180話 外伝27話 建国際当日。エルナとビョルンは王宮のバルコニーに出ました。
最初に国王夫妻が
ベルネ王宮の中央バルコニーの前に
出ると、天と地を揺るがすような
歓声が響き渡りました。
エルナは思わずギクッとして
息を呑みました。
王子妃になってからもう数年。
今や王室の一員として
国民の前に立つことに
慣れてきたと思いましたが、
これは、ただの一度も
経験したことのない人だかりで
王宮前広場はもちろん、
裏通り、その間の路地まで
見物に来た人々で
埋め尽くされていました。
凍りついているエルナに
近づいて来たグレタ姫は
今日は、自分もとても緊張している。
こんな人出は生まれて初めてだと
少し首を傾げるようにして、
ひそひそ話ました。
王女は、まだ14年しか
生きていないけれど、
何とか慰めになってくれたという
事実は、否定できませんでした。
グレタ王女への
感謝の笑みを浮かべたエルナが
深呼吸をしている間に
結婚式を行ってから
1週間しか経っていない
王太子夫妻が紹介されました。
一時、タブロイド紙の常連だった
大公妃の座を受け継いだ
王太子妃であるだけに、
ロゼット・デナイスタへの関心は
熱烈でした。
エルナは
冷たく固まっていく両手を
揉み合わせながら息を整えました。
今更ながら
このように心が震えるのは、
今日、大公家の双子の兄妹が
公式に世間と初対面を
するからかもしれませんでした。
王太子夫妻が、
手で歓呼に答えている間、
エルナはティアラの形を確認し、
少し歪んでいる感じがする
ネックレスも直しました。
新婚旅行でビョルンが買ってくれて
一時、贅沢な妖婦という非難が
殺到した、
あの青く輝くダイヤモンドでした。
しかし、今では誰も
問題にしなくなったどころか
むしろシュベリン大公妃を
象徴するようになった宝石でした。
皇太子夫妻の挨拶が大詰めを迎えると
エルナの胸は激しく震え始めました。
人々が大公家の双子を
どれほど好きなのか
よく知っているけれど、
どうして、こんなに不安で焦るのか
自分でも分かりませんでした。
エルナは、
今日初めて着た新しいドレスの
身なりを整えました。
出産後、初めて立つ公の場なので、
リサが殊の外、力を入れて
準備してくれた服でした。
だから、非難されるようなところは
ないはずでしたが、
このような席が久しぶりのせいか、
なかなか自信が持てませんでした。
そして、胸に巻いた青い帯の形を
整えていると、上から「エルナ」と
低い声が聞こえて来ました。
頭を上げると、
壁だと思っていた扉の向こうの世界に
彼女を導いてくれた
美しい王子が見えました。
眩しい日差しの中で
彼の礼服を飾っている
華やかな徽章が輝いていました。
青ざめたエルナの顔を見つめながら
ビョルンは、
怯えたまま自分の前に立ちはだかった
田舎娘を救ってくれた、
あのデビュタントの夜のように
「息」とゆっくり囁きました。
エルナは、静かにその言葉を繰り返して
頷きました。
着実に息を吸って吐く
エルナを見下ろしていたビョルンは
そっと笑みを浮かべながら
固くなっている手を握ってくれました。
その手の力だけで、
彼の気持ちが伝わって来ました。
そして、いつものように
その気持ちは
エルナの救いになってくれました。
自分はきれいかと、
恥を忍んで聞こうとしましたが、
もうやめておくことにしました。
ビョルンの眼差しには、
すでに、その質問に対する答えが
込められていたからでした。
大公夫婦のそばに近づいて来た
王室の侍従が、
準備をするようにと告げました。
ビョルンが首を振って合図をすると
双子を抱いて待機中だった
乳母たちが近づいて来ました。
クリーム色のレースに包まれた
二人の赤ちゃんは、首に巻いた
青色の大きなサテンリボンで、
デナイスタ王家の一員であることを
示していました。
その愛らしい姿を眺めると、
固まっていたエルナの唇にも
穏やかな笑みが広がりました。
侍従に
礼装用の剣を渡したビョルンは
アリエルを抱いて
先に自分の席に戻りました。
エルナは、
