837話 ゲスターはタッシールが許しを請えば、ヘイレンを治すと言いました。
◇脅迫には屈しない◇
カルレインは、うんざりした様子で
ゲスターを見ました。
元々、あんな奴であることは
知っていたけれど、
「ゲスター・ロルド」になった
ランスター伯爵は、それでも以前より
性質が良くなりました。
目的のためなのだろうけれど、
自分の性格をしっかり包み込んで
表に出さないようにしていました。
ゲスターは、タッシールが跪いて、
大切な侍従のために
哀願するのを待ちました。
ゲスターは、頭のいいタッシールが
この屈辱的な要求を
素直に受け入れるだろうと
確信していました。
ところがタッシールは
残念ですが嫌です。
と、きっぱり線を引きました。
彼は、それ以上
長い言い訳もしませんでした。
タッシールは、
一度、脅迫に応じれば、
大半が、それで終わらないことを
よく知っていました。だから、
脅迫に効果があるということを
一度でも見せてはなりませんでした。
ゲスターは、
ヘイレンが主人のために
手を血で濡らしても、
彼の主人は寵愛する部下のために
謝罪もできないそうだと
微笑みながら皮肉を言いました。
タッシールではなく
ヘイレンに聞かせているようでした。
タッシールは、
うちのヘイレンは
そんなことには騙されないと
にっこり笑いながら言いました。
その言葉に、ゲスターの眉が
ピクッと上がりました。 彼は、
タッシールが気を楽にしたいから
そう言っていると言いましたが、
タッシールは、それを否定し
うちのヘイレンは頭が良くて
何が最善なのかよく知っている。
それに、ヘイレンは
何も悪いことをしていないのに、
自分が謝ったらどうなるのか。
謝ってはだめだと言いました。
ゲスターは目を細めました。
タッシールは彼の目を
少しも避けませんでした。
カルレインは腕を組んで、
二人を交互に見ながら眉を顰めました。
二人が喧嘩して、
手をつないで消えてくれるなら
歓迎するけれど、二人とも
そうする人ではありませんでした。
二人のライバルの戦いに
カルレインは安心できませんでした。
ゲスターは、
それではそこに座って、
タッシールの侍従が
死んでいく姿を見るように。
自分がそうだったようにと言って
鼻で笑うと、姿を消しました。
彼がいなくなると、一瞬にして
部屋の中に重々しい静寂が訪れました。
ずっと落ち着いていたタッシールは、
ゲスターが行ってしまうと
心配そうな声で、吸血鬼も死ぬのかと
カルレインに尋ねました。
カルレインは、
ロードほどでなければ死ぬと。
慰める代わりに、きちんと答えました。
タッシールは、
黒魔術でも命を奪えるのかと
尋ねました。
カルレインは、
老衰で死ぬことはない。
人間より生命力もしつこい。
けれども、命を奪おうと思えば
それは可能だと答えました。
この件を、
本当にどうしたらいいのだろうか。
タッシールは額に手を当てて
ため息をつくと、
黒魔術は本当に頭が痛いと
ぼやきました。
その後、タッシールが
カルレインと話を交わしている間、
ヘイレンは苦痛の中で
徐々に意識を取り戻しました。
苦痛は消えていなかったけれど
彼は賢い頭で、周りの会話を
すべて理解することができました。
私のせいでタッシール様が
困っている。
ヘイレンは、
再び目をギュッと閉じました。
◇置手紙◇
一晩中、苦しんでいたヘイレンを
見守ったタッシールは、
翌日、ザイシンを訪ねました。
彼はタッシールから
ヘイレンが、訳の分からない苦痛に
陥っているという話を聞くと、
ヘイレンが人間なら、
すぐに治療してあげるのにと
同情してくれました。
タッシールは、
ほんの少しだけ神聖力を使って
ヘイレンを治療してみることが
できるかと尋ねました。
ザイシンは、
自分の神聖力が触れた怪物たちが
どのように変わったかを
思い出しながら、
試してみることはできるけれど、
それが治療と言えるのかと
自信のない声で答えました。
タッシールは、
とても大変なのかと尋ねました。
ザイシンは、
大変ではないけれど、
ヘイレンが治療を受けたことで
浄化されて消えるのではないかと
心配していると答えました。
それでも、ザイシンは
一度見てみると言って、
タッシールに付いて来てくれました。
ところが、タッシールの部屋に
ヘイレンはいませんでした。
ザイシンは、
がらんとした部屋の中を見回しながら
ヘイレンは、どこにいるのかと
