861話 ラティルはアリシャをクビにするか悩んでいます。
◇乳母への苦言◇
ラティルは悩んだ末、アリシャに
コーヒーを飲みに来るよう呼び、
彼女に、前もって
話しておくべきだと思って呼んだと
告げました。
アリシャは、コーヒーを前にしても
飲むことができず、
ラティルの顔色を窺いました。
アリシャは、
肝に銘じると答えました。
ラティルは、
アリシャも知っていると思うけれど
自分は兄弟間の争いで頭を悩ませた。
最初は腹違いの兄と争い、
後は同母兄と争った。
自分は兄弟間の争いには
うんざりしていると話しました。
アリシャは分かっていると
返事をしました。
ラティルは、
だから自分は、子供たちが
同じような目に遭わないことを
願っている。
でも乳母同士の仲が悪いと、
それが子供たちに、
そのまま伝わると話しました。
ラティルは、子供の頃、
トゥーラと喧嘩する前から
彼のことが嫌いだったことを
思い出しました。
乳母同士も仲が悪かったし、
母親とアナッチャの仲が
悪かったからでした。
ラティルはアリシャに、
アイギネス伯爵夫人は
自分の乳母でもあり、
アリシャより先に
プレラを引き受けて育て続けた。
一方のアリシャは、
ここへ来て1ヶ月も経っていない。
このような状況で
アリシャとアイギネス伯爵夫人の仲が
悪ければ、後から来たアリシャを
クビにするしかないと告げました。
アリシャは「はい、陛下」と
従順に答えると頭を下げました。
彼女が賢そうに見え、
言葉をよく理解しているように
見えたので、ラティルは
さらに苦言を呈する代わりに
クレリスの様子を尋ね、
世話が難しい点はないか。
必要なものがあれば、
すぐに秘書に話すように。
何でも送るからと言いました。
◇メモ◇
皇帝の執務室の外に出て来た
アリシャは、
優雅に歩いて行きましたが、
誰もいない回廊に到着すると
ハンカチを取り出して汗を拭きました。
彼女はハンカチを元に戻しながら
腕に立った鳥肌を
むやみにこすりました。
顔を向き合わせるだけでも
怖いのに、側室たちは
一体、どうやって
皇帝と口を合わせるのかと
訝しみました。
アリシャが見たところ、
皇帝は眩しいほど美しいけれど、
不思議なほど
恐ろしいところがありました。
それは、彼女が皇帝だからなのか、
ロードであることからの偏見なのか
それとも実際に皇帝から
そのような雰囲気が漂って来るのか
混乱しました。
アリシャは
クレリスが皇帝に似ていなくて
良かったと思いました。
そうでなければ、
皇女の世話をしながらも、肝が冷えて
耐えられませんでした。
しかし、アリシャは、
今は陛下の雰囲気を
問題にしてはいけない。
何度も皇帝に会うことになるのだからと
思い直しました。
彼女は、
クレリスのベビールームに行き、
赤ちゃんが、
きちんと寝ているか確認した後、
担当の下女に、いくつかの指示を出して
再び外に出ました。
彼女が向かったところは
遠くない所にある
プレラ皇女の赤ちゃん部屋でした。
もし、そこに、
ラナムンや他の下女、宮医がいたら
どうしようかと心配しましたが、
部屋の中にいたのは
アイギネス伯爵夫人だけでした。
良かったと安堵したアリシヤは、
アイギネス伯爵夫人に近づくと、
天気がとても良いので、
プレラ皇女を連れて
散歩してもいいと思う。
散歩をする予定はあるかと
明るく尋ねました。
アリシャは、
クレリス皇女の世話をするのが
好きでした。
皇女を初めて見るや否や、
皇女を好きになり、
この子の面倒を見ることができて
嬉しいし、
皇女の乳母という栄誉ある座に
自分が突然上がれたことが、
嬉しくてたまらなかったので、
この座を逃したくありませんでした。
アイギネス伯爵夫人は、
お散歩日和だと優しく答えると、
アリシャは興奮しながら、
二人の皇女たちが仲良くなれるように
自分もプレラ皇女と仲良くなりたいので
一緒に散歩へ行かないかと誘いました。
しかし、アイギネス伯爵夫人は
それを断り、
あえてアリシャが、プレラ皇女と
親しくなる必要があるのかと、
依然として
和やかな笑みを浮かべたまま
断固として線を引きました。
アリシャは心が揺れましたが、
我慢して、また笑うと、
自分はアイギネス伯爵夫人と
仲良くなりたいので
一緒に散歩をするのはどうか。
衣装室で、初めて会った時に、
少し困ったことになったけれど
よくよく考えてみると
自分たちの好みが
似ているという意味なので、
自分たちはもっと
仲良くなれるかもしれないと
言いました。
しかし、アイギネス伯爵夫人は
にっこり笑いながら、
自分たちの好みが似ていると
仲良くなるのは難しい。
これからも奥様が
プレラ皇女の服のことで
喧嘩を売って来るかもしれないからと
皮肉を言いました。
その返事に、
アリシャが言葉を詰まらせると、
アイギネス伯爵夫人は、
プレラ皇女は皇帝の長女で、
他に何もない限り、
将来、皇帝の後を継いで
皇太女になる方だ。
衣装室での件は、奥様が
知らないうちにやったことなので
悪いことではないし、謝ることもない。
