154話 シュベリンに戻って来たエルナとビョルンのその後は?
春の日差しが窓を通り抜け、
ベッドに届きました。
ビョルンは、ゆっくりと揺れる
カーテンの影を
目を細めて見つめました。
花。レースの模様を認めた
ビョルンの口の端が
やや傾きました。
名前は分からないけれど、
エルナが愛してやまないその花が
カーテンいっぱいに
刺繍されていました。
春を迎えるために、
新しく飾った寝室の一部分のようで
昨夜、エルナは、ベッドで
お喋りしながら自慢していました。
とにかく、好みはいつも変わらない。
何だか虚脱感を覚えて
笑っている間に、日差しが
ベッドヘッドに当たらないように
カーテンを調節していたメイドたちが
背を向けました。
ヘッドクッションに
深く腰を下ろしたビョルンは、
顎の先を下げて
彼らの苦労を労いました。
それから、
朝食は庭に用意するように。
一時間後くらいがいいと、
もじもじしているメイド長へ
命令しました。
彼の囁くような低い声からは、
まだ眠気が、
微かに滲み出ていました。
メイドたちが退くと、
すぐに寝室は静寂に包まれました。
ビョルンは風に揺れるレースの影。
クリーム色のリボンをつけた
鹿の角のトロフィー。
並んで置かれた2足のスリッパ。
そして、エルナを見つめました。
あと10分。噴水が稼動するまでの
残り時間を確認したビョルンは
エルナを見下ろしました。
今年、噴水が初めて稼働するのを
必ず見ると壮語していた彼の妻は、
まだ、ぐっすり眠っていました。
昨夜、エルナが飲める量より
多くの酒を飲んだためのようでした。
ビョルンは、
彼女を起こそうと思ったのを
やめて、エルナのそばに
身を横たえました。彼女は、
頬にかかっている髪をなでても
目を開けませんでした。
昨夜とは全く違う、その純真な顔に
ビョルンはクスクス笑いました。
「エルナ」その名を呼ぶと、
今日と非常に似ている、
昨年の春の記憶が浮び上がりました。
春を迎え、再び稼動した噴水を
見物することに興奮していた
エルナは、その日も寝坊しました。
そして今日のように、
なぜかビョルンも、いつもより
早い時間に目を覚ましました。
眠っているエルナを
見つめている瞬間の気持ちも、
少しも変わりませんでした。
一点だけ、
変わったことがあるとすれば、
この甘い無力感の名前を、
今は、はっきりと
知っていることくらいでした。
片腕で頭を支えて
横になったビョルンは、
繊細に作られたような小さな顔を
ゆっくりと鑑賞しました。
きめ細かい目鼻立ちと
陶磁器のような滑らかな肌、
長いまつげが垂れ下がった影まで
目に触れる全てのものが美しい
この女性は、自分のものでした。
ビョルンは
満足そうな笑みを浮かべました。
私の妃、エルナ。
ゆっくり頬を撫で、
下へ降りて来たビョルンの手が
細い首筋の上で止まりました。
指先に伝わってくる
規則的な脈拍が思い出させた冬の悪夢は
間もなく姿を消しました。
ビョルンは目を開けて
時計を確認しました。
いつの間にか5分前になっていたので
そろそろ酔っぱらいの鹿を
起こさなければなりませんでした。
ビョルンは、
いっそう低く優しい声で
「エルナ」と囁きました。
肩をそっと抱くと、
エルナは甘えるように
彼の腕の中に潜り込みました。
体に伝わって来る体温が甘美でした。
噴水が稼働した昨年の朝も
こうだったと、
覚えているとは思わなかった記憶を
思い出したビョルンの目に
温かさが宿りました。
ビョルンはエルナに
もう起きなければと言うと、
いたずらっぽい手つきで
エルナの鼻先を叩きました。
このままでは、
待ちに待った噴水の稼動を
見逃してしまうと言う
ビョルンの指先が、エルナの頬の上を
ゆっくり彷徨っている間に、
小さく寝返りを打ったエルナが
うつらうつらしながら
目を開けました。
彼女の青い目いっぱいに
