148話 エルナは電報で悲報を伝えられましたが・・・
「来ましたね、ビョルン。
聞いたところによれば
恋愛の行方は、
本当に順調ではないようだ」と、
ビョルンと目が合った
アルセン公爵夫人は、
意地悪な笑いとともに
冗談を言いました。
確かに、病んでいる人のような
顔色でしたが、
電報に書かれていたように、
危篤のようには見えませんでした。
ビョルンは、
安堵感と虚脱感が入り混じった
ため息を吐きました。
じっと孫を見つめる
アルセン公爵夫人の目には、
温もりがこもっていました。
アルセン公爵夫人は、
そんな顔をする必要はない。
見ての通り元気だと言うと、
ビョルンは、いつものように
いけずうずうしく、
そらとぼけて返事をする代わりに
「おばあ様」と
嘆くように、彼女を呼ぶだけでした。
ここへ来るまでの間、
ずっと彼を捉えていた不安は、
元気そうに笑っている
祖母に向き合っても、
なかなか解消されませんでした。
アルセン公爵夫人が
危篤だという知らせが、
ビョルンに伝えらえたのは、
無我夢中で一日の日程を終えて、
シュベリン宮へ戻った午後でした。
玄関の前で彼を待っていた
フィツ夫人は、
直接、その電報を伝え、
アルセン家へ行くことを勧めました。
ビョルンはその足で、
再び馬車に乗ってここへ
来たところでした。
アルセン公爵夫人は、
ただの風邪だと言いました。
ビョルンは、
肺炎はただの風邪ではないと
返事をしました。
アルセン公爵夫人は、
年よりの風邪は、
元々、少し騒がしいもの。
執事が大騒ぎをしたせいで、
とても騒々しい風邪を
引いてしまったと
他人事のように話しました。
アルセン公爵夫人を見守っていた
ビョルンは苦笑いをしました。
彼の足元をうろうろしていた
シャーロットは
まるで彼に同調するように
鳴き声を上げました。
アルセン公爵夫人は、
かすかに開いた目で
ビョルンを見ました。
10年間、名前を知らず、
おそらくこれからも
名前を覚える気のない猫を
撫でる手は、
とても優しいものでした。
熱のこもった、ため息をつきながら
アルセン公爵夫人は
少し笑いました。
ビョルンは、そんな男で、
おそらく、シャーロットの名前を
覚えてくれる日は、
永遠に来ないかもしれませんでした。
だからこそ、彼女は
あんな男が、
一人の女を気に入ったことに
余計に驚きました。
妻を取り戻すために
自尊心を手放すことが
ビョルンにとって、
どういう意味なのか、
よく分かっているので
アルセン公爵夫人は
慎ましい希望を抱きました。
もちろん、その時は、
ビョルンの恋愛の実力が、
こんなに酷いと
まだ、予想できませんでした。
彼の父親とは違い、
その才能一つくらいは
優れていると思ったら、
見れば見るほど、間違いなく
フィリップ・デナイスタの息子でした。
立派な外見を無駄に使う、
未熟なデナイスタの狼たちでした。
しかし、
下手な初恋をする少年のように
振舞っている孫を見るのに、
あまり気分は悪くはありませんでした。
あと、どれくらいの時間が
残っているのか。
アルセン公爵夫人は、
最近になり、哀れな老人のように
振る舞うことが多くなりました。
急に熱が上がって、主治医が駆けつけ
執事が親戚に、
危篤を知らせる電報を送った時には、
もしかしたら、
明日を迎えられないかもしれないと
弱気になったりもしました。
もう思い残すことのない人生でしたが
それでも最後に、
欲を一つだけ言うとすれば、
この具合の悪い子供のような
最愛の孫が、愛する妻と一緒に
幸せに暮らしていく姿を
見たいと思いました。
そうすれば、ポルカを踊りながら
あの世に旅立つことも
できそうな気分でした。
温かいお湯を一口飲んで
乾いた唇を潤したアルセン公爵夫人は
呼び鈴を鳴らして執事を呼びました。
まずは偏屈な老人が、間もなく、
棺桶に横になるというデマから
訂正しなければなりませんでした。
誤った電報を送った人たちの名簿を
確認していたアルセン公爵夫人は
短いため息をつくと、
あの遠い所にいる子供にまで
でたらめな知らせを送ったなんて、
執事は本当に勤勉だったと言うと
執事は、
侯爵夫人が、あまりにも
大切にしていた人だからと
躊躇いながら釈明しました。
執事に向かって頷いた彼女は、
ゆっくり首を回して
ビョルンと向き合うと、
