845話 一番最初に宮殿に戻って来た側室は誰なのでしょうか?
◇これは、あれ?◇
タッシール?
ヘイレンを治療すると言って
消えたタッシールが
使節団の馬車に乗って登場するなんて
ラティルは、
予想していなかったことに、
心から驚きました。
どうやって? どうやって?
気になることが多いため、
ラティルは質問だけを繰り返しました。
タッシールは、
自分に会いたかったかと尋ねると
ラティルを抱き締めるために
近づいて来ました。
人々が見ていようが見ていまいが、
少しも気にしませんでした。
彼からは苦労した人の匂いがせず、
お風呂に入って、きれいにした後の
すべすべした肌触りと
バラの香りの石鹸の匂いがしました。
急いで帰って来たのではなく、
帰る途中で、
きちんと体を洗ってくる余裕まで
あったようでした。
ラティルは、
タッシールの背中を軽く叩きながら
後から馬車を降りる人を見つけると
ヘイレン?!
と叫びました。
タッシールが治療をしに行った
ヘイレンの体は無事で、
スーツケースを持って
降りて来た彼は、ラティルが呼ぶと、
照れくさそうな笑みを浮かべました。
そして、ラティルに挨拶をすると
心配をかけたことを謝りました。
ラティルが、
治療は終わったのかと尋ねると、
ヘイレンは、
若頭がすぐに追いかけて来て
治療するのを手伝ってくれたと
答えると、これ見よがしに
スーツケースを持ち上げたり
下ろしたりを繰り返しました。
ラティルは
タッシールの懐から離れて
彼の両肩をつかみました。
胸がいっぱいになりました。
ラティルは笑顔で
大臣たちの方を向きました。
「タッシールを見ろ」と
言うつもりでした。
しかしラティルがそうする直前、
小さな動きを感知し、
再びタッシールの方を見ました。
今のは何?
と尋ねた後、ラティルは
タッシールが肩にかけている
上着のポケットの中で
何かが蠢いているのを発見しました。
驚いてタッシールから離れるや否や
黒くて愛らしい目と
サラサラとした毛を持つ
白いイタチが一匹、
ポケットから頭を突き出しました。
笑っていたラティルの表情が
一気に嫌がる顔に変わりました。
これ、あれじゃない?
ラティルは
見守っている大臣たちを意識して
白魔術師という言葉は飲み込みました。
それでも、しっかり
ラティルの言葉を理解した
タッシールは、
微笑んだまま頷きました。
しばらく、ラティルは、
気まずい笑みを浮かべながら
立っていましたが、侍従長に向かって
国務会議は30分後に再開すると
告げました。
◇白魔術師のおかげ◇
一体、どうしたのか。
なぜ、タッシールが
白魔術師を連れて来たのか。
ラティルは廊下を歩きながら
隣の人にだけ聞こえるほど
小さい声で尋ねました。
タッシールは
イタチの頭を撫でながら
いくつかのことで
助けてもらったと答えました。
ラティルは未使用の部屋の扉を開けて
中に入りました。 そして、
ソファーに座って待っていると、
タッシールは扉を閉めて、
ラティルのそばへ近寄りました。
ラティルがヘイレンのことを聞くと、
タッシールは、
荷物を整理するために、
すぐに戻ったと答えました。
ラティルは、
ヘイレンは大丈夫なのか。
そして、彼が怪我をしたのは、
もしかして、
ゲスターのせいなのかと尋ねました。
ヘイレンは、もう大丈夫だと
タッシールは答えると、
ポケットからイタチを取り出し
両手で空中に持ち上げ、
白魔術師様が助けてくれた。
うちのヘイレンを治療してくれたと
答えました。
ラティルは、
だらんとしているイタチを
無表情で見ました。
イタチは、
必死に天井を見つめて、
ラティルと目を
合わせようとしませんでした。
ラティルは、
ザイシンも治療できなかった
ヘイレンを、
どうやって治療したのかと
尋ねました。
タッシールは、
大神官がヘイレンを
治療できなかったのは、
彼が吸血鬼だからだと答えました。
ラティルは、
それはそうだと返事をすると
腕を組んで、
イタチをずっと見つめました。
イタチは依然として
天井だけを見上げていました。
タッシールは、
ラティルと自分の間に置かれた
平らなテーブルの上に
イタチを置きながら、
白魔術師様が、
皇帝とお話ししたいと言うので
連れて来たけれど、
実際に皇帝に会うと、
威厳に圧倒されて、話をするのが
難しいようだと言いました。
しかし、ラティルはそれを否定し
白魔術師は、
自分をペテンにかけたことを
思い出して、
話をするのが難しいのだろうと
返事をしました。
イタチは、
本物のイタチのように鳴きました。
ラティルは、ため息をつきました。
彼女は、白魔術師が
レアンの味方をしたことを
はっきりと覚えていました。
ラティルは、
こいつはクラインを拉致して
連れ去り、
ゲスターとカルレインの
足首をつかんで、緊急な状況に
間に合わないようにしたと
腕を組んで呟きました。
イタチは、
これはダメだと思い、
再びタッシールのポケットの中に
入りました。
ラティルは鼻で笑いましたが、
イタチを、そこから
取り出したりしませんでした。
いずれにせよ、白魔術師は
レアンを積極的に助けたわけでは
