1話 美しい王子とお姫様のお話が始まります。
エルナ・ハルディは善良で
良い淑女に育ったので、
もうすぐ良い妻になる番。
だから、特別にエルナに
自分の良い妻になる機会を与える。
長々と書かれた返事の内容は
期待とは違っていたので、
しばらく手紙を睨んでいたエルナは
思わず「とんでもないと」と
独り言を漏らすと、
断固とした態度で手紙を下ろしました。
「こんなのは本当にあり得ない」
もう一度考えてみても結論は同じ。
いきなり立ち上がったエルナは、
窓際に近づいて窓を開けると
窓枠に上がって座り、
両膝を抱え込みました。
高台にあるバーデン家の邸宅からは
村の全景が一望できました。
リンゴの花が咲く果樹園と小川、
黄色い桜草で覆われた
緩やかな傾斜の丘を
ゆっくりと見回したエルナの視線は、
庭園の片隅に置かれている
主人を失った椅子の上で止まりました。
世の中は、一人の人間の不幸などには
何の関心もないという事実に
エルナは改めて苦しみました。
愛する家族を失い、
生活の場から追い出される危機に
直面しても、
春の気配に満ちた世界は無情に美しい。
もし、この馬鹿げた愚痴を聞いたら、
祖父は、
だから本当に良かったと、
若干の冷笑が混じった呑気な
言葉を付け加えながら、
ただ笑うだけだと思いました。
想念に浸っていたエルナを
廊下の向こうから
家政婦のグレベ夫人が呼びました。
もう昼食の時間になったようでした。
すぐに行くと声高に答えたエルナは
急いで窓枠から降りました。
とんでもない手紙は
引き出しの中に隠しておき、
乱れた身なりも整えました。
エルナは、1階の食堂に向かいながら
全て大丈夫だと
呪文を唱えるように呟きました。
今日の天気と
新しく作ったパッチワークなどの雑談を
熱心でない口調で語っていた
バーデン男爵夫人は、
食事を終える頃になってようやく
弁護士に会ってみたかと
本論を持ち出しました。
努めて、落ち着いた態度を
維持しようとしていましたが、
その目からは、
隠すことのできない焦りが
滲み出ていました。
エルナは「まだです」と
断固とした口調で
急いで否定しました。
エルナは、首と腰をピンと伸ばすと
今週が終わる前には
必ず会ってみるつもりだと
返事をしました。
心臓の鼓動の音が非常に大きくなり
唇が乾き、
全ての指先が、かじかみました。
幸いバーデン男爵夫人は
これ以上のことを聞かずに
頷いてくれて、
どうか方法が見つかればいいのにと
言って、
静かなため息をつきました。
エルナは、
じっと祖母を見つめました。
一ヶ月の間に、めっきり老けて
衰弱した姿でした。
一日にして夫を失い、
残り少ない財産まで
全て他人と変わらない親戚に
渡すことになったのだから、
それも当然のことでした。
だから、
真実なんて言えるはずがない。
エルナは、
絶対に真実を口外しないという
意地を込めて、口を固く結びました。
実はエルナは
とっくに弁護士に会っていましたが
返ってきた返事は、
息子のいないバーデン男爵の財産は
甥に相続されるというものでした。
そんな理不尽な法が
存在するということは
エルナも以前から知っていました。
悔しいけれども、
法を変える方法がなければ
対策を講じる必要がありました。
そのため、エルナは、
いつか他人の手に渡るこの家を
正当に買い戻せるよう
仕事を少しずつ増やして
貯金を始めました。
しかし、その「いつか」は
あまりにも早く訪れ、
貯めたお金は
途方もなく少なかったのです。
他に方法がないかと
哀願するように尋ねるエルナに
弁護士は、
残念だけれど、本来、
相続法とはそういうものだと
一貫して誠意のない返事をし、
今のところ、
バーデン氏に事情を説明し、
慈悲を求めるのが最善のようだと
言ったのを最後に、
彼は再びパイプを口にくわえました。
無礼極まりない態度でしたが、
エルナはじっと我慢しました。
相談料を、きちんと支払うことも
困難な客を歓待する弁護士は、
それほど多くないからでした。
その日の午後、エルナは
トーマス・バーデンへ
手紙を書きました。
いくら考えても、
弁護士が言った最善以上を
見つけるのが難しいためでした。
そして今日、
トーマス・バーデンからの返事は、
糸のようだった希望を
甚だしい絶望と怒りに変えたのでした。
エルナは祖母を安心させるために
全て上手く行くので
あまり心配しないでと
笑顔で嘘をつくと、
食卓から立ち上がり
エプロンをかけました。
グレベ夫人を助けて
食卓を片付けるエルナの手つきは
とても上手でした。
大丈夫ではない。
エルナは食器を洗いながら、
これ以上、回避できない真実を
受け入れました。
没落した貴族である
バーデン男爵家の財産は、
この田舎の邸宅一軒が
全てだと言っても
過言ではありませんでした。
しかし、この家は
合法的な相続者である
トーマス・バーデンの物に
なるはずでした。
そして、彼は、
ほんの少しも悩むことなく
この土地を売り払うはずでした。
エルナは深く息を吸い込み、
こみ上げてくる鬱憤を抑えました。
いっそのことトーマス・バーデンが、
エルナの気持ちを
十分に理解しているけれど、
自分にもそれなりの事情があるので
バーデン男爵夫人が亡くなるまで
邸宅の処分を
先送りすることはできないと
断固たる拒絶の意思だけを