尋ねました。
タッシールは部屋の隅を指差し、
あそこに転がっていたのにと
首を傾げながら答えると、
足早に机に近づきました。
机の上には、
くねくねした字で書いた
手紙が見えました。
ヘイレンが苦痛に耐えながら
押すようにして書いた文字が
バラバラに散らばっていました。
手紙には、
このように去ることになって
申し訳ないけれど、自分は
若頭の邪魔になりたくない。
絶対にゲスターの言うことを
聞かないでと書かれていました。
タッシールのそばで
一緒に手紙を見たザイシンは
驚きました。
タッシールは、
ヘイレンの痛みの原因が
ゲスターだと指摘せず、
彼が治療を拒否したという話を
しただけでした。
ところが、
ヘイレンが書いた手紙を見ると、
その他にも事情がありそうでした。
ザイシンは、
ゲスターの言うことを聞くなというのは
どういう意味なのかと尋ねました。
しかし、タッシールは答えず、
便箋を机の上に置いて
目をギュッと閉じました。
ザイシンは
タッシールの見慣れない姿を見て
さらに心配になったので、
自分が、このことを
皇帝に話そうかと提案しました。
事情は分からないけれど、
状況が良くないのは確かでした。
タッシールは目を開けると、
いつもと変わらない声で、
自分が直接話すと返事をしました。
ザイシンは訳が分からないけれど
めまいがしました。
皇配候補に入れなかったことで、
百花はザイシンに
山のような小言を言ったけれど、
あの時よりも、今の方が
もっと心が重くなりました。
◇寂しさ◇
ラティルはいつものように
仕事に没頭していました。
トゥーリはザイシンのおかげで
すぐに回復したし、
ヘイレンは、まだ自分の力を十分に
コントロールできていないだけ。
原因と結果がはっきりしているので
トゥーリとヘイレンの争いは、
ラティルが徹夜で悩むことでは
ありませんでした。
だから、タッシールが訪ねて来て
ヘイレンが出て行ったという
予想できなかった話を切り出した時
本当にびっくりしました。
ラティルは、
自分が聞き間違えたものと
思っていました。
タッシールは、
少し前に個人執務室を訪ねて来て
少し宮殿を離れると言いました。
ラティルは聞き間違えたと思い
どういうことなのかと
聞き返しました。
タッシールは、
ヘイレンの右手の
訳の分からない痛みと、
それによってヘイレンが
宮殿を離れた話をしました。
それでもラティルは
理解できませんでした。
ラティルは、
ヘイレンは頭がいいし、
アンジェス商団は、
あちこちに手を伸ばしているので
治療して帰って来るのではないか。
必要ならタッシールに
助けを求めただろう。
ヘイレンが一人で治療しに行ったのに
なぜタッシールまで
行かなければならないのか分からないと
言いました。
タッシールが途中の話を省略したせいで
むしろラティルは、さらに
混乱に陥っていました。
タッシールは、
一人で治療するのが大変な状態だ。
そのような状態でここに残ったら、
自分の荷物になるのではないかと思い
ヘイレンは立ち去ったと
大げさに、ため息をつきましたが
ゲスターの名前を口にしませんでした。
ラティルは、さらに唇をかみしめ
後に露骨に不満を露わにしました。
彼の選択は理解できたけれど、
もう一方では、
恥ずべき寂しさが押し寄せて来ました。
自分を愛していると言ったのだから
今がどれだけタッシールにとって
重要な時期なのか
分かっているはずなのに。
皇配になって、自分の隣の席に
公式的にいられなくても
いいということなのかと思いました。
ラティルは
後ろに立っているサーナット卿を
鏡越しに見た後に、
分かったと、渋々頷きました。
ラティル自身も、
サーナット卿が治療しにくい苦痛で
突然去ってしまったら、
彼を探しに行くと思いました。
そして、
サーナット卿を治療する方法を探して
一緒にいてあげたいと思うはずでした。
ラティルの心境に
直ぐに気づいたタッシールは、
おやおや、私の大切な親分、
寂しがらないでください。
と言うと、
すぐにラティルを抱きしめました。
ラティルは、
タッシールの服に顔を当てると
鼻がジーンとしました。
他の吸血鬼に、ヘイレンを
探させてはいけないのかという言葉が
ほとんど舌先にまで
流れて来ていました。
◇カルレインの忠告◇
タッシールは、
ヘイレンが行きそうな場所を
頭の中で推し量りながら、
数枚の地図を準備しました。
行くのか?
