156話 外伝3話 エルナはウィンフィールド氏が主催するパーティーに出席することになりましたが・・・
鶏冠を立てた雄鶏。優雅なアヤメ。
昼寝から目覚めたばかりの
怠け者の猫。
エルナは、
豪華なパーティー会場の上に
バフォードの風景を重ねました。
見知らぬ人たちを
田舎の見慣れた花や動物に置き換えて
想像してみると、
胸を締め付けている緊張感が
やや和らぎました。
マイアー伯爵夫人は
非情なシャぺロンでしたが、
このような妙案を
教えてくれたという点だけは
深く感謝していました。
もしかして退屈しているのかと
クララ・ロッショーが
慎重に尋ねました。
ぼんやりとしていたエルナは
我に返ると、それを否定し、
慌てて首を横に振って微笑みました。
自分に集中している
数十個の瞳に向き合うと、
一瞬、息が詰まって来ましたが
幸い、その症状は
それほど長く続きませんでした。
心臓が正常な鼓動を取り戻すと、
エルナは、再び女性たちの会話に
参加しました。
それぞれの旅行計画や
社交界での出来事や事故。
このような場で、
よく出る話題が飛び交う間に、
楽団が演奏する音楽が変わりました。
すると、
このパーティーの主催者である
ウィンフィールドが、丁重に
エルナをダンスに誘いました。
彼女は、少し困惑した目をすると、
用意されていたシャンパンが
とてもおいしくて、
飲み過ぎてしまったと言って
自分の前に置かれた空のグラスを
指差しました。
そして、
この素晴らしいパーティーの主催者と
最初にダンスをする光栄を
自分に与えてくれたことに
感謝している。
淑女らしくない自分のミスのせいで
良い機会を逃すことになったけれど
ウィンフィールド氏の厚意は
大切にすると、
レチェン語が下手な彼を配慮するように
普段よりゆっくりした口調で
遠回しに拒絶の意を伝えました。
礼儀上、
ウィンフィールド氏の申し出を
受け入れるのが適切だろうけれど、
このような姿では、到底、他の男を
近づけることはできそうに
ありませんでした。
大都市の流行とは、
なんと軽薄なことか。
公式的な席上では、
人々と、より容易く、
交わることができる服装にしようと
決心しましたが、
まだ気まずい気分を、
拭い去ることはできませんでした。
胸と肩の半分が
丸見えのドレスだなんて、
まさに道徳が消えた末の世と呼ぶのに
相応しい物でした。
エルナは、テーブルクロスを
巻きつけたい衝動を抑えながら
優しい笑みを浮かべました。
残念そうな表情をしていましたが、
幸いにもウィンフィールドは
これ以上、催促せずに退きました。
次を期待する彼の目つきからは、
依然として熱烈な賛嘆と羨望が
滲み出ていました。
ウィンフィールドは
ベルク出身の中年の公爵夫人と
最初のダンスを始めました。
続いて、ペアを組んだ人たちが
ダンスに合流すると、皆の関心は
自然にダンスの相手に集中しました。
熱心な関心から解放されたエルナは
ようやく安堵し、
静かにため息をつきました。
よくやったと自分を褒めると
喜びで胸がいっぱいになりました。
冷や汗が出て、声が少し震えたけれど
これくらいなら
悪くない行動だと思いました。
恐怖で真っ青になり
慌てふためいているうちに、
白い目で睨まれ
嘲笑われることが日常的だった
昔に比べればなおさらでした。
冷たい水で唇を潤したエルナは、
まっすぐな姿勢で座り、
盛り上がっている船上パーティーを
見守りました。
品位のある大公妃に
相応しい姿でしたが、
時々、浮かび上がる微笑まで
完璧に隠すことはできませんでした。
今夜もビョルンに、彼の妻が
どれだけうまくやり遂げたか、
一から十まで全て、思いきり
自慢するつもりでした。
そう思うと、ビョルンの不在が
非常に残念とは思えませんでした。
1人でいるおかげで、
少し誇張を加えた武勇伝を
語ることができるからでした。
王子は妻を愛している。
レチェンが愛する、その美しい童話は
エルナの心を守ってくれる
呪文でもありました。
役不足で
冷遇された人ではないという
信念を持つと、余裕が生まれ、
そのような心で向き合った世の中は
以前のように、漠然として
恐ろしいだけの場所では
ありませんでした。
もちろん、一夜にして
全てが魔法で変わったわけではなく
グレディス王女の影が
消えたからといって、
皆が大公妃に、
心を開くようになったわけでは
ありませんでした。
以前のように、
あからさまに表明できなくなった
反感を、より巧妙な方法で
示す人も少なくありませんでした。
この場にも、そのような人が