自分だけを湛える瞬間を、
ビョルンは静かな眼差しで
見守りました。
噴水と、ぶつぶつ言いながら
瞬きをしていたエルナは、
しばらくすると「あっ!」と
驚愕の嘆息を漏らしました。
ビョルンがクスクス笑っている間、
エルナは慌てて起き上がりました。
明るい日差しが裸身を包み込むと、
昨夜の赤い痕跡が、
いっそう目立ちました。
春に水分を吸い上げた枝に
付いている蕾に似たその跡が、
ビョルンの眼差しを
さらに深めました。
彼は、
ただ自分だけのために花を咲かせる
小さくて美しい世界の
全能の神にでもなったような
おかしな気分になりました。
狂った奴だと、
ビョルンが自嘲している間、
エルナは急いで
ベッドから降りました。
二日酔いのせいでよろめきながらも
エルナはガウンを羽織って
バルコニーへ駆けつけました。
ビョルンの手より小さい靴は
絨毯の上に
きちんと置いてありました。
裸足の美しくてたおやかな
淑女を見守っていたビョルンは、
穏やかなため息をつきながら
ベッドから抜け出しました。
リボンと真珠が付いたスリッパを
手に取り、一歩を踏み出すと、
「ビョルン、早く!」と
彼を呼ぶエルナの声が
聞こえて来ました。
寝坊した張本人が
こんなに急かすなんて、
非常に厚かましい態度だけれど、
ビョルンは、喜んで
受け入れることにしました。
かつてないほどの寛容さを
施せないこともないほど
晴れた朝だからでした。
ビョルンはバルコニーに出ると
手に持ったスリッパを
エルナに振って見せました。
彼女の目が丸くなりました。
ようやく自分が裸足であることに
気づいたようでした。
もう少し、
からかおうとするのを
思い直したビョルンは、
素直にエルナの足元に
スリッパを置きました。
ビクッとした小さな足が
急いでスリッパを履くと、
ビョルンの口から、
プッと気が抜けたような笑いが
漏れました。
その理由は、
あえて考えませんでした。
どうせ、今日のこの輝かしい光に似た
感情の名前と同じだろうと
思ったからでした。
急いで髪の毛を撫でつけ、
ガウンの紐の形を整えたエルナは、
まっすぐな姿勢で
手すりの前に立ちました。
ビョルンは妻のそばに並んで立ち、
足元に広がる
庭園を見下ろしました。
程なくして、
噴水の水が湧き上がると
エルナは子供のように
無邪気に笑い出しました。
しばらくして、エルナは
ビョルンの方を向きながら、
今年最初の噴水の稼働も
一緒に見ることになったと
言いました。
上気した両頬が輝いていました。
エルナは、
もう本当に伝統になったようだと
言いました。
ビョルンは、
舌の上で飴を転がすように
「伝統」という言葉を繰り返しました。
毎年、春になったら、
最初の噴水の稼働を一緒に見ることが
大公家の伝統になればいいのにと言う
エルナは、
両手がやっているいやらしいこととは、
全く別な真剣な表情をしているけれど
昨夜の酒乱を記憶しているようでした。
「まあ妃の意のままに」と
ビョルンは気前よく頷きましたが、
どうせなら、その前夜祭も
伝統の一部にしてくれれば申し分ないと
言いました。
その言葉にエルナはビクッとし、
何を言っているのか、
よく分からないと
知らんぷりをしましたが
もちろん嘘でした。
甘くて、ほろ苦い
バフォード産ワインの風味と
柔らかい夜風。
先に始めた大胆なキスと
ビョルンの笑い声。
酔いが広がった肌に触れた
冷たくて柔らかい体温まで、
昨夜の記憶は完璧過ぎて、
エルナを困らせました。
呆れたようにエルナを見ていた
ビョルンは、
自分の妃は酒に酔うと
半分しか覚えていない癖があると
言って、愉快そうに笑い出しました。
そして、ビョルンは、
あの事は、
覚えていない残りの半分に
属しているようだと付け加えましたが
意地悪な態度とは裏腹に、
手を差し出すビョルンの身振りは、
舞踏会でダンスを求める