いつ来たのか、カルレインが
扉の枠に寄りかかりながら
尋ねました。
荷物をまとめていたタッシールは
そちらを振り向くと
見送りに来てくれたのは
傭兵王様くらいですね。
と返事をしました。
タッシールは、一日で
気持ちの整理がついたのか
いつものように
ニヤニヤしながら言いました。
カルレインは、ヘイレンの
訳の分からない痛みに、
ゲスターが絡んでいるのかが
気になりましたが、
それを聞く代わりに、
本当に大丈夫なのか。
この時期に出かけたら良くないと
現実的なアドバイスをしました。
タッシールは
そうでしょうね。
と同意しました。
続けて、カルレインは、
タッシールは
皇配候補三人の中に選ばれた。
これから一日一日、大臣たちは
三人を評価するだろう。
席を外したら評価も受けられない。
留守にすることは
タッシールの将来に良くないと
助言しました。
しかし、タッシールは
口角を上げながら、
席を外した時、その人の価値が
まともに見えたりもするものだと
言いました。
タッシールは、
自分が皇配になれなくても
ゲスターは皇配になれないと
思っていました。
ゲスターは、自分よりは
仕事の処理能力が足りないし、
ラナムンより
象徴性が足りませんでした。
タッシールは、
他の人が皇配になったとして
自分の名前を
超えることができるだろうかと
傲慢な質問をすると、
カルレインは肩をすくめました。
タッシールが引き受けた仕事を
全て皇配に与えて
手を引いてしまえば、
人々はタッシールと皇配を
比較することになるだろう。
皇帝のラティルでさえ、
何度もレアンや先帝と比較されて
頭を悩ませていた。
これが皇配ともなれば、
もっと酷くなるはずでした。
しかし、カルレインは、
クライン皇子の他に、
そんなことを気にする側室は
いないだろうと返事をすると、
タッシールは笑ってカバンを持ち上げ
できるだけ早く戻って来ると
告げました。
タッシールは、
ヘイレンを治療できるような人を
すでに思い出していましたが、
念のため、
その話はしませんでした。
彼はカルレインと別れの挨拶を交わし
外出届を代わりに
提出して欲しいと頼んだ後、
宮殿を後にしました。
◇ゲスターはゲスター◇
ラティルは城壁に腰掛けて
夜の街を見下ろしていました。
なぜ、あえてヘイレンが
出ていったのか、
やはり理解できませんでした。
外にいる人たちより、
ゲスターやギルゴールなどに
聞いた方が早いのではないか。
宮殿内で治療を受けながら、
治療できる人を
呼び寄せることもできるのに
なぜ、出て行ったのかと
訝しみました。
その時、後ろから自分を呼ぶ
メラディムの声が聞こえて来ました。
そちらへ顔を向けると
メラディムが梯子から
降りてきたところでした。
ラティルは隣の席を軽く叩くと
再び町を見下ろしました。
ロード、弟が出かけたから?
