129話 ビョルンは衝動的にバフォード行きの列車に乗りました。
エルナは、郵便馬車が
来ないかもしれないという
予感がしましたが、
黙々と待っていました。
待つと決めておいた時間まで
まだ10分残っていました。
少し早く家の中に入っても
問題になることは
ありませんでしたが
苦労して取り戻した日常のバランスを
崩したくありませんでした。
寒いので、
もう中に入った方がいいと、
エルナは、
そばに立っているリサを
心配そうな目で見て言いました。
リサは、体をすくめ、震えながらも
首を横に振り、
自分は大公妃のそばにいると
きっぱり言いました。
絶対に退かないというような
決然とした目つきに
向き合ったエルナは、
優しいため息と混じり合った笑みを
浮かべました。
突然、バフォードを訪ねて来たリサは
まるで影のように
エルナの後を追いかけました。
寝る時間を除けば、一日中、
くっついているようなものでした。
何がリサを
これほど不安にさせたのか
よく知っているエルナは、
これ以上、
強要することができませんでした。
あんな風に、リサまで
置き去りにしてはいけなかった。
時間が経って、
まともな判断ができるようになると、
遅ればせながら後悔と罪悪感が
エルナに押し寄せてきました。
リサをここに送ってくれた
フィツ夫人のおかげで、
心の借金を
減らすことができるようになったのは
ありがたいことでした。
それでも、
息苦しい田舎暮らしが嫌で
故郷を離れてきたというリサを
このバフォードで
暮らさせることはできない。
数百回悩んでみても、
エルナが下すことができる結論は
一つでした。
まだエルナが何も言っていないのに
リサは、
また、そんなことを言うと
自分は本当に悔しいと
カッとなって反論しました。
数日前、
春が来たら、シュベリンに戻って
新しい人生を始めるようにと
言った時のような表情でした。
わあわあ泣いてしまうと言う
リサの目頭は
すでに真っ赤になっていて、
涙声になっていました。
エルナはハンカチを取り出して、
リサの濡れた目頭を拭きました。
離婚手続きが終わるまでは
時間がかかるだろうから、
バーデン家のエルナに戻った
自分の人生の行方を
もう少し深く悩んだ後、
リサの去就を決めても
遅くはないはずでした。
そろそろ中に入ろうかと
言おうとした瞬間、
郵便屋が来たとリサが叫びました。
エルナはまっすぐに立って、
荒涼とした道を走って来る
郵便馬車を見つめました。
小さく揺れていた瞳は、
しばらくして、再び落ち着きました。
バーデン家の玄関前で
馬車を止めた郵便配達人は
厚かましい笑みを浮かべて
近づいて来ると、
大公妃殿下は、
今日も外に出ていたと言いました。
エルナは静かな笑みを浮かべながら、
彼が差し出した郵便物を
受け取りました。
待っていたその書類は
見当たりませんでした。
いつ頃、シュべリンに戻るのか。
大公と王室の人たちは元気なのかと
悪意はないけれど、
好奇心に満ちた質問をした後、
郵便配達員は、
過度に礼儀を尽くした挨拶をした後、
去って行きました。
「妃殿下?」と
慎重にエルナを呼ぶリサの声に
手に持った手紙を見下ろしていた
エルナは我に返り、
がっかりした様子で、
もう、中に入ろうと言いました。
待つ時間が長くなるほど、
首を絞める罠のように感じられる
「大公妃」という呼称から、
もう逃れたいという渇望が
大きくなっていきました。
エルナは、どうか一日でも早く
彼の返事が届くようにと
切に願いました。
札束を見せた途端、
機嫌の悪い表情で、
拒絶の言葉だけを繰り返していた
男の表情が、
一瞬にしてひっくり返り
「もちろん、できます。」
と言いました。
見たところ、
かなり急を要しているようなので
無情な態度を取ってはいけないと
言うと、駅馬車の御者は
慌ててお金を詰め込み、
笑って見せました。
少し前まで、
営業を終了した馬車に
乗りたいという戯言を口にした
狂った若い男は、いつの間にか
貴重な客となっていました。
好奇心に勝てなかった御者は
