アーチ型の門扉を通って中庭に入ると
一瞬、意識が朦朧とするほど
甘い香りが漂って来ました。
エルナはしばらく立ち止まり、
朝日の中で輝く、
オレンジの花が咲き乱れる
王宮の庭園を眺めました。
ここは本当に天国のようだという
リサの無邪気な感嘆に、
ぼんやりしていたエルナは
我に返りました。
エルナと目が合うと、リサは、
もちろん
シュベリン宮殿の庭園の方が
ずっと素敵だと、
決然とした口調で付け加えました。
頷いて微笑んだエルナは、
慎重な足取りで庭に入りました。
レチェンの使節団は、
ロルカ王宮の誇りである
オレンジの庭園に最も近い別宮に
滞在することになりました。
両国の長年の友情を考えて、
特別に気を使ったと、
彼らを迎えたロルカの皇太子は、
精一杯冗談を言いましたが、
別宮に第一歩を踏み出した瞬間、
エルナは、その言葉が
ただの儀礼的なお世辞ではないことを
知りました。
空に向かって高くそびえる木々と
華やかな花、
想像もしたことのない形の服を
着た人々。
眩しいほど真っ白な日差しが降り注ぐ
生硬な建物がいっぱいの
異教徒の都市は、
これまでエルナが知っていたのとは
全く違う世界でした。
ガイドブックを読み耽ったおかげで
ロルカに関する多くの知識を
身に着けたと自負していたエルナを
恥ずかしくさせる光景が
馬車の窓越しに広がって見えました。
もちろん、
最も大きな驚きを与えたのは、
一つの精巧な芸術品のような
ロルカの王宮と庭園でした。
リサは、
他の国に随行しているメイドたちに
会った話を、
ペチャクチャ喋っていた時に
突然、大公妃が1位を占めたと
とんでもない話をしました。
リサの話によれば、
一番美しい王子と王子妃が誰なのか
随行した使用人同士で
投票したところ、
大公妃と王子の両方が
1位に選ばれたとのこと。
リサは、
やはりレチェンが最高の国だと
興奮して話すと、頷きました。
エルナは、
軽い気持ちでやっただけではないかと
言いましたが、リサは、
皆、忠誠心で固く団結していた。
いくら見ても、
それほどの顔ではないのに、
自分たちの王子と王子妃を選ぼうとして
どれだけ頭が痛かったことか。
カビの生えた
ジャガイモのような王子に
仕えながらも、
自分たちの王子が一番ハンサムだと
言い張る使用人もいた。
そんな中、
レチェンの大公夫妻が
1位になったということは、
そのような誤った忠誠心に勝つほど
2人が美しいという意味だと言うと
リサは満面の笑みを浮かべて
自分の傑作を見ました。
エルナは
恥ずかしそうに足を速めると
向かい側の遊歩道から
近づいてくる人の気配が
感じられました。
何気なく、そちらを見たリサは、
驚いて頭を下げました。
つられて視線を移したエルナも、
やや緊張した表情で
息を整えました。
今日も同じ時間に散歩に出た
ロルカの王妃でした。
立ち止まって
自分を見つめている王妃に
エルナは近づくと、
レチェンの言葉で
丁寧な挨拶をしました。
彼女もロルカの言葉で
お返しをしました。
お互いの言葉は分からないけれど
そこに込められた友好的な感情は
はっきりと伝わって来ました。
ここ数日そうだったように、
2人は並んで散歩道を歩きました。
ロルカの王妃は、
チェス盤の駒のように
秩序整然と並んでいる
オレンジの木々の間の道を通って
パーゴラへ向かいました。
同行するエルナの顔には、
一段と穏やかな笑みが
浮かんでいました。
彼女と初めて会ったのは5日前、
この宮殿で
最初の朝を迎えた日でした。
いつものように、
早い時間に目が覚めたエルナは、
今日のように、
オレンジの庭に散歩に出ました。
ロルカの王妃が、
毎朝ここを散歩するという事実を
知ったのは、
彼女と出会った後でした。
身軽な服装をした王妃は、
随行するメイドを1人連れて
庭のパーゴラに座っていました。
予期せぬ出来事に、
戸惑ったエルナと違い、
ロルカの王妃は、
穏やかに微笑みながら、
招かれざる客を迎えてくれました。
通訳がいないので、
まともに話を交わすことは
できませんでしたが、
2人はかなり親密な雰囲気の中で
一緒に散歩をしました。
別れの挨拶を交わす頃になると、
エルナも、一段と自然な笑みを
浮かべることができました。
エルナが知っている
彼女に対する評判は、
何を考えているか分からない
古臭い老婦人で、
使節団の他の貴婦人たちも
概してそのような評価を
下していました。
