849話 ラティルはゲスターに高い山の頂上へ連れて行かれました。
◇激しい言い争い◇
ゲスターは、
半ば魂が抜けた状態でした。
白魔術師は腹立たしい奴だけれど
彼の主張は正しく、
彼は、黒魔術の扱い方だけは、
はっきり分かっていました。
特に最後に彼が使った封印魔術は、
ゲスターにも、かなり致命的でした。
しかし、白魔術師の、
最も苛立たしかった点は、
彼の、逃走能力でした。
カルレインが、
イタチに変わった白魔術師を
逃したと言った時は面白くて
笑ってばかりいましたが、
実際に経験してみると、
彼の逃げ方は本当に卑劣でした。
白魔術師が偽装兼防御として使った
数百匹のイタチを見て、ゲスターは
白魔術師とイタチを
一緒に退治するか、一緒に生かすかを
選択しなければなりませんでした。
その後、ゲスターは自分の部屋に戻り
彼の魔術のあちこちに
ベタベタとくっ付いた
白魔術の跡を取り除きました。
不快な魔術を取り除いた後は、
あの封印魔術に縛られた魂を
解放しなければなりませんでした。
その過程で、
しばらく精神が混乱していた時、
誰かが彼に触れました。
ゲスターは本能的に、
自分を捕まえた人を連れて
遠くへ移動しました。
気がつくと、目の前に
ラトラシルが腕を組んで立ち、
彼を睨んでいました。
非常に怒った顔をしていました。
何だって?
ランスター伯爵は、
まだズキズキしている頭を
押さえながら尋ねました。
無意識のうちに起きたことなので、
彼はラトラシルが
何か言ったということ以外、
何も思い浮かぶことが
ありませんでした。
ラティルは、その話し方から
相手が
ランスター伯爵であることに気づき
鼻で笑うと、
今、聞いていないふりを
しているだろうと皮肉を言いました。
それでも、ラティルは、
ゲスターよりランスター伯爵と
戦う方がましでした。
彼は、自分の腰のあたりまである
大きな岩に腰かけながら、
本当に聞いてなかった。
何て言ったのかと尋ねました。
まだ、絡まった魂が
いくつか解けていない状態でした。
頭の中で、
悲鳴のような音が鳴り続け
吐き気がしました。
ラティルは、ランスター伯爵が
自分と戦いたくて、
ここへ連れてきたのかと言ったと
答えました。
ラティルはランスター伯爵が
具合が悪そうにしている姿を見ても
一抹の同情心も感じませんでした。
彼が、今、仮病を使っていると
確信していたからでした。
ランスター伯爵は、
依然として額を押さえながら
ラティルと戦って、
何の得があるのかと尋ねました。
彼は、ラトラシルが
本当に好きでしたが、今は、
誰とも話したくありませんでした。
一人で部屋の中で、
白魔術師の封印魔術を
解きたいと思いました。
ラティルは、
ランスター伯爵が自分と戦いたくて
いきなり、こんな山の頂上に
連れて来たのではないか。
まさか、こんな所で、
デートでもしようとして
連れて来たのかと尋ねました。
ランスター伯爵は、
デートを期待していたのなら
残念だけれど、
自分は、後ろから誰かに
攻撃されたと思って移動しただけ。
少し、気が気でなかったと答えると
岩から立ち上がって
手を伸ばしました。
故意ではなかったけれど、
ラトラシルが驚いただろうから、
まず元の場所に
連れて行ってあげるつもりでした。
ランスター伯爵は、
こっちおいで。 連れて行ってあげる。
と声を掛けましたが、ラティルは、
どうして、自分がランスター伯爵を
信じることができるのか。
ランスター伯爵は何も言わずに
自分をこんな所へ連れて来た。
もっと変な所に、
自分を置いて行ってしまったら
どうするのかと尋ねました。
すると、ランスター伯爵は
それなら、
頼もしいロードの足で移動してと、
眉を顰めながら皮肉を言い、
すぐに手を上げました。
ラティルは唇を噛み締めて
彼の方に近づくと、
ランスター伯爵は、本当に、
いつも一線を越えると非難しました。
ランスター伯爵は、
連れて行ってやると言えば
嫌だと言うし、
自分の足で行けと言えば
嫌だと言うなんて、
どうすればいいのかと言い返すと、
ラティルは、
ランスター伯爵の言葉を信じない。