存在するということを
エルナはよく知っていました。
しかし、その悪意は、
以前のように深い傷を
残すことができませんでした。
「愛している」という一言の告白が
エルナの世界を変えました。
おかしいけれど、確かにそうでした。
ワルツのメロディーが終わると、
エルナは
急いで姿勢と服装を整えました。
パーティー会場の上に
再びバフォードの風景を
重ねている間に、
会場の入口から始まったざわめきが
広がって来ました。
足早に近づいて来た
クララ・ロッショーが
あそこを見てと、
浮かれた声で催促しました。
思わず彼女が指差した
パーティー会場の入り口へ
目を向けたエルナは、
思わず息を呑み込みました。
大きくて美しい、
彼女の白い狼が現れました。
レチェンの王子を見分けた
パーティーの客たちは、
慌てて退いて道を開けました。
頭を下げて、礼を尽くす彼らを
見回したビョルンは、
それほど急がない足取りで
会場を横切り始めました。
微かな笑みと頷くことで
歓待に答える瞬間にも、
視線はただ一ヵ所、
エルナだけを向いていました。
クビにしたい下女たちと
クソくらえの流行。
なかなか集中できなかった
退屈な集会。
エルナとの距離が次第に縮まるほど、
神経を逆なでしていた問題が
薄れて行きました。
実は、夕方、自分が
とてもイライラしていたということが
今になって
分かるような気がしました。
情けないことだけれど
確かにそうでした。
もしかしたら、
この旅行が始まった日から、
いや、エルナの手を握って
シュベリン宮に戻った瞬間から
そうだったかもしれないと
思いました。
この妙な渇きの始まりを
探っているビョルンの眼差しが
深く沈みました。
エルナは、以前と変わらいないように
見えました。
愛に満ちた眼差しと優しい微笑は、
あれだけ、切実に取り戻したかった
あの女のものと同じなのに、
なぜか、妙な異質感を
拭い去ることができませんでした。
ビョルンは、
どうしても縮めることのできない
最後の一歩だけ残して
立ち止まりました。
目を丸くして彼を見ていたエルナが
「ビョルン?」と
ゆっくり口を開きました。
困った様子が明らかな声でした。
サプライズプレゼントをもらった
子供のように、喜ぶ姿を
見ることになるだろうという予想は
見事に外れたようでした。
ビョルンは、歪んだ茶目っ気と
勝負欲が滲み出る目つきで、
自分を招かれざる客扱いする
妻を見つめました。
習慣的に時計を見て、結局、先に
席から立ち上がってしまった
情けない姿が、
エルナの澄んだ瞳の中で
蘇るようでした。
関心のなかったパーティーに
参加するという
気まぐれを起こしたのは、
不埒で愛らしい妻のせいでした。
ビョルンは、口元をそっと上げると
エルナの手を握り、 腰を屈め、
これ見よがしに、ゆっくりと
震える手の甲の上にキスをしました。
2人を取り囲む見物人たちの
嘆声が、パーティー会場のあちこちに
広がって行きました。
頬を赤らめたエルナが
叱責するように睨みましたが、
ビョルンは気にしませんでした。
再び首をまっすぐにし、
自分がキスをした手を抱えたまま
エルナのそばに立ちました。
息を切らして近づいて来た
ウィンフィールドは、
王子に先約があり、
一緒に来られないと聞いて、
残念に思っていたけれど、
どうしてここに?と尋ねると
ビョルンは、
魅力的な微笑を浮かべながら、
集会を予定より早く終わらせたと
答えました。
ビョルンは、しっかり指を絡め、
逃れようとする小さな手を
握り締めました。
妃に会いたくて
耐えらえなかったという
いけずうずうしい言葉に
見物人たちは
一斉に笑いを爆発させました。
ビョルンはエルナを見ました。
さらに赤くなった頬がきれいでした。
相当、バカな振舞いをしたけれど
これくらいなら、
悪くない報償を受けたわけでした。
ビョルンは、
いっそうのんびりした顔で
パーティーの客に向き合いました。
レチェンの王子は妻に夢中。
明日の朝になれば、その噂は
この船の上でも、一つの神話のように
通用しているはずでした。
王子の突然の登場がもたらした波乱は
次のダンスが始まる頃になって
ようやく落ち着きました。
レチェンの王子に謁見するために
列に並んでいた人々から
ようやく解放されたエルナは、
閑散としたパーティー会場の隅に
急いでビョルンを連れて行きました。
これは一体どういうことなのかと
囁くように問い詰める
エルナの頬と耳たぶには、
まだ、微かに熱感が残っていました。
眉を少しつり上げて笑う
ビョルンの顔は、パーティーを