紳士のように優雅でした。
悪魔は一番美しい顔で
誘惑してくるものだと言っていた
田舎の祖母の教えが
ふと思い浮かびました。
都会の祖母も、男は顔だと、
同じアドバイスをしました。
エルナは「たぶんね」と
ツンツンしながら答えると、
彼が差し出した手を握りました。
やはり、大人の言うことは
大体正しいものだと思いました。
長い水路を通り過ぎた噴水の水流が
シュベリン湾に届くほどの
時間が流れるまで、
2人は手をギュッを握り合ったまま、
きらめく朝の風景を眺めました。
2人で一緒に過ごす2回目の春。
これくらいなら、
かなり満足できる伝統の
始まりでした。
本当に大丈夫なのかと、
ビョルンは落ち着いて尋ねました。
小さく切った果物の漬物を
かじっていたエルナは、
丸く大きくなった目を上げて
彼と向き合いました。
ビョルンは目を伏せて
テーブルの端にある本を指差し
「その旅」と言いました。
それは、最近、エルナが
自分の体の一部のように持ち歩いている
旅行ガイドブックでした。
ビョルンは、
嫌なら言ってくれと言うと、
折りたたんだ新聞を起き、
椅子の背もたれに寄りかかりました。
そうしなければ、分からないと言う
ビョルンのエルナを見つめる目が
徐々に細くなって行きました。
今回の旅行も、外交のための
歴訪になってしまいました。
本来、皇太子の役目でしたが、
レオニードが、突然、
その任務を遂行できないと宣言し、
事態が急変したためでした。
ただの一度も、自分の責務を
疎かにしたことがなかった
レオニード・デナイスタの
起こした波乱は、
ビョルンにも、少なからず
大きな衝撃を与えました。
今回の歴訪を変わって欲しいという
彼の懇願を、
断ることができなかったのは
そのためでした。
その言葉を口にするまでの
レオニードの苦悩を、あまりにも、
よく知っているからでした。
その理由については
固く口をつぐんでいるけれど、
レオニードが
このような決定を下したのなら、
それは、彼の人生を
揺るがすほどのことだろうと、
ビョルンは直感しました。
「そうですね。」と呟いて
彼をじっと見つめたエルナは
2日後には
出発しなければならないので、
もう選択の余地がないのではないかと
尋ねました。
ビョルンは、代替案は
いくらでも用意できると答えました。
エルナは、本当なのかと尋ねると、
ビョルンは、
クリスを代わりに送って
自分たちは予定通り
旅行に出てしまえば良いと答えました。
ニヤリと微笑む、厚かましい顔を
眺めていたエルナは、
思わず苦笑いしました。
エルナは、
まだ学生のクリスティアン王子に
使節団を任せるのかと尋ねました。
ビョルンは、
17歳なら、そろそろ爵位を受けるのに
値するのではないかと答えました。
エルナは、
とても立派な代替案だと言うと
無邪気な少女のように
微笑んで頷きましたが、
自分は今回の歴訪が
かなり気に入ったので遠慮すると
言いました。
度々開いたせいで、
手垢のついたガイドブックを見下ろす
エルナの目は4月の日差しのように
澄んで静かでした。
今回の使節団の目的地は
大陸最南端にある
レチェンの同盟国のロルカでした。
ロルカ国王の
即位50周年記念式に出席し、
両国の友好関係を深めることが、
大公夫妻に与えられた
主な任務でした。
待ちに待っていた
2回目の新婚旅行へ
行けなくなったのは残念でしたが、
エルナは毅然として
現実を受け入れることにしました。
公式の日程が終われば
二人だけの時間を
持つことができるだろうし、
その見知らぬ神秘的な
ロルカという国を
エルナはとても気に入りました。
美しい海岸と砂漠がある
その南の国は、四季を通じて
花が咲くそうでした。
そして、ガイドブックに収録されている
ロルカの建物と街を描いた挿絵は、
異彩を放ち、華やかで、
まるで童話の一場面を
見ているようでした。