ランスター伯爵は、
自分と戦ってから怒ろうと思って、
わざとここへ
連れて来たのではないか。
自分は、ランスター伯爵のように
一気に家に帰れないから、
わざわざ、こんな人里離れた所へ
連れて来たのではないか。
自分は死なないけれど、家に帰るのに
苦労しなければならないからと
抗議しました。
ランスター伯爵は、
そんなことはない。
人の話を信じてみたらどうかと
言いましたが、ラティルは
サーナット卿やタッシールの件など
一度や二度ではないのに、
信じられると思うのかと尋ねました。
ランスター伯爵は、
ロードはサーナット卿でも
タッシールでもない。
自分とその二人の仲は、
自分とロードの仲とは違うと
反論しました。
ラティルは、
ランスター伯爵の言葉通り、
本当に、間違って自分を
ここへ連れて来たとする。
それでも、
人を荷物のように扱うのではなく
先に謝るべきではないかと
抗議しました。
ランスター伯爵は、
あっ、そうだ。ごめん、ごめん。
荷物ではなくロードだ。
これでいい?
と誠意なく謝罪しました。
ラティルは一瞬にして、足から頭まで
血が噴き上がる気分になりました。
なんで、こんな人間がいるのかと
思いました。
それで謝ったつもりなのか。
ランスター伯爵は、
自分が悪いことをしたことは
絶対に認めない。
ヘイレンにも謝らないし、
自分にも謝らないと非難しました。
ランスター伯爵は、
今、ロードと
喧嘩をしたい気分ではない。
喧嘩は十分にしてきた。
自分に連れて行って欲しいなら、
こちらへ手を出してと促しました。
ラティルは、
ランスター伯爵と口論するより、
ゲスターと口論する方が
もっとイライラするという評価を
改めました。
ランスター伯爵は、
とんでもないレベルを超えて
相手の感情を完全に壊す素質が
ありました。
ラティルは、
本当にランスター伯爵は
性格がおかしい。
ゲスターもおかしいし、
アウエル・キクレンもおかしいと
叫びました。
しかし、ラトラシルの抗議を聞いて、
さらに呆れたランスター伯爵は、
ロードもなかなか変だ。
ロードは、自分の性格がいいと
思っているのか。
二重人格ではないかと非難すると、
ラティルは、
人格だけ三つもある人間が
何を言っているのか。 この詐欺師と
言い返しました。
ランスター伯爵は歯ぎしりしながら
ラティルと向かい合うと
ロードが今、自分に
詐欺師云々言える立場なのか。
自分に、自分たちが夫婦だと
騙した人は誰だったのかと、
言いたいことを言いました。
ラティルは、
それは自分だけれど、
それが何だと言うのか、
自分がランスター伯爵を
側室として志願するよう
勧めたことがあるのかと尋ねました。
ランスター伯爵は、
ロードが自分を騙さなかったら
友達との約束を
守ったということで終わらせ
ロードと対抗者のことには
何の関心も持たなかったと
答えると、首を軽く横に振り、
やれやれと言った様子で
肩をすくめると背を向けました。
そして、
ああ、そうか。
好きなようにしろ。
私も、もう疲れた。
私をこんな風に扱うつもりなら、
勝手にしろと言いました。
ラティルは、
どこへ行くのかと尋ねました。
ランスター伯爵は、
自分も好きなようにしに行くと
答えると、
本当に大股で歩き始めました。
ラティルは、
すぐに遠ざかる後ろ姿を見て、
びっくりして彼に駆け寄り
ランスター伯爵を捕まえると、
頭がおかしくなったのか。
ランスター伯爵が、
そのように行ってしまったら
ゲスターはどうなるのか。
彼は、ロルド宰相の息子だと
訴えると、ランスター伯爵は
ある時は、気を使ったような
言い方をすると言うと、
ラティルの手から袖を引き抜き
反対側の手を差し出して
手を握って。
と言いました。
ラティルが、
行かないのかと尋ねると、
ランスター伯爵は、最後にロードを
宮殿に連れて行ってやる。
その後、自分は去ると言いました。
一旦、ラティルは帰るために
彼を捕まえようとしましたが、
その言葉に手を引っ込め、
彼に背を向けると走り出しました。
ランスター伯爵は
木の間を縫って逃走するロードを見て
クソッ!ラトラシル!