素早く手袋を直した手で
フレデリックを抱きしめました。
それと同時に、挨拶を終えた
王太子夫妻が背を向けました。
次はシュベリン大公一家の番でした。
ビョルン・デナイスタと
彼の妃エルナ・デナイスタ。
その名前の前に付与されている
華麗な爵位を並べ立てる侍従の声が
レチェンの空高く鳴り響きました。
紹介が終わると、
双子を抱いた大公夫妻が
バルコニーの手すりの前に立ちました。
町中を揺るがす歓声が
伝わって来ました。
息を整えたエルナは
群衆に向かって小さく手を振りました。
ひょっとして
赤ちゃんを落とすのではないかと
ハラハラしましたが、
ビョルンは、
片腕に娘を抱いていても
いつもと変わらず
巧みで優雅に手を振り
集まっている人々の期待を
満たしてやりました。
耳がひりひりするような歓声の間から
時々、愛情が込められた双子の名前が
聞こえて来ました。
それは、エルナの漠然とした不安を
消してくれる歓呼でした。
エルナは少し熱くなった目を上げて
ビョルンを見ました。
その後まもなく、
ビョルンの視線も妻に向けられました。
エルナがにっこりと笑うと、
彼も微笑んで答えてくれました。
ゆっくりと、
閉じていた目を開いたエルナは、
もう少し勇気を出して
歓呼に応える挨拶をしました。
窓を開けると、
村の全景が一望できる
バーデン家の小さな部屋のことが
ふと思い浮かびました。
りんごの花が咲き乱れる果樹園と小川。
季節ごとに、それぞれ違う色で咲く花が
いっぱいの野原。
ゆっくり瞬きする度に、
その小さくて静かな世界で
暮らしていた田舎の少女が
王子妃になって
このバルコニーに立つまでの記憶が
流れました。
エルナは、もうこれ以上、
痛みを感じることなく、
涙を流すことなく、その時間を
振り返ることができました。
これから訪れる自分たちの時間は
どんな記憶が込められて
流れていくのだろうかと考えながら
エルナはキラキラ輝く目で
王子を見つめました。
その質問に答えるように、
王子は妻にキスをしました。
類い稀な数の人々が集まった
建国祭の王宮バルコニーの挨拶で
最も印象的だった瞬間として
語り継がれるシーンが
作られた瞬間でした。
「お母様~」と
あの日の歓声を思い出させる叫び声が
夢の中に染み入りました。
寝ながらニッコリ笑うエルナの顔の上に
春の日差しが降り注ぎました。
母親を起こす子供たちの声が
さらに高まる中、
ビョルンはベッドの枕元に立ち
自分の職務を忠実に遂行している
赤ちゃんデナイスタを見ました。
髪の毛をあちこち引っぱり
唾で湿った唇で口づけを繰り返すと、
酔っぱらいの母鹿が
やがて目を覚ましました。
ビョルンは、
もう起きなさいと言って、
ぼんやり瞬きをする
エルナを見下ろし、
ゆっくりと懐中時計を開くと
「残り3分」と伝えました。
エルナは訳が分からないでいると
ビョルンは、
伝統を作ると言って騒いでいたけれど
すっかり忘れてしまったようだと
言いました。
伝統という言葉を呟いていたエルナは、
「あっ」と驚きの声を上げると
体を起こしました。
生き返った母親を歓迎する
双子の拍手の音が響き渡りました。
子供たちが乱した髪の毛を
あたふたと整えたエルナは、
服を探して周りを見回しました。
伝統は大切だけれど、
大噴水の最初の稼働日に
裸でバルコニーに現れた大公妃の噂を
シュベリン宮に広めるわけには
いきませんでした。
「1分」と憎たらしく
残り時間を伝えたビョルンは
エルナにガウンを渡しました。
急いでそれを羽織ったエルナは
近くにいたアリエルを抱えて
バルコニーに走り出ました。
「ビョルン、早く」と、
寝坊した張本人が
今年も急かしました。
ビョルンはにっこり笑って
ベッドの上に座っている
息子を抱き上げました。
妻の図々しい態度は
理解することにしました。
伝統の一部になったことが
明らかなような、
かなり満足のいく前夜祭が
彼に寛容さを与えたからでした。
ビョルンは、
もがくフレデリックを抱いて
バルコニーに出ました。
風になびく茶色の髪を持つ