しかし、その後も奥様は続けて
プレラ皇女の行く手に、
何度も割り込もうとした。
たった何日かいただけで、
ずっとそうだったのに、
自分がどうやって奥様を信じるのか。
残念だけれど、自分は奥様と
親しくなりたくないと告げました。
アイギネス伯爵夫人は、長い間、
社交界で名を馳せた人らしく、
温かい笑みを浮かべながら、
冷静な言葉を平気で口にしました。
アリシャは反論することがないので
心を痛めながら背を向けました。
クレリスのベビールームに
戻って来てから、
ようやく、アリシャは怒りました。
プレラ皇女とクレリス皇女の
どちらが後継者になるのか、
彼女に、どうやって分かるのか。
二人とも側室の子供なのにと、
アリシャが鋭い声で
ブツブツ文句を言うと、
下女が目を丸くしました。
アリシャは、
自分の言うことが間違っているのかと
尋ねました。
下女は、それを否定し
正しいと答えました。
アリシャは、
皇配も皇帝も、
あんなに若いのだから、
後で「本当の後継者」を
生むのではないか。
タッシールの子供が生まれたら、
その子こそ、
本当の後継者になる可能性が高い。
プレラ皇女ではないと呟くと
クレリス皇女を抱きしめました。
しかし、ぶつぶつ言いながらも、
彼女の顔は歪んだままでした。
プレラ皇女が
皇太女になるかどうかの問題は
まだ先のこと。問題は、彼女自身が
追い出されるかどうかでした。
アリシャは、
アイギネス伯爵夫人と
親しくなれなければ
自分を追い出すと
皇帝が言っていたことを思い出すと
心配そうに、赤ちゃんの背中を
軽く叩きました。
ところがその日の夜、
アリシャが疲れて
自分の寝室に戻った時、
パジャマ姿でベッドに横になっていると
机の上の燭台の下に
紙切れが挟まっているのを
発見しました。
メモには、数行にもならない文が
書いてありましたが、
彼女はその文を見るや否や
目を見開きました。
◇賢い皇女◇
ラティルは、グリフィンに、
二人の乳母の仲について
何度も尋ねました。
グリフィンは、
二人が階段で出くわすと
一番目の乳母が二番目の乳母を
殴りつけようとした。
二番目の乳母は素早く避けて
一番目の乳母に拳を振るった。
一番目の乳母が、二人目の乳母に
この世から消えてしまえと罵倒した。
二番目の乳母が、その言葉を聞いて
悪口を浴びせた。
一番目の乳母が二番目の乳母を
ベビーカーで叩くと、
二番目の乳母がゆりかごを
ひっくり返した。
と、過度に大げさに話しました。
しかし、ラティルは、
今では彼の言うことを
まともに聞かないことに
慣れていました。
しかし、グリフィンが主張する
あの具体的な行為は全て嘘だけれど
二人が仲が悪いのは真実でした。
ラティルは
何日もじっくりと話を聞いた後、
ついにアリシャをクビにし
他の人を入れることに決めました。
ラナムンとサーナットとも
仲が良くないのに、
乳母同士があんなに仲が悪い訳には
いきませんでした。
ラティルは侍従長を呼び、
アリシャをクビにする必要が
あるかもしれないので、
二番目の面倒を見る他の貴婦人を
探すように、指示まで出しました。
ところが、その日の夕方、
ラティルが仕事を終えて外へ出ると、
秘書が近づき、アリシャが待合室で
皇帝を待っていると告げました。
ラティルは、彼女が
乳母を交替させる話を聞いて
来たのだと推測しました。
ラティルは、彼女からも
最後の訴えを
聞き入れるべきだと思い、
待合室に歩いて行きました。
ところが、
アリシャが挨拶をした後に
話したことは
ラティルの予想に反しました。
彼女は、皇帝の言う通り
アイギネス伯爵夫人と
仲良く過ごそうとしたけれど
失敗した。
アイギネス伯爵夫人に
自分が失言をしたからだろうと
話しました。
ラティルは「失言?」と聞き返すと
アリシャは、
たまにプレラ皇女を見ると
大人のように感じられる時がある。
赤ちゃんではなく、物心のついた人が
赤ちゃんの真似をしているように
見える時がある。
まるで、世の中の道理を
すべて知っているかのようにと
話しました。
ラティルは、
頭の中が真っ白になりました。
それはどういう意味なのか。
プレラが大人みたいだなんて。
まさかアニャドミスの記憶が
戻って来たのではないかと
心配になりました。
アリシャは、
プレラ皇女のそんなところが
すごいと思って、アイギネス伯爵夫人に
皇女のことを褒めてあげた。
プレラ皇女は、本当に鋭敏なようだ。
しかし、アイギネス伯爵夫人は、
自分の褒め言葉を
そのまま受け入れることができず、
不快に思っていた。
しかし、アイギネス伯爵夫人を
責められない。
自分たちは初対面で喧嘩をしたからと
話すと、ため息をつき、
ラティルを悲しそうな目で見ました。
そして、皇帝の言葉を
履行できなかったので、
自分はクレリス皇女の乳母として
残ることはできませんよねと
尋ねました。
その日の夜、一人残ったラティルは
後ろで手を組んで窓の前に立ち
アリシャが言った言葉だけを
繰り返し思い出しました。
彼女が言ったことは本当だろうか?
