうちに、
心が早く落ち着きました。
議長が赤ちゃんの前世の記憶を
蘇らせなければ、この赤ちゃんは
アニャドミスではなく、
ラナムンと自分が作った
赤ちゃんでした。
ラナムンとそっくりだけれど
彼よりも、よく笑う赤ちゃんでした。
ラナムンは、
粉ミルクを持って中に入ってくる途中
ラティルの後ろ姿を見て
後ろに退きました。
彼はしばらく扉に寄りかかり
皇帝が不器用に赤ちゃんを撫でる姿を
眺めていました。
誰かにとっては素朴だけれど、
ここでは絶対に成し遂げられない
幻想が湧き起こりました。
それは、側室が誰もいない
彼女と彼と2人の子供との
3人だけの家族の生活でした。
◇何を考えているの?◇
驚いたことに、翌日になると、
前日の落ち着かない気持ちが
完全に消えました。
ラティルは午前10時に
レアンを呼び出しました。
11時に国務会議があるので
それまでの1時間、
レアンと話をするのに
ちょうど良いからでした。
きちんとした身なりのレアンは
執務室の中に入って来ると
今年もラティルが
健康で過ごせるようにと
優しく挨拶しました。
ラティルは、
秘書たちを下がらせることのないまま
自分はいつも元気だ。
でもレアンは体が弱いので
気をつけなければならないと
返事をしました。
レアンは眉をつり上げて
笑ってばかりいました。
しかし、レアンは、
新しいバイオリンを買ったかどうか
ラティルに聞かれると、
唇をビクッとさせて
「ああ、買った」と答えました。
パーティー会場で、
ギルゴールはレアンのことを
バイオリンと呼びました。
その時、レアンの支持者たちは
彼が大きな侮辱でも受けたように
興奮しました。
ラティルは、
レアンがバイオリンと呼ばれて
からかわれるのが、
気に入らないことに気づきました。
ラティルは、
それならば頑張って弾いてと言うと
レアンはこの話題が嫌いなのか、
ラティルが妊娠したことに
お祝いの言葉を述べ、
その子も特別な子だろうかと
尋ねました。
ラティルは、レアンの望む特別が
どんな意味なのか分からないと
答えました。
秘書たちは、
すぐにこの場を離れたいという表情で
互いをのぞき込みました。
しかし、ラティルは
彼らを下がらせませんでした。
もしも、レアンがラティルに
言いがかりをつけたら、
目撃者は大きな助けになるからでした。
レアンは、
朝から、何のために自分を呼んだのか。
この時間、
ラティルは、忙しくないのかと
尋ねました。
彼女は、レアンの支持者たちが
随時、レアンの結婚話を
持ち出していると答えると、
レアンは眉をつり上げました。
ここで結婚の話が出てくるとは
思いもよらなかったようでした。
レアンは
「結婚?」と聞き返すと、
ラティルは、パーティー会場でも
一度話したと答えました。
レアンは、
そうだった。
姪っ子を見ているうちに
忘れてしまったと返事をしました。
ラティルもレアンも笑っていましたが、
秘書たちの目は
タッシールと同じくらい
落ち窪みました。
平民出身で、
皇帝の秘書になったエリートたちは、
彼らの間で行き交う刀のような言葉を
理解できないはずがなく、
彼らもパーティー会場で起きた事件を
目撃したり聞いたりして
知っていました。
ラティルは、タッシールと立てた計画を
思い出しながら、レアンに
気に入った女性がいるかと
親切そうに尋ねました。
当然、答えは
返って来ないと思いました。
ところが、
返事をしようとしたレアンは
しばらく眉をひそめました。
レアンに、
本当に気に入った相手がいるのかと
戸惑ったラティルは
一緒に眉を顰めました。
調査したところ、貴族の令嬢のうち、
レアンと恋人同士に発展した人は
いませんでした。
レアンは昔も今も恋愛には
あまり関心がありませんでした。
ラティルは好色で、レアンは淡泊だと
人々が笑いながら話しているのを
知っていました。
レアンは、
少し考えてみると、
ラティルの想定外の返事をしたので
彼女はふくれっ面をしました。
ラティルは、
一週間以内に考えて返答しろと
言いました。
意外にもレアンは、
これ以上、言いがかりをつけず、
すぐに立ち上がりました。
まだ、10分過ぎただけでした。
ラティルは、彼が出て行く姿を
不満そうに見つめながら、レアンは
何を考えているのかと訝しみました。
◇気になる女性◇
ラティルの懸念とは裏腹に、
レアンは、今のところ、
策がありませんでした。
むしろ策を立てるには、
レアンは「はい」と
言わなければならなかったのに、
ラティルが結婚の話を切り出した瞬間
レアンは名前も知らない女性のことを
思い出してしまいました。
たった2回だけ出くわした女性。
下女か役人のようだけれど、
それ以外は何も知らない女。
その後、彼女に会うこともない。
たまに彼女と会った所へ
行ってみたけれど、
その女性はいなかった。
レアンは眉を顰めました。
なぜ、今、自分は
名前も知らない女のことを
思い浮かべているのだろうか?