その風景の中を
ビョルンと一緒に歩く想像をした日、
エルナは、突然訪れたこの運命も、
喜んで愛すると決心しました。
エルナは、
本当に大丈夫。
よく考えて決めたことだし、
一生懸命、準備したし、
うまくやり遂げる自信もあると
言うと、
ビョルンを、真っすぐ見つめました。
まだ治っていない二日酔いのせいで
頭がずきずきしましたが、
上品な態度を失わないように
努めました。
ビョルンは、良い子を褒めるように
立派な大公妃だねと言って
頷きました。
エルナは頬を赤らめながらも、
良い奥さんでもあると、
ポンと撃つように
挑発的な言葉を投げかけました。
不意の一撃に呆然としていた
ビョルンが爆発させた笑いが
水の流れる音と調和しました。
帽子をかぶり、服装を整えたエルナは
まるで何事もなかったかのように
平然とガイドブックを開きました。
中途半端に知らんぷりする妻と、
そのような妻を、
じっと見守る夫がいる花陰の下の
朝の食卓に、
たちまち平穏が訪れました。
タイの結び目を少し緩めたビョルンは
頬杖をついて座ったまま
目を上げました。
リンゴの花が満開の木の枝の間を
通ってきた日差しが、
優しい笑みを浮かべた
彼の顔を照らしました。
白い雲が流れる空と木々、
きらめく噴水の水の上を
ゆっくり徘徊していた
ビョルンの目は、当然のように
再びエルナに向かいました。
避ける暇もなく目が合うと
ギョッとした彼の良い妻は
しばらくして、
はにかむような笑みを浮かべました。
春の訪れとともに
ビョルンとエルナの間にも
終始、温かい雰囲気が
漂っているのが、微笑ましくて
嬉しくて、ついうい
顔がほころんでしましました。
以前より、ビョルンに対して
エルナが物おじしなくなったのは
彼が自分を愛していることを
確信しているからなのでしょう。
ビョルンが皮肉っぽいところは
相変わらずだけれど、
彼の言葉の端端に、
エルナへの愛が込められているように
思えました。
きっと、ビョルンは
エルナが死にそうになったことを
思い出す度に、
彼女を苦しめたり
傷つけたりしてはいけないと
気持ちを新たにするのではないかと
思います。
エルナの足が、
ビョルンの手よりも小さいことに
驚きでした。
裸のエルナと
おそらくビョルンも裸?でいる中に
メイドたちは入って来て
カーテンを開けるのですね。
もちろん、それは、ビョルンが呼んで
指示したからなのでしょうけれど
カレンが、もじもじするのも
無理はないと思います。
******************************************
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
デナイスタと書いたり
ドナイスタと書いたりと
バラバラになってしまい
申し訳ありません。
マンガではデナイスタと
なっているので、
そちらに合わせなければと思いつつ
発音がドナイスタなので、
うっかり、
そちらを書いてしまいました。
気がついたら訂正いたします。
ビョルンも、韓国語の発音では
ビエルンですが、
おそらく、こちらは、
間違えていないと思います。
人の名前の読み方は難しいです。
前話のクッキー缶の画像ですが、
無料の画像の中に
適当なクッキー缶の画像を見つけられず
私の家にあるのは、ハローキティと
ディズニーのクッキー缶だけなので
AIで画像を作ってみました。
蓋の上に、綺麗な絵、可愛い絵、
花の絵が描かれているクッキー缶で
生成してみましたが、
ピンと来るのものがなく
雪だるまの絵で生成したところ、
ようやく、
気に入った画像ができました。
iwanesan様
アンティークは、当地にもあるので
マジカルチョコリングを
食べたことがあります。
しばらく、食べていないので
久しぶりに行ってみようかな・・・
それでは、明日も更新します。