でも、自分が思うに、
プレラは普通の赤ちゃんだった。
おとなしいけれど、
別に賢くも見えないし、
大人のような面は少しもなかった。
しかし、アリシャは
アニャドミスのことを
全く知らなかったので、
彼女が何かを知って
ラティルを刺激するはずは
ありませんでした。
ラティルは悩んだ末に
鐘を振って宮医を呼ぶと、
赤ちゃんの健康状態を
一日一回チェックしている
彼女の目から見て、
プレラとクレリスは、
二人とも賢いかと尋ねました。
宮医は笑いながら、
クレリス皇女は生まれて間もないので
まだ、ブツブツ言うだけ。
プレラ皇女も、
賢いかどうかを判断するには
まだ早いと答えました。
ラティルが「そうなのか」と
安堵する瞬間、宮医は皇帝が
プレラ皇女をクレリス皇女ほど
可愛がらないことを思い出し、
プレラ皇女は、確かに明敏だと
わざと一番目の皇女を
褒めることにしました。
ラティルの手がビクッと動きましたが
その姿は、ソファーの背もたれに
隠れていたので、
宮医には見えませんでした。
ラティルは、
まだ幼いのに、
どうして賢いかどうかわかるのかと
尋ねました。
宮医は、
言葉も早い方だし、同年代の子供より
よく歩いているからと答えました。
ラティルは、
そんなことでは賢いかどうか
判断しにくいのではないかと
反論しましたが、宮医は、
今後、ずっと変わるだろうけれど、
今までは、何でも早い方だと
熱心にプレラを褒めました。
ラティルはソファーに座ると
腰紐で、意味もなく
結び目を作り続けました。
違うだろう。 違うと思う。
赤ちゃんが少し賢いからといって
前世の記憶があるわけではない。
違うと思うと呟きました。
◇一体誰が?◇
皇帝は、プレラ皇女が賢いのが
嫌なのだろうか。
アリシャは、匿名の人が
自分の部屋に置いて行ったメモを
蝋燭の火で燃やしながら呟きました。
プレラが、
大人みたいだという風に言えば
皇帝が、彼女を追い出さないと
書かれたメモをもらっても、
アリシャは、
この言葉に従いませんでした。
クレリス皇女ではなく
プレラを褒めるのに、
なぜ、皇帝が彼女を
乳母として残しておくのか。
何の関係があるのか。
彼女は、むしろ許可なく
自分の部屋に、こんなメモを
置いて行った相手に腹を立てました。
しかし、皇帝が
新しい乳母を探すという話を聞くと、
どうせ追い出されるならと思い
メモが教えてくれた通り、
プレラを褒めてみました。
ところが、皇帝は
確実に反応を示しました。
いつも厳しかった皇帝の表情に
喜ぶのではなく、
初めて慌てた様子が現れました。
アリシャは、燃え残った灰を
手で払いながら、
こんなアドバイスをしてくれたのは
ありがたいけれど、
一体、誰がくれた
メモだったのだろうかと考えました。
アリシャにだけ注意するのではなく
アイギネス伯爵夫人にも
彼女と仲良くしてと
お願いすればいいのに、
ラティルはアイギネス伯爵夫人には
何も言えないのでしょうか。
それができないなら、
アリシャをクビにしても
いいと思いますが、
ラティルの考えていることは
よく分かりません。