何をしようとしているんだ!
と叫びました。
その瞬間、
順調に走っていたラティルは、
お腹に強い痛みを感じて
倒れそうになりました。
ラティルは片手で木につかみ、
もう一方の手でお腹を押さえました。
腹部から上がってくる特に強い痛みが
3回続いて、ラティルを襲いました。
彼女は、すぐに気を失いました。
ランスター伯爵は、
急いでラティルを抱き締めました。
ラティルは意識がない中でも
お腹に手を乗せて、顔を歪め、
しきりに頭を動かしていました。
彼女の口から苦しそうな声が漏れると
ランスター伯爵は、丸く膨らんだ
ラティルのお腹を見ました。
まさか。
彼は、
ラティルの臨月が近いことを
思い出しました。
そのことを考えるや否や、
ランスター伯爵は、
宮殿の医務室に直行しました。
銀色のトレーに、
医療道具を入れて歩いていた宮医は、
目の前に突然、二人の人が現れると
悲鳴を上げながら、
尻もちをつきました。
宮医はワンテンポ遅れて、
それがラティルとゲスターであることに
気づきました。
彼女は反射的に、
固く閉ざされた医務室の扉を見ました。
扉は、まだ閉まっていました。
しかし、医務室の中の
他の宮医と助手たちは
口を開けたまま、
こちらを見ていました。
今、空中から現れたと、
ぼんやり呟いていた宮医の前に
突然皇帝が差し出されました。
宮医は、ようやく皇帝が
苦しんでいることに気づき、
ベッドを運んで来てと
急いで叫びました。
◇心からの愛◇
宮医が移動用ベッドに
皇帝を寝かせて診察している間、
ゲスターはベッドの周りに
掛けられている
白いカーテンの向こうに
立っていました。
彼はイライラしながら
カーテンの周りを
行ったり来たりしていていて、
少しも、
じっとしていられませんでした。
まもなく、侍従長とサーナット卿が
到着しました。
どうしたのか?
サーナット卿は焦るあまり、
感情を露わにしながら、
侍従長より先に、ゲスターを
問い詰めました。
サーナット卿を牽制する
余裕もないゲスターは、
皇帝がお腹の痛みを感じて倒れたので
ここへ連れて来たと、
うわの空で答えました。
サーナット卿は、
ザイシンはどうしたのかと
自分たちにしか聞こえない
小さな声で尋ねました。
ゲスターは、
子供が生まれると思ったと
答えました。
侍従長は差し迫った様子で
早産ですか?