ひっくり返した人らしくなく、
呑気でした。
「言った通りだ。」と答えると
ビョルンはエルナと向き合いました。
そして、集会は退屈で、
自分の妃に会いたいし、
妃の胸をチラチラ見ている
野郎たちが気になるし、
まあ、ついでに、と説明しました。
ゆっくりと下を向いたビョルンの目が
エルナの胸に触れると、
彼女は驚愕して、肩をすくめました。
そして、ビョルンが
本当に我慢できないほど
無礼なことを言っていると、
カッとなって反論しました。
しかし、ビョルンは何の動揺も示さず
エルナの胸の上を
ゆっくり徘徊する視線は、
あまりにも淡々としていて、
より露骨な印象を与えました。
エルナは、
どうしてこんなに野暮ったいのかと
尋ねました。
ビョルンは、
とんでもないことを聞いたかのように
失笑しました。
エルナはドキッとしましたが、
屈することなく、
シュベリン大公が流行も知らず
野暮ったくて、
生真面目な紳士だとは
知らなかったと反論しました。
ビョルンは、
そういう妃は、
流行に明るく開放的な淑女に
生まれ変わったようだと皮肉ると
エルナは、
もちろんだ。今夜だけでも
このドレスが本当にきれいだという
褒め言葉を何度も聞いた。
それを言ってくれた人々は、
もちろん、皆、
上品な紳士と淑女だったと、
この点だけは、
はっきりさせておくように
力を込めて言いました。
もちろん、多少の
えげつない感じがありましたが、
だからといって、
あの悪夢のような
デビュタントのドレスのように
混乱を起こすほどの服では
決してありませんでした。
エルナは、
決して大公妃の品位を
傷つけるような服を着ていないと
主張すると、ビョルンは
分かっていると、
意外にも素直に頷いて
目を上げました。
妙な光を宿した灰色の瞳を
じっと見つめていたエルナは、
思わず小さくため息をつきました。
酒に酔ったというのは
ダンスを断るための
言い訳に過ぎませんでしたが、
今は本当に、
酔いが回っているような
気がしました。
エルナは、
なぜ自分のドレスを非難するのかと
尋ねました。
ビョルンはクスクス笑いながら
非難ではないと否定しました。
エルナは、
それならどうしてと尋ねました。
ビョルンは、
たぶん嫉妬?と答えると、
すぐに真剣な目をしました。
エルナは、
少しボーッとした気分になり、
乱れた息を整えました。
しばらくしてからエルナは
「やめてください」と
震える声で訴えました。
ビョルンを直視する目は、
かなり毅然としていました。
エルナは、
以前のように
ビョルンに頼りすぎたり
期待しないように、
本当にたくさん努力していると
主張しました。
同じ過ちを繰り返さないために
適正な線を守るという鉄則を
エルナは再確認しました。
再び愛することにした運命の前で
何度も、
その誓いを繰り返して来たことを
あの男は知りませんでした。
エルナは、
ビョルンが、このようにしたら
自分はとても混乱して
心が揺れるので、止めて欲しいと
真剣な表情で、まるで
子供に言い聞かせるような態度で
一つ一つ自分の気持ちを伝えました。
2人が黙って、
互いを見つめている間に
音楽が止みました。
何かを狙っているかのように
鋭い目つきで
エルナを見つめていたビョルンは
しばらくして
虚しい笑みを浮かべると、
それでは、もう少し
揺さぶらなければいけないと
言って、いたずらっぽく
眉を顰めました。
そして、ビョルンは、
エルナがやきもきするのが好きだと
ため息をつくように囁きました。
極めて傲慢で厚かましい顔を
見上げていたエルナは、
呆れて笑ってしまいました。
冗談のような本気。
あるいは本気みたいな冗談。
その曖昧な境界線は、
全く、見分けがつきませんでしたが
少なくとも、この男は相変わらず
本当に悪いということだけは
確信できそうでした。
社交界に溶け込むためには、
自分の好きな野暮ったい服を
着るわけにはいかず
我慢して、露出度の高い服を
着るエルナと、
他の男に妻の胸を見せたくない
ビョルンの心のすれ違い。
一生懸命頑張っているのに、
自分の行動を無駄にするビョルンに
腹が立つのも仕方がないけれど
独占欲の強いビョルンが、
今後も、自分の行動を
改めることはないと思います。
王子は妻を愛していると、
ビョルンがせっせと
宣伝してくれているおかげで、
王子に睨まれたくない人は、
あからさまにエルナの悪口を
言うことはないでしょうから、
エルナは無理をしてまで
何かをしようとはせず、
エルナはエルナらしいまま、
ビョルンに守られていれば
いいように思います。