ありませんでした。
クラインを拉致したのも事実だけれど
白魔術師がいなければ、クラインは
アドマルの地下の大神殿から
出られませんでした。
あのイタチが
ゲスターを攻撃したのは
確かに気に入らなかったけれど
ゲスターのせいで、ヘイレンが
怪我をしたかもしれない状況で、
ラティルは、その話をするのが
難しいと思いました。
ラティルは、
ついにイタチを持ち上げて
目を合わせると、
何を企んでいるのかと
険しい表情で尋ねました。
しかし、何度聞いても、
白魔術師は
平凡なイタチのフリをしていました。
ラティルはタッシールに
イタチを返しながら、
白魔術師が助けてくれたことは
理解できたけれど、
タッシールは、どうやって
使節団の馬車で帰って来たのか。
皇配候補のテストの知らせは
商団から聞いたのか。
どうやって、こんなに
タイミングを合わせたのかと
尋ねました。
タッシールはにっこり笑って
ソファーから立ち上がり、
時計を見ました。
入って間もないような気がしましたが
いつの間にか、
20分が過ぎていました。
彼は、会議場に戻るのにも
時間がかかるだろうから、
残りの話は会議場で聞かせる。
大臣たちも、
最初に任務を全うしてきた
このタッシールの成果を
聞きたがるだろうと答えました。
◇気が咎める王◇
ゲスターは、
頭が痛いので、自分の頭痛薬を
持って来てもらえないかと
ロルド宰相に頼みました。
ゲスターの小さな声は、
他の人には、よく聞こえなかったので
タナサンの大臣たちは、
黒魔術師がロルド宰相に
何の話をしたのかと思い、
訳もなく不安になりました。
頭痛薬? ああ、あの頭痛薬!
しかし、ロルド首相は
全く不思議ではありませんでした。
体の弱いゲスターは、
もともと頭が痛い時に
よく飲んでいた頭痛薬がありました。
ロルド宰相は王を見ると、
少し外へ行って来てもいいかと
了解を求めました。
タナサンの宰相は、
どうして急に、
外へ出ようとするのかと
不安になって尋ねました。
黒魔術師の父親が文句を言われて、
自分たちだけで何か囁いて
外に出るなんて、
ひょっとして仲間を
呼び寄せるつもりなのかと疑いました。
ロルド宰相が、
薬を持ってこなければならないと
答えると、大臣たちは、
さらに恐ろしいことを考えました。
宰相は「どうしよう」という目で
王を見ました。
意外にも王は、
追い出せと目配せしました。
王が見るに、ゲスターは
黒魔術師ではあるけれど、
小心な上に若者でした。
最初は、彼が黒魔術師だと聞いて
緊張したけれど、
昨日、今日と見たところ、
ゲスターはゲスターで、
この前、見た時と同じく
平凡な青年たちよりも、
もっと小心者でした。
一方、ロルド宰相は
熟練した政治家でした。
ロルド宰相を外に出せば、
ゲスターくらいなら、
相手にしやすそうでした。
ロルド宰相が薬を持って帰って来ても
会議の途中に、
他の物は持ち込めないと言って
阻止すればいいと思いました。
ロルド宰相は挨拶をすると、
会議室の正門から出て行きました。
ゲスターは、
去って行く父親の後ろ姿を
見つめました。
その姿は、
タナサンの大臣しかいない会議室に
一人で残されるのを
恐れているように見え、彼を、
いっそう弱々しく見せていました。
その間、王は自分の侍従に、
そっと言質を与えて
横の扉から出るようにした後、
先程より一層安心しながら、
ゲスターに、
このことについて
意見を聞かせて欲しい。
タリウムの皇帝自ら推薦したのだから
きっと優れた策を
出すことができるだろうと促しました。
ゲスターは、その言葉を聞いてから
再び王を見ました。
しかし、意外にも、今回、彼は
丁寧に答えませんでした。
彼は微笑むと
ポケットに両手を入れました。
終始、徹底的に礼儀正しい態度とは
全く違う姿でした。
タナサンの王は不愉快になり、
眉を顰めて、
何をしているのかと尋ねました。
ゲスターは、ロルド宰相が
本当に薬を持ってくることを願って
送り出したのではありませんでした。
彼は宰相が出て行けば、
彼が入って来ないように
王が防ぐのを知って
送り出したのでした。
ゲスターは、
手を入れるのが嫌なら、
手を出しましょうかと尋ねると
王は、
タリウム皇帝の側室は実に無礼だ。
皇帝を頼みにして傘を着るのかと
激しく怒鳴りました。
大臣たちは
目を丸くして王を見ました。
ゲスターの行動は不愉快ではあるけれど
自分たちは助けを求める立場なので、
不愉快ではあっても、後のことを考え
今は、適当に不快感を少し表すレベルで
対応すればいいと思いました。
しかし、彼らは、
なぜ王が大声で叫ぶのか
理解できませんでした。
彼らは王がゲスターを利用して
美男を使おうとしたことに
失敗したため、
ゲスターに限っては、
気が咎めている状態であることを
知りませんでした。
ゲスターは、
そんなはずはない。
うちの皇帝の体面を
傷つけてはいけないだろうと
呟きながら、ゆっくりと
ポケットから手を出しました。
短い間、
勝利感に鼻を高くしていた王は、
ゲスターの手に握られた何かを見て
びっくりし、
また入れろ! もう一度入れろ!