ロルカの王妃は
バーデン男爵夫人よりも年上で、
ほとんどの人は、
その高齢の老人に接することが
困難でした。
しかし、エルナは、
老人特有の、ゆったりとした動作や
観照的な雰囲気の方が
むしろ楽でした。
祖母のそばにいる時には、
一本の優雅な木の下に座って
休息する気分になりましたが、
ロルカの王妃も、やはりそうでした。
二人はパーゴラに並んで座り、
庭園を鑑賞しました。
たまに目が合うと
静かな笑みを交わし、
オレンジの木を静かに眺めました。
そこを離れる時間が近づいた時、
エルナは勇気を出して、
一つお願いをしてもいいかと
慎重に王妃に話しかけました。
じっとエルナの目を見ていた彼女は、
パーゴラの階段の下で待機中の
メイドに向かって手を振りました。
エルナと偶然出会った日以来、
いつも同行している、
レチェン語が少し話せる
メイドでした。
早足で近づいてきたメイドが
エルナの言葉を伝えると、
ロルカの王妃は
慈しみ深い笑みを浮かべました。
肯定の合図でした。
エルナは、
王妃の目を見つめながら、
オレンジの木の小さな枝を
一本折っても良いか。
この花の香りを、
夫にもプレゼントしたいと
自分の意思を伝えました。
自分の言語を
理解できない相手だということを
知りながらも、
きちんと、ゆっくり話すのは、
長年老人たちと一緒に生きてきて
身についた一種の習慣でした。
メイドが伝えた言葉を聞いた
ロルカの王妃は
白い眉を顰めてエルナを見ました。
琥珀色の澄んだ目が
キラキラ輝いていました。
エルナは緊張しながら、
膝の上にきちんと置いていた手を
ギュッと握り締めました。
余計なことを
してしまったのだろうかと
少し後悔しようとした瞬間、
王妃が笑い出しました。
頷いた彼女は、メイドに向かって
一言、ゆっくりと命令しました。
頭を下げたメイドは、
小走りして遠ざかると、
オレンジの香りがいっぱいの
パーゴラには、
再び静寂が訪れました。
エルナは正しい姿勢を保ちながら
王妃の好奇心に満ちた視線に
向き合いました。
どうやら、
ミスをしてしまったような気がする頃
咲いたばかりの
オレンジの花がいっぱいの
木の枝を持ったメイドが
戻って来ました。
それを受け取った王妃は
ゆっくり立ち上がりました。
思いがけない行動に驚いたエルナも
慌ててベンチから立ち上がり、
彼女と向かい合いました。
ロルカの王妃は、オレンジの枝を
自らエルナに渡しました。
優しい口調で付け加えた言葉の意味は
一歩離れた所に立っていた
メイドにより伝えられました。
レチェンの王子には、
とても愛らしい妃がいる。
オレンジの花の香りのように
甘い言葉でした。
ビョルンは、微かな足音だけで
エルナが来ることに気づきました。
軽やかに踊るような柔らかい足取りで
近づいてきたエルナは、
彼が横になっているベッドのそばで
止まりました。
ビョルンは、
起き上がろうとしましたが、
気が変わり、そのままでいました。
慎重にベッドに腰かける
エルナの気配が、
風に揺れる珠簾の澄んだ音と共に
伝わって来ました。
「ビョルン」と
彼の名前を囁く声は甘く、
「もう起きるように。
朝食会に参加しなければならない」
と声をかけながら、
じっと彼の頬に触れる手も、
やはりそうでした。
おそらくそれは、鼻先をくすぐる
花の香りのせいだろうと
ビョルンは考えながら、
ちょうど眠りから覚めたように
ゆっくりと目を開けました。
間抜けな奴。
自分を客観視した自嘲が
ため息のように流れました。
ビョルンは
ベッドヘッドに寄りかかって
手招きすると、
エルナは気兼ねなく
彼の胸に抱かれてきました。
白い花がいっぱいの枝一本を
手に持ったままでした。
ビョルンは、それは何かと尋ねると、
エルナは、
オレンジの花。
王妃がプレゼントしてくれたと
答えました。
ビョルンは
ニヤリとして頷きました。
聞くところによれば、
エルナは、毎朝、ロルカの王妃と共に
散歩をしているとのこと。
レチェンの田舎と都市の
お婆さんたちに続き、
異国のお婆さんまで
エルナに惑わされたようでした。
エルナは彼の腕にもたれかかって、
今日一日の計画について
話しました。
午後、一緒に外出することを
約束した日であるだけに、
普段よりずっと浮かれていました。
ところが、一緒に食べたい物を
ペチャクチャ喋っていた
エルナの表情が、突然、深刻になり
自分の目を見て欲しい。
今日は何の日かと尋ねました。