と尋ねると、メラディムは
ラティルの隣に座りながら
自分の肩でラティルの肩を
ポンと叩きました。
ラティルは否定しませんでした。
タッシールは理由もなく
行動しないけれど、今の彼の説明では
納得がいきませんでした。
メラディムは
憂鬱そうなラティルの横顔を
見ながら、ロードに
話さなければならないことがあると
話を切り出しました。
ラティルは、
聞いているので話すようにと
力なく答えると、
深いため息をつきました。
メラディムの話は
あまり期待ができないからでした。
メラディムは、
ティトゥがアウエル・キクレンに
会ったそうだと、
非常に悲壮な声で話しましたが
依然としてラティルは
気乗りしませんでした。
しかし、それは誰なのかという
質問に、メラディムが
黒魔術の創始者だと答えると
ラティルは好奇心を示しました。
黒魔術の創始者なら、
ランスター伯爵よりも上手く
黒魔術を使えるのではないか。
もしかして、ヘイレンの
訳の分からない痛みも
抑えてくれるのではないかと
期待しました。
ラティルは、
彼はどこにいるのかと尋ねました。
メラディムは、
ゲスターの体の中にいると
答えました。
ラティルは目を丸くしました。
頭の中に、煌びやかな美しい男が
浮かび上がりました。
ラティルは、
ひょっとして、
金色の目をしているのかと尋ねると
メラディムは、
そうだ。会ったことがあるようだと
答えました。
ラティルは本当に驚きました。
人格が三つあるのも驚きだけれど
そのうちの一人が
黒魔術師の創始者だからでした。
ラティルは、
一体どうすれば、
そんなことが可能なのか。
黒魔術師の創始者が、
なぜ、ゲスターの人格に
なっているのかと尋ねました。
メラディムは、
自分は知らないけれど、
とにかく気をつけろと言いに来た。
追い出せるのなら、もっといいと
答えました。
ラティルが、その理由を尋ねると
神聖力で黒魔術を使ったアリタルは
あれほど長い間、苦労した。
その黒魔術そのものを作った人間は
どんな人間なのだろうか。
もちろん、彼のことを
人間とは呼べないけれどと
答えました。
ラティルは静かに歌を歌って
自分を引き寄せた湖畔の男を、
彼の眩しい姿を思い出しました。
よく理解できませんでした。
ラティルは、
黒魔術を作ったという理由だけで
変な目で見る必要はないと
抗議しました。
ラティルがゲスターに怒ったのは
彼の人格が三つあるという理由では
ありませんでした。
しかし、メラディムは、
十分、変だ。
アウエル・キクレンは
姿を見せる場合より、
表に出て来ない場合が多い。
けれども、彼が姿を現すと、
その後は必ず問題を起こすと
反論しました。
ラティルは、
ゲスターの中に
誰の人格があったとしても
ゲスターはゲスターだ。
ゲスターの中に
そんな人がいるという理由で、
ゲスターを非難したり
遠ざけたりするな。
自分がロードだという理由で
非難されるのが辛かったのに。
同じ理由で、ゲスターを
傷つけることはできないと
断固として話しました。
その間、アウエル・キクレンは
彼女の話を聞いていました。
彼は腕に抱いた
レッサーパンダの頭を撫でながら
口角を上げました。
やはり、彼は彼女が好きでした。
彼のそばにいられるのは、
そして彼女のそばにいられるのは、
ただ一人でなければ
なりませんでした。
常に偉そうにしている
タッシールが、自分の前に跪くのを
ゲスターは
期待していたのでしょうけれど
タッシールは頭がいいから跪くと
思ったのは計算違い。
賢いからこそ
跪かないという考えに
至れなかったのは、
ゲスター(ランスター伯爵?)は
自分が頭がいいと思っていて
自分が同じ立場だったら
とりあえず、その場で跪き、
後で、復讐することを
考えるからなのではないかと
思いました。
今でも、ランスター伯爵の性質は
酷いと思いますが、
昔は、もっと酷かったのですね。
タッシールは部下を大事にするから
部下からも慕われるのでしょうね。
百花の小言は、ザイシンにとって
かなりのストレスに
なっているようです。
メラディムは、ティトゥの話を
きちんと反芻して、ラティルに
アウエル・キクレンのことを
教えてくれたのに、
そして、メラディムの言う通り、
アウエル・キクレンが現れてから
ヘイレンの手の痛みが起きたのに
それを、メラディムの言葉と
結び付けられず、
アウエル・キクレンが
素敵だったから、
そして、メラディムが
ゲスターの悪口
(実際はアウエル・キクレンだけれど)
を言ったせいで
頭ごなしに怒るなんて酷いと思います。
ラティルは、ゲスターのこととなると
なぜ、心の目が曇るのか
本当に不思議です。
もしかして、メラディムは
アリタルの時代から
生きていたのでしょうか?
アウエル・キクレンは
アリタルの時代より前に
すでに存在していた?
そのアウエル・キクレンを知っている
白魔術師も同じくらいの年?
彼なら、アウエル・キクレンと
互角に戦えるのだから、
彼に戦ってもらえばいいのにと
思います。