不本意なデマが、もどかしい恋愛の
役に立ちそうだと言いました。
そして、眉を少し動かしながら
笑った彼女は、
手に持っていた名簿を
ビョルンに渡しました。
そして、これは、
今日、ビョルンを驚かせたことへの
お詫びのプレゼントだと思ってと
言いました。
名簿を確認したビョルンは、
目を細めながら、
エルナも、その電報を
受け取ったのかと尋ねました。
アルセン公爵夫人は、
そのようにした。
自分が死にそうだと言っておいたので
あの良い子は、
きっとお見舞いに来るだろう。
エルナから返信が来たら、
ビョルンにも知らせるようにする。
もちろん、
ビョルンが望むならと言うと、
彼女は首を傾げたまま、
じっとビョルンを見つめました。
「あなたの気持ちはどう?」と
すでに答えを知っている質問を
平然と投げかける彼女の瞳が、
微かに茶目っ気を帯びて
きらりと光りました。
エルナが眠りから覚めたのは、
深い闇が、
次第に薄れていく頃でした。
列車は一晩中休まず走り、
シュベリンに向かっていました。
遅れるようなアクシデントが
起きなければ、正午前には
目的地にたどり着くはずでした。
エルナは、隣の席で眠っているリサを
起こさないように気をつけて
席を立ちました。
客室の外に出ると、
雨の日特有の、じめじめして
ひんやりした空気が身を包みました。
皆、ぐっすり眠っているのか、
二等車の廊下は
しんと静まり返っていました。
エルナは冷たい窓ガラスに
額をもたれたまま、
通り過ぎる外の風景を凝視しました。
しとしと降っていた雨は、
いつの間にか、
みぞれに変わっていました。
アルセン公爵夫人が
危篤だという知らせを聞くと、
エルナは、
胸がドキッとするようでした。
彼女は、見知らぬ漠然とした世界で
誰よりも自分の心を
深く察してくれた人でした。
エルナが
バフォードに逃げてしまった後も、
アルセン公爵夫人は
たびたび手紙を送って来ました。
他の王室の家族とは違い、
ビョルンの話は一言も口にせず、
ただ、最近の安否や
近況を尋ねて心配する
思慮深い手紙でした。
そのため、手紙の裏に込められた、
どうしても文章に
書き記すことのできない心は、
さらに鮮明に伝わって来ました。
アルセン公爵夫人が
どれほどビョルンを愛しているか、
だからこそ、
どれだけ二人の離婚を
防ぎたいと思っているか、
分からないはずがありませんでした。
しかし、彼女が望むように
答えられないので、
エルナは努めて、その気持ちを
無視しなければなりませんでした。
何気なく安否を伝えただけの返事を
受け取った彼女の気持ちを思うと、
しきりに胸の片隅が
ひりひりしました。
そして当たり前のように
ビョルンのことを思い出しました。
このまま、アルセン公爵夫人が
死んでしまったら、
彼は、とても苦しむことになる。
彼を、あれほど
愛してくれている祖母に
幸せに暮らしている姿を
見せられなかったという後悔が
与える傷が深くなるだろう。
いつか、自分の祖母も
この世を去ることになれば、
自分も同じ後悔をすることに
なるだろうから、エルナは、
ビョルンの気持ちが
よく分かるような気がしました。
何が自分たちの最善なのか。
エルナは、
なかなか答えが見つからない
質問を繰り返しながら、
車窓に当てていた額を離しました。
今や列車は、
山岳地帯を通っていました。
気温が低くなってきたので、
いつの間にか、みぞれは
雪になっていました。
エルナは、車窓に
背中をもたせかけたまま、
かゆい手の甲を見下ろしました。
ビョルンの唇が触れたところを
ギュッと押さえると、おかしなことに
心が痛くなってきました。
再び彼を愛するようになったとしても
その愛がすべてを
解決してくれることはないだろう。
レチェンの第一王子妃であり、
シュベリン大公妃であり、
ビョルン・デナイスタの
妻になるということは、
その座の重さも、
耐えなければならないということを
意味している。
愛。それだけが全てのように
やるせなく恋して不幸になった
世間知らずの少女の前轍を
踏むわけにはいきませんでした。
果たして自分が、
その人生の重さに耐えられるほど
強くなれるだろうか。
真っ赤になった手の甲を
静かに擦っていたエルナは、
首を回して、
廊下の車窓の向こうに広がる、
荒涼とした野原と小都市を見ました。
.