レアンの結婚は、
彼にとっても、ラティルにとっても
絶好のチャンスでした。
ラティルが理由もなく
結婚の話を切り出すはずがないので
きっとラティルは、
何かしら魂胆があって、
結婚の話題を持ち出したのだと
思いました。
もちろん、レアンもこの問題に関して
常に備えていました。
彼女は平民だと
レアンは考えました。
以前なら、彼は平民との婚姻を
許されなかったけれど、
しかし、今のラティルは、
自分が平民と結婚するとしたら
むしろ喜ぶかもしれませんでした。
しかし、レアンは、
その女性の名前も知らないし、
もしかしたら、
彼女は既婚者かもしれないし、
子供がいるかもしれませんでした。
レアンは、しばらく立ち止まると、
心を落ち着かせました。
今、自分は、
ばかげたことを考えていた。
自分はその女性に
一目惚れをしなかったし、
その女性もそうだった。
こんな考えをする必要がないと
きっぱり線を引くと、レアンは、
すぐに自分の住居に戻りました。
別宮は、
まだ修理が終わっていませんでした。
最初、大工たちは
レアンをよそよそしく扱いましたが
今では、彼が現れると
にっこり笑いながら先に挨拶しました。
レアンは彼らと挨拶を交わしながら
部屋に入りました。
しばらくすると、腹心が現れ、
皇帝が、またレアンを
困らせたのではないかと心配すると
レアンは、人を一人探したいと
言いました。
驚く腹心に、レアンは
「あなたも見た女」と言おうとして
眉を顰めました。
その女性を見た腹心は
今、監獄の中でした。
レアンは、
うなじまでの長さの黒髪の
とても印象の強い女性だと
説明すると、腹心は
当惑した表情をしました。
レアンは黙りました。
言ってはみたものの、
あまりにも漠然としていて、
これではダメだと思いました。
それでも、レアンは、
その女性は、おそらくこの宮殿で
下女か役人として
働いているだろうから
探して見るようにと指示しました。
彼女を見つけられないこともない。
探しているだけだ。
探して会うわけでもない。
どうせ、ラティルが
一週間、考えてみろと
言ったではないかと
レアンは思いました。
レアンは父親似のラティルのように
美しい人を見て、ときめくこともなく
今まで、誰とも
付き合ったことがないとしたら、
人を好きになるという感情が
どういうものなのか、
分からないかもしれません。
レアンはアニャに
一目惚れをしたと思いますが、
彼女が先代ロードの親友で
吸血鬼であることを知ったら
どうするのか、とても気になります。
サーナット卿は、
ラティルのお腹の中に
自分の子供がいるかもしれないと
知った時に、一応、
嬉しいと思ったかもしれないけれど
義務と責任を前面に出しているのが
嫌だと思いました。
タッシールのように素直に喜んだり
ラナムンのように、
家族3人だけの生活を望んだりと
そのような感情がないのかと
疑ってしまいます。