と叫び、隣の扉に駆け寄りました。
◇静かな会議室◇
ロルド宰相は、
トゥーリがよく整理しておいた
荷物の中から、
ゲスターの頭痛薬を見つけました。
彼は薬と水筒を持って
会議室に駆けつけました。
しかし、あらかじめ
命令を受けていた兵士は、
申し訳ないけれど、タナサンでは
会議の途中で、外へ出た人を
再び中へ入れない。
途中で武器を持って
戻ってくるかもしれないからと
言って、
宰相を中へ入れてくれませんでした。
ロルド宰相は、
これが武器に見えるのかと言って
薬と水筒を見せましたが、
兵士はびくともしませんでした。
彼は、宰相が、どんな言い訳をしても
行かせないつもりでした。
王が侍従を送って、
何が起きても、
ロルド宰相を絶対に入れるなと
あらかじめ、
知らせておいたからでした。
ロルド宰相は
息詰まる思いがするやら
腹が立つやらで、
小声で悪口を吐きましたが、
手を下げました。
そして、ロルド宰相が、
本当に生真面目だと非難すると
兵士は謝りました。
その後、ロルド宰相は、
扉の前に近づきました。
兵士が止めようとすると、彼は
入らなければ良いのではないかと
鋭く抗議しました。
兵士も、そこまでは防げませんでした。
とにかく相手は、
タリウムの宰相だからでした。
ロルド宰相はムッとしながら、
扉越しに聞こえてくる音でも
聞くために耳を傾けました。
まさか、自分が席を外したことで、
彼らが、ゲスターを
侮辱することはないだろうと
怪しみました。
ところが、
いくら声を聞こうと努力しても
無駄でした。
会議室の中からは
何の音も聞こえませんでした。
あまりにも静かなので、
少しぞっとするほどでした。
防音が、
本当によくできているようだ。
タナサンの建築技術に敬意を表すると
ロルド宰相は皮肉を言いながら、
扉の前にある手すりまで歩いて行き
寄りかかりました。
しかし、むしろ兵士は、
その言葉に疑問を抱いて
会議室をちらりと見ました。
防音処理が施されてはいるけれど
会議中であれば、
聞き取れないようなざわめきが、
中から聞こえて来るからでした。
ところが今は、本当に会議室が
静まり返っている状態でした。
兵士は中の状況が気になりましたが、
許可を得ずに、外から扉を開けることは
できませんでした。
そのようにして、
どれくらい経ったか。
ようやく、内側から扉が開きました。
兵士は、本能的な不安を感じながら
会議室の中を眺めました。
これは何なのか。
内側から濃くて不快な鉄の匂いが
漂って来ました。
兵士の視界に、
赤いカーペットの中央に
一人で立っている、
ある男の後ろ姿が見えました。
他の部分は、
暗くてまともに見えないけれど、
不思議なことに、男の後ろ姿だけが
はっきりと見えました。
しかし、兵士が
しっかりと内側を確認する前に
ロルド宰相は彼の前を通り過ぎて
先に中に入ってしまいました。
宰相が入ると同時に、
しばらく開いていた扉が
バタンと音を立てて、
自然に閉まりました。
あっ!
兵士は仰天して後ずさりしました。
もしかして、
一番最初に戻って来たのは
タッシールかな?と
思いましたが、
やはり、その通りだったので
喜んでしまいました。
白魔術師が攻撃したのは
ゲスターではなく
アウエル・キクレン。
彼と白魔術師は相克の関係で、
白魔術師は、
アウエル・キクレンを
倒したいという点で
タッシールと利害が一致し、
おまけに彼が白魔術師を
持ち上げてくれるものだから
何かとタッシールを
助けてくれたのかもしれません。
このまま、白魔術師が
宮殿に居ついて、
タッシールのそばにいてくれたら
ゲスターを牽制できるのにと
思います。
ラティルは嫌がるかもしれませんが。
白魔術師は、ラティルに一度、
気絶させられているので、
彼女を警戒しているでしょうけれど
何の話をしに来たのか気になります。
濃くて不快な鉄の匂いって
もしかして血?
良い関係を築かなければならない
他国の王や大臣たちの前で
血を流すようなことは
しないでしょうけれど、
黒魔術を使わなければ
何もできないようなゲスターは
皇配になる資格はないと思います。