と話に割り込みました。
しかし、カーテンの向こうから
「いいえ」と返事がしました。
3人は話すのを止めて、
そちらへ顔を向けると、
ベッドを仕切っていたカーテンが
横に開き、すぐに、宮医が
ほっとした表情で出て来て、
早産ではないけれど、
安静にした方がいいと
説明しました。
宮医はいくつかの注意事項を
伝えてから、
薬剤師に会いに行きました。
ゲスターは、
ようやく一息つきましたが、
安心したところで、
医務室の中の人たちが
自分を尋常でない人のように
チラチラ見ていることに
気がつきました。
サーナット卿も、その様子に気づき、
なぜ人々がゲスターを見ながら
しきりに、ひそひそ話しているのかと
尋ねました。
ゲスターは、黒魔術師だということが
明らかになった後も、
人々は彼を恐れなかったので、
ラティルは、この点を
羨ましく思っていました。
ところが今、人々は、
ゲスターを良くない目で
チラチラ見ていたので、
サーナット卿は、
それが変だと思いました。
サーナット卿は、
一体、何があったのかと尋ねると、
ゲスターは、
皇帝が危なそうだったので、
人前で移動したと答えました。
サーナット卿は本当に驚きました。
ゲスターは黒魔術師であることを
知られた後も、
色々な能力や汚い性格を
よく隠していましたが、
中でも徹底的に隠していたのは
本性ではなく、狐の穴でした。
ところが、ゲスターは皇帝のために
人々の前で、その能力を使いました。
陛下を、
心から愛しているのだろうか。
サーナット卿は
ゲスターの横顔を見て、
自分の近衛騎士団の制服を
見下ろしました。
◇意外な話◇
一方、兄が皇帝だから、
一番楽に行って来られると
思っていたクラインは、それなりに、
かなり苦労していました。
彼はカリセンに行く時、
自分は皇配候補ではないけれど、
皇配候補より、
もっと良い成果を出して帰る。
そうすれば皇帝も、
気が変わるだろうと
かなり前向きに考えていました。
ヒュアツィンテが送って来た
早く帰って来いという合図も、
やはりクラインにとって
良い兆候でした。
その上、カリセンに行くと、
タリウムの国民とは違い、
カリセンの国民は、
クラインが乗った馬車が通り過ぎると
クライン皇子様だ!
皇子様!
こちらを見てください!
と声を掛けながら、
馬車に向かって手を振り、
花や小さな果物などを
まき散らしながら歓呼しました。
タリウムでは、
なかなか受けることのできない
もてなしに、
クラインはすぐに傲慢になりました。
彼は嬉しそうに人々に手を振って
お返しをしました。
以前は、彼を
トラブルメーカー扱いしていた
大臣たちも、彼に丁寧に接し、
尊敬する姿を見せてくれました。
しかし、ヒュアツィンテが
もういい加減にして、
帰って来るようにと言うと、
興奮していたクラインは
失望しました。
またその話なの?
と怒ろうとするクラインに
ヒュアツィンテは、
ここへ戻って来て、
国政運営を学びなさいと、
意外な話を投げかけました。
白魔術師に攻撃されて受けたダメージが
まだ回復しないうちに、
ラティルに言葉の攻撃を受けて
疲弊してしまったような
ランスター伯爵。
世捨て人になりたいような
態度を取ったけれど、
ラティルが追いかけて来ることを
期待していたのかも。
ところが、妊娠中なのに走るという
無茶ぶりを発揮したせいで
気を失ったラティルを見て、
すっかり毒気が
抜かれてしまったような感じに
見えました。
ゲスターも、
ラティルに信じられないと
言われたことが、
ショックだったのかも。
しばらくすれば
元に戻るのでしょうけれど。
けれども、ラティルが
アニャドミスに攻撃されて
体に穴が開いた時も、
ゲスターは即座にラティルを
ザイシンの所へ連れて行き、
今回も、すぐに宮殿の医務室に
連れて行きました。
この時の彼は、
ラティルを助けることに必死で
狐の穴のことが
バレてしまうという心配すら
できなったのではないかと
思います。
サーナット卿も気づいたように、
ラティルに対する愛だけは
本物のようです。
クラインは
ラティルと一緒にいると
ヘタレになってしまうので、
彼女と別れて
カリセンで英雄になる方が
幸せなのではないかと思います。