今日。その単語に込められた意味に
気づいたビョルンがこっそり笑うと
エルナは体をさっと回して座り、
彼の顔を包み込みました。
そして、
ビョルンの両眼を見つめながら
「さあ、真似してください。
私は妻と出かけると約束した。
絶対に忘れない。」と言って
今日の約束を
はっきりと思い出させました。
ビョルンは頷くと、笑いながら
知っていると答えました。
エルナは「本当ですか」と
聞き返すと、ビョルンは
「本当に」と答え、
不信に満ちた目をしている妻の頬に
軽くキスをしました。
そして、
もし、やむを得ない事情があったら、
必ず言ってくださいと言う
エルナの可愛い鼻にキスをしました。
それから、エルナが、
「信じてもいいんですよね?」
と尋ねると、ビョルンは
「うん」と返事をして、
甘い唇にキスをしました。
軽いいたずらのようだったキスが
深まると、
寝室は再び静寂に包まれました。
ビョルンは、
「覚えておいて、エルナ」と言って
赤く濡れた妻の唇を拭きながら
にっこり笑いました。
「忘れません」と返事をし、
今になって、勝てないふりをして
笑うエルナの顔は、
ロルカの皇太子を
すっぽかしたくなるほどの
美しさでした。
しかし、ビョルンは、
それくらいにして、
呼び鈴の紐を引っ張ろうとした瞬間、
エルナが、ビョルンを呼びました。
ビョルンは穏やかに頷いて
返事をしました。
すると、
何度も唇をパクパクさせながら
話すのを躊躇っていたエルナは、
1位になったそうだと、
とんでもない話をしました。
ビョルンが「1位?」と聞き返すと、
エルナは、
使節団の使用人同士で、
どの国の王子妃が一番きれいなのか
投票をしたところ、
自分が1位だそうだと、
とんでもない自慢話をしました。
エルナを見るビョルンの唇から
低い笑いが漏れました。
恥ずかしがりながらも、
満足そうな笑みを浮かべる顔が、
怪しくて邪悪でみだりがわしいこと
この上ありませんでした。
あのレースの山のような
ドレスの裾の下で、ゆらゆら揺れる
鹿の可愛らしい尻尾が
見えるような気がするほどでした。
「お慶び申し上げます、妃」と
ビョルンは頭を下げて、
美貌で国威を宣揚した
大公妃を称えました。
そして、胸に抱いている木の枝から
摘んだ花一輪を耳元に挿してあげると
エルナはにっこり笑い、
頬を染めながら、
「これはあなたの」と言って、
勇気を出して積んだオレンジの花を
ビョルンの耳元にも挿しました。
そして、
1位になった王子は
ビョルンだそうだと、花をつけた狼に
小声で朗報を伝えました。
じっとエルナを見ていたビョルンは
「ああ」と
気乗りのしない返事をすると
呼び鈴の紐を引っ張りました。
かなり傲慢で無関心な態度でしたが
エルナは
喜んで理解することにしました。
彼がこの世で
一番ハンサムな王子であることは
明白な事実だからでした。
もちろん、世界中の王子全員に
会ったわけではないけれど、
あえて確認しなくても分かる
絶対的な真実というものも、
存在するからでした。
呼び鈴の音を聞いた使用人たちが
中に入ると、ビョルンは、
ベッドから降りました。
エルナからもらった花は、
指の間に軽く挟んでいました。
それから、エルナの世界で
最もハンサムな王子は、
その花を水盤に置き、
浴室に向かいました。
息を殺したまま
その姿を見守っていたエルナは、
そっと窓際に近づき、
金銅の水盤の前に立ちました。
胸の中で
花が咲くような気分になるのは、
おそらく風に運ばれて来た
オレンジの香りが
過度に甘いためのようでした。
エルナは自分の花も
水盤の上にそっと浮かべました。
オレンジの花が漂う水面に
眩しい太陽の光が降り注ぎました。
前話が、かなり赤面ものでしたので
今回のように、
穏やかに時間が流れるシーンに
ほっと一息つけました。
ロルカでも
おばあ様キラーを発揮したエルナ。
敬遠されがちな老人に
自然と接することができるエルナは
貴重な存在だと思います。
そして、言葉が通じなくても、
心は繋がることを
身をもって証明したエルナは、
今後、外交の場でも
活躍できるのではないかと思います。
さつまいもご飯ですが、
私の作り方は、炊飯器の中に
切ったサツマイモを入れ、
お米三合なら、
塩を大匙1入れて
スイッチを入れるだけです。
雑穀を入れると、
色付きのご飯が炊けて、
より美味しそうに見えます。
それでは、次回は、
金曜日に更新します。