この夜中に、
なぜ、そんな辺ぴな所まで・・と
質問しかけましたが、
じっと彼を見下ろしている
若い男の灰色の目は、
真冬の冷気のように冷たかったので
ギョッとした彼は言葉を濁し、
ぎこちない笑みを浮かべながら
馬車のドアをぱっと開けました。
半月働かなければ稼げないお金を
わずか数時間の代価として
受け取ったので、青臭い若い奴の
小生意気な態度ぐらいなら、
いくらでも我慢することができました。
彼の客は、静かに馬車に乗り込み、
目を閉じました。
通りの向こう側から漏れて来た
居酒屋の明かりが
乱れた白金色の髪と
疲労感が色濃く滲んだ顔を
かすかに照らしました。
他の場所から来たのは明らかなのに
荷物は、彼が着ている服が全てで
到底、旅行客のようには
見えない姿でした。
妙に見覚えがあるような
気もしましたが、
彼は何も言わずに
馬車のドアを閉めました。
大金を出してくれた客の
機嫌を損ねるものでは
ないからでした。
もう一度お金を数えてみた彼は
鼻歌を口ずさみながら
御者台に上がりました。
男爵夫人とエルナが夕食を済ませた後、
後片付けを終えた使用人たちは
各自の部屋に戻り、
早くも寝床に入りました。
休憩室に集まって笑って騒いでいた
ハルディ家や大公邸とは
随分、違う夜の風景でした。
退屈ではないかと、
エルナは笑いが混じった声で
リサに尋ねました。
退屈そうな顔で、造花の花びらを
裁断していたリサは、
びっくりしながら顔を上げると
そんなはずがないと
慌てて否定しましたが、
リサが手にしていたハサミが
カーペットの上に落ちました。
リサは、
大公妃が好き。信じて欲しいと
言うと、急いではさみを拾い上げ
訴えるような懇願の眼差しで
エルナを見つめました。
ここが退屈なのは事実だけれど、
だからといって、
エルナのいないシュベリンに
戻りたいわけでは
ありませんでした。
エルナはリサにお礼を言うと、
自分もリサが好きだと言いました。
しばらくリサを眺めていた
エルナの顔の上に、
はにかむような笑みが浮かびました。
リサは言おうとしたことを忘れたまま
しばらくエルナを見つめました。
本来のエルナに戻ったような姿に
向き合うと、もう、本当に
すべてが終わったということが
分かるような気がしました。
とても熱くなった目頭を
ごしごし拭いたリサは、
もう遅い時間なので、
寝なければならないと
つまらない冗談を言いながら
テーブルを整理し始めました。
残った材料をきちんと籠に入れ、
完成した造花は
大きな箱に別に集めておきました。
前のように造花を作って
売ろうという提案をしたのは
リサでした。
強迫的に書斎の本を整理する
エルナを見かねて下した決断でした。
ハルディ家で、気兼ねし、
殴られて途方に暮れた時代も、
仕事にしがみつきながら
耐えてきたエルナなので、
今回も、その小さな手で
作り出す花のように、
彼女もまた美しく咲いてくれることを
願いました。
その願いが叶ったから
当然喜ぶべき。
リサは、
明るい笑顔で戻ってきたエルナを
歓迎しました。
結局、何の報いも
受けられないまま終わった
傷だらけの片思いは悲しいけれど
もうこれ以上その愛のために
傷つかなくても良いと思えば、
安堵感を感じたりもしました。
テーブルの片付けを終えたリサは、
寝室のカーテンを閉めました。
そして、納品して稼いだお金で
一緒にこれをしよう。 あれをしようと
楽しくおしゃべりをしていましたが
誰かがバーデン家の正門に
入って来るのを見ると、
話すのを止めました。
目をこすって、もう一度見ても、
それは間違いなく人の姿で
月光に似た髪の毛を持ち、高い背の
とても見慣れた男でした。
いつの間にか
そばに近づいてきたエルナが
どうしたのか、何かあったのかと
心配そうに尋ねました。
リサは何も言い出せないまま、
目を丸くしました。
その間に、男は
玄関の外灯が照らしている中を
歩いて入って来ました。
「なんてこった!」と、リサは、
危うく口から
吐き出しそうになったのを