その時、ギシギシと音を立てて
客室の扉が開くと、
なぜ、ここに出ているのかと言う
眠そうなリサの声が
聞こえて来ました。
エルナは右手を急いで後ろに回し
姿勢を正しました。
何を話せばいいのか分からなくて
躊躇っている間に
リサがそばに近づいて来ました。
ガタガタと音を立てている車窓に
並んで、もたれた二人は、
しばらく、じっと
互いの顔を眺めていました。
「もしかして、また・・・」と
エルナを、じっと見つめる
リサの目つきが鋭くなりました。
当惑したエルナは、
おどおどしながらも、
断固として否定しました。
しかし、いきなり否定する方が、
もっと怪しそうに見えると思ったのは
リサに
「違いますよね?そうですよね?」
と問い詰められた後でした。
エルナは、再び否定しましたが
リサは、
まだ何も聞いていないのに
もう、わかっていると言いました。
リサの執拗な追及に
勝てる自信がなくなったエルナは
逃げるように歩き出しました。
そして、エルナが
客室のドアを開けた瞬間、
世界中を揺るがすような
恐ろしい轟音が鳴り響きました。
「これは一体・・・」と
追いかけて来たリサの言葉が終わる前に
耳を裂くような
金属性の音が聞こえて来て
汽車が揺れ始めました。
「妃殿下!」
リサが悲鳴を上げて
エルナを抱きしめた瞬間、
脱線した列車が傾きました。
窓ガラスが割れる音と乗客の悲鳴が
濃い霧と雪の間に
鋭く響き渡りました。
ビョルンは、
プラットホームではなく、
駅の貴賓室に向かいました。
かつてなかったことに驚いた侍従は
面食らった顔で彼に随行しました。
暖炉のそばの椅子に座ったビョルンは
妃が到着したら、ここへ案内してと
彼らしくない命令を下しました。
自分で考えても、
おかしいことなので、
侍従が驚いた表情をするのも
無理はありませんでした。
侍従は、
王子がいるここへ、大公妃を
連れて来いということですよねと
確認すると、ビョルンは、
その通りだと答え、
懐中時計を開いて時間を確認し、
快く頷きました。
依然として侍従は、
混乱した表情をしていましたが。
精一杯、礼を尽くして
命令を受けると、
貴賓室を離れて行きました。
信じられないような目で
彼をチラチラ見ていた貴族たちは、
ようやく慌ててビョルンに近づき、
頭を下げました。
席から立ち上がったビョルンは、
適度に格式のある
社交的な挨拶を交わしました。
非常に厄介なことでしたが、
このようなやり方を
取ることにした時に
すでに覚悟していたことなので、
事新しいことでもありませんでした。
王子が駅のホームに現れると、
必然的に騒ぎが起こるはずでした。
彼が待っていると、
想像さえしていないエルナは、
間違いなく、
大きな戸惑いと恐怖に
包まれることになると思いました。
大げさに挨拶をした貴族たちが
一人二人と元の場所に戻ると、
ビョルンも再び椅子に座りました。
時計の針は、いつの間にか
エルナの乗った列車が
到着する予定の時間を
指していました。
エルナが来る。そう思うと、
少し妙な気分になりました。
もちろん、誤った知らせを聞いて
お見舞いに来るだけで、
自分の所へ、戻ってくるわけでは
ありませんでしたが。
到着予定時間から10分が経つと、
ビョルンは焦るような手つきで
椅子の肘掛を触り始めました。
もちろん、
納得できる範囲内の遅れでした。
混雑したプラットホームで
エルナを見つけて、
ここまで連れてくるのに、
これくらいの時間は
必要でした。
しかし、10分、また10分が経っても
侍従は戻って来ませんでした。
最後の忍耐心まで
底をついてしまったビョルンは、
席から立ち上がって
コートと杖を持ち上げた時、
真っ青な顔をした侍従が
駆けつけて来ました。
「王子様!事故が起きました!」と
彼が悲鳴のように叫んだ声に、
貴賓室に集まっていた
全員の視線が集中しました。
ビョルンは、
説明を求めるような目で
彼をじっと見つめました。
息を切らしていた彼は、
ようやく、口を開くと、
今朝、中西部の山岳地帯で
山崩れが起きた。
その余波で、列車が脱線する
大きな事故が起きたけれど、
それが、まさに妃殿下の乗っていた
列車だそうだと報告しました。
最愛の孫が、
幸せになる姿を見てから死にたい。
そう思いながらも
エルナへの手紙の中に
ビョルンのことを一言も書かないのは
エルナが自然にビョルンを
受け入れられるようになるのを
待っているのかもしれません。
エルナが、
ビョルンが好きで好きで
たまらないという様子を見せたのは、
おそらく、
アルセンのおばあ様だけだと思うので、
彼女は、そのエルナの気持ちが
変わっていないことを信じて
エルナが帰ってくるのを
待っているのだと思います。
本当に、アルセン公爵夫人は
愛情深い人だと思います。
どうか、彼女の執事が送った
電報を見たせいで、
シュベリンへ向かったエルナが
列車の事故に巻き込まれたことを
知って、アルセン公爵夫人が
後悔しないで欲しいです。
ビョルンの恋愛の実力が酷いのは
デナイスタの血筋だけれど、
美人が好きなのと、愛情深いところは
アルセン公爵家の
血筋なのではないかと思います。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
146話ですが、
私がカテゴリー分けをするのを
忘れてしまい、
記事を見つけられず
申し訳ありませんでした。
皆様からのコメントで、それに気づき
すぐに修正いたしました。
ご指摘いただいた皆様、
ありがとうございます。
もうすぐ本編は終わりますが、
そのまま外伝も続け、それが終わったら
一話に戻ろうかと思っています。