母娘のそばに立ってしばらく待つと
今年初の噴水台の水が
吹き上がりました。
丸く大きくなった目を
輝かせながら、子供たちは
喜びの歓声を上げました。
本当に家族の伝統になったと
じっと輝く水の流れを眺めていた
エルナが囁きました。
相変わらず、
大したことがないことに
意味を付与するのが好きな
妻の目頭が赤くなっていることを
ビョルンは、適当に
知らないふりをしてくれました。
濡れた目を拭ったエルナは、
明るい笑みを浮かべると、
オレンジの花が咲いたので、
今朝は、温室で朝食を取らないかと
提案しました。
ビョルンは、
今回も適当に頷きました。
その温室に住んでいる、
友情の贈り物として
ロルカの王妃が送ってくれた孔雀が
双子は大好きでした。
双子は、その鳥を見るために
静かにしているだろうから、
久しぶりにうるさくない
家族の食事時間になるはずでした。
噴水台と、
母親から学んだ言葉を
中途半端に真似する娘を見下ろす
ビョルンの目つきが
一層、穏やかになりました。
アリエルが、雪原の上を
ぴょんぴょん飛び回れるほど
大きくなった今年の冬が来れば
一緒に雪だるまを
作るつもりでした。
「お父様」と言って
走ってきた子供を抱けば、
鼻先に残る甘いお菓子の匂いは、
もはや悪夢の中の
虚像ではありませんでした。
自分の胸に抱かれた
フレデリックの顔を見つめる
ビョルンの視線からは、
一見茶目っ気が滲み出ていました。
人々は、この子を
「リック」と呼ぶけれど、
ビョルンは「ビビ」という愛称で
呼んでいました。
彼なりに男性としてのプライドが
芽生え、それを恥じる日が来たら、
もっと効率的に、
からかうことができるようにでした。
愛を湛えた瞳で
自分を見つめている妻に
向き合ったビョルンの顔の上に、
ちらっと笑みが浮かびました。
シュべリン大公家の伝統に則り
彼らは長い水路を過ぎた
噴水台の水がシュベリン湾に届くまで
一緒にその光景を眺めました。
花が咲いて、散って、また咲く。
ビョルンは、
王子が姫を愛した美しい童話の
結末のように
その花の日々を、
いつまでも幸せに生きていくことを
知っていました。
とうとう
終わってしまいました(涙)
決して、自分の感情を
表に出すことなく
自分が損をしないように
計算ずくの人生を過ごして来た
ビョルンが、
エルナに出会ったことで
感情を露わにし、
彼女のためなら損をすることも厭わず
不可解だった自分の感情を
一つずつ紐解いて行き、
最後は、自分を童話の王子様に
例えるなんて、
ビョルンの変化に驚きです。
それもこれも、
エルナへの愛が成し遂げた
功績なのでしょう。
エルナも、
結婚してからの約一年間は
辛い思いばかりして来たけれど
それを乗り越えられるだけの
強い精神力を育むことができて
良かったです。
噴水台の最初の稼働。
オレンジの花、
ロルカの王妃からもらった孔雀。
雪だるま、そして花々。
このお話を彩ってくれたものたちが
散りばめられた
素敵な最終話でした。
マンガの最終回で、
幸せな家族を収めた肖像画か
写真が出て来たらいいなと
ほのかな期待を抱いています。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
ここまで、お付き合いいただきました
皆様に、感謝の気持ちでいっぱいです。
次回からは、一話に戻って
お話をご紹介します。
midy様情報によれば、原作には
マンガには出て来ない描写も
出て来るそうですので、
引き続き、お付き合いいただけますと
嬉しいです。
昨日、今日と当地は
一段と冷え込み、
とうとうファンヒーターに
火が入りました。
寒いのは辛いですけれど、
裸になっても暑い夏よりは
服を着れば、まあ何とか
寒さを凌げる冬の方が
少しはマシかと思いながら
過ごすようにしています。
皆様も温かくして
お過ごしくださいね。
メロンパン様
前話のコウノトリの画像は
おそらくAIで作成したものと
思われますが、私自身の作品ではなく
ネットで拾って来たものです。