急いで飲み込み、肩を震わせました。
リサの視線が向いている
窓の下を見たエルナが
「まさか・・・」と、
ぼんやり呟きました。
「まあ、ビョルン!」
その名前が、
悲鳴のように沸き起こるのと同時に、
真夜中にやって来た
招かれざる客が頭を上げました。
信じられないけれど、
間違いなくビョルンでした。
突然の人の気配に驚いた動物たちが
鳴き始める中、
これはどういうことかと
怒った女の声が響き渡りました。
ビョルンは深い夜のように
静かな目で、自分の前に立っている
エルナを見ました。
目が合っても、
エルナは目を背けませんでした。
闇の中でも、
青い炎が揺れるような瞳に
込められた怒りは鮮明でした。
ビョルンはため息交じりに
失笑しながら、
ゆっくりとあたりを見回しました。
急いで出て来たエルナが
彼を引きずって来た所は、
とんでもなく古びた納屋でした。
歓待を受けるという
虚しい期待のようなものは
初めからなかったけれど、
このように
呆れたことになるという考えも
やはり、ありませんでした。
「ビョルン!」という呼び声が
かすかに震えました。
コートの前を押さえている
小さな手もそうでした。
ビョルンは斜めに首を傾げたまま
エルナを見下ろしました。
目の前にいる女性が
虚像ではないということは、
もう確信できるようでした。
これまで、
数えきれないほど見てきた妻の虚像は
概して、無気力な幽霊のような
姿をしていました。
このように
猛烈な勢いで飛びかかるエルナを
彼の想像が作り出すことが
できるはずがありませんでした。
電気が消えた窓のようだった瞳は
以前のように澄んだ光を帯びていて
やつれていた頬には生気が戻り、
艶のある赤い唇が輝いていました。
安心しながらも、
一方では侮蔑感を覚えるという
おかしな気分でした。
ビョルンは長いため息をつくと
虚しい笑みを浮かべました。
むやみに駅へ行き、
出発時間まで僅かしかない
バフォード行きの列車の切符を
買いました。
そして、
終電に乗り遅れないように
必死に走りました。
再び気がついた時、
彼は走る電車の客室の中にいました。
そして、
走る汽車の窓の外に広がる
荒涼とした野原の地平線の向こうから
日が昇るまで、
ビョルンはぼんやりと座って
流れる風景だけを眺めていました。
空が明るくなってから、ビョルンは
疲れ果てた体を横にしました。
狭くて不便な客室のベッドと
汽車の騒音に邪魔されることなく
ビョルンは死んだように眠りました。
そして目が覚めた時、列車は
終着駅のプラットホームに
入っていました。
客室の洗面台で、
顔を洗ったビョルンは、
脱ぎ捨てておいた
ジャケットとコートを持って
汽車から降りました。
酔いがさめると、むしろ決心は
さらに固まっていました。
一体どうして、こんな風に
真夜中に、ここへ来たのか。
エルナの鋭い叫び声が
白い息となって飛び散りました。
ゆっくりと目を開けたビョルンは、
向かい合っている妻に向かって
一歩踏み出しました。
青白い月明かりが、
一歩の距離もなく
向かい合っている2人を
照らしていました。
今回のお話で
一番、気になったこと。
真夜中にやって来て
狼は大丈夫だったのかと😅
ビョルンの突然の訪問に
怒りしか覚えないエルナ。
真夜中に
予告もなしにやって来るという
非常識な行動を怒っただけではなく
狼に襲われる可能性も考えて
怒ったのではないかと思いたいです。
そこまでして、
エルナに会いたかったという
ビョルンの気持ちを理解するまでには
至らないかもしれませんが・・・
エルナが元気になって
嬉しいビョルンだけれど、
自分のおかげで、
彼女が元気になったのではないことに
少し侮蔑感を覚えたりして。
エルナを守るために
たくさんのお金を使い
奔走したけれど、
元気にならなかったエルナが
バフォードに戻っただけで
元気を取り戻すなんて、
ビョルンとしては
残念かもしれません。
リサはハルディ家にいた時から
エルナをよく見ていたのですね。
エルナは友達のようなメイドに
出会えて良かったと思います。