明らかにしていたら、
こんな気分には
ならなかったはずでした。
皿洗いを終えたエルナは、
無造作に脱いだエプロンを
丸めたまま、裏庭に向かいました。
トネリコの木の下に置かれた
祖父の椅子に座ると、
目頭が熱くなりました。
トーマス・バーデンの
とんでもない返事には、
もしエルナが
自分の妻になってくれたら
特別に寛容になってもいいと
一つの妥協案が含まれていました。
エルナの視野がぼやけ始めましたが
彼女は両目を見開いて
涙を堪えました。
たかが、あんな人のために
泣きたくありませんでした。
父親と同じような年なのに、
年甲斐もなく、
窮地に追い込まれた親戚に
こんな風に接するなんて・・・
と考えていた
エルナは「お父様」と
思わず呟きました。
長い間忘れて暮らしてきましたが、
それでも、確かに
この世に存在していました。
「そうです、お父様」と叫ぶと
エルナは目を細めて
椅子から飛び上がりました。
大公邸のそばを流れる川で始まった
騒々しい気合いと歓声は
閉じている窓と厚いカーテンも
防ぐことができず、
ビョルンは、その騒音のせいで、
目を覚ましました。
枕とクッションに頭を埋めたまま、
再び眠ろうと試みましたが、
結局、ビョルンは屈服しました。
元気いっぱいの狂った奴らだと
ビョルンはため息と共に、
悪口を吐きながら
ベッドを出ました。
西側の窓のカーテンを開けると、
川の向こうで、
盛んにボートの練習に励む
一段が見えました。
毎夏、この都市を横切って
海に流れ込むアビィト川では、
貴族のボート競技が行われました。
パーティーとゴシップだけで
持ちこたえるには
夏が長すぎて、うんざりするので
何でもやってみようとする努力には
感心するけれど、
川が大公邸に近いせいで、
本格的な練習が始まる春から
試合が終わる夏までは、
このひどい騒音から
逃れることができませんでした。
ビョルンは、
非常に狭苦しいボートに
鳥肌が立つくらい、くっついて座り、
全く理解できない情熱を
燃やす男たちの姿を
じっと見つめました。
溢れ出る力が抑えきれないなら、
むしろ女でも抱け。
無駄に汗をかく儚いことよりは、
その方がずっといい趣味だし
最悪の場合が生じたとしても、
子供一人くらいは残すだろうから、
王国の人口増加による国力上昇に
微力ながら貢献できるだろう。
もちろん、個人的なこととして
頭を悩ませることになるだろうけれど
統制不能の馬鹿野郎たちの悲劇は、
彼の知ったことでは
ありませんでした。
テーブルに置いてあるぬるま湯を
一口飲んだビョルンは、
乱れた髪をかきあげ、
ガウンを適当に羽織って鐘を鳴らすと
すぐに執事のグレッグが
入って来ました。
大公邸では
真夜中と変わらない正午に
鐘が鳴った理由を
よく知っているグレッグは、
宮殿の私有地の使用要請には
応じなかったけれど、
すでに、シュベリン市役所が
その近隣まで利用する許可を
与えていたので、
止めるすべはなかったと
主人が尋ねる前に
急いで報告しました。
そして、
今年は参加するチームが増え、
もう少し騒がしくなるようだと
悲劇的なニュースを伝えると
ビョルンは失笑を爆発させ、
どうせ優勝するのは
レオニード・デナイスタなのに
多彩な間抜けたちが、本当に熱心に
付き添い役をしていると
皮肉を言いました。
執事は、寝室を移すことを
提案しましたが、
ビョルンは断りました。
それでは食事の準備をすると
執事が告げると、ビョルンは、
バルコニーへ、果物だけと
命令して、浴室に入りました。
長い時間、
シャワーを浴びて出て来ると、
寝室のバルコニーに設けられた
食卓が彼を待っていました。
ビョルンは、
足下に広がる
シュベリン宮殿の名物と言われる
大噴水の水が噴き出しているのを
見ました。
それからビョルンの視線は
大公邸と庭園をつなぐ
階段の斜面に沿って続いた噴水を通り、
その水流が流れる水路に触れました。
長く伸びた水路の端と
接しているアビット川から、
依然として、力強い気合いの声が
聞こえて来ていました。
ビョルンが、氷だけ残ったグラスを
テーブルの上に置いた頃
グレッグが急いで近づいて来て
王太子の来訪を告げました。
指に残った水気を拭き取った
ビョルンは、
リンゴを一個、手に取り、
うわの空で頷きました。
執事が退いて間もなく
寝室に入って来たレオニードは
ボートの練習から
駆けつけて来たのが明らかな
身なりでした。
ビョルンは、
足を組んで座った傲慢な姿勢とは
裏腹に、
「王太子殿下にお目にかかります」
と優雅な挨拶で弟を迎えました。
呆れるようにビョルンを見つめる
レオニードを横目に
彼は、さりげなく
庭の大噴水を見下ろしました。
王太子の分のお茶を準備した
使用人たちが退くと、
ビョルンは目を細めて
レオニードに向き合い、
用件を話すよう促しました。
大公の宮殿があるシュベリンは
レチェンの貴族たちが
夏を過ごすために訪れる
休養地でもありました。
まだ早い時期でしたが、
ボードに夢中の王太子は、
早くからシュベリン宮殿に移り、
兄の日常を搔き乱すのに
貢献していました。
軽いため息をついたレオニードは、
答える代わりに持って来た新聞を
テーブルの上にポンと置きました。
社交界のゴシップを専門的に扱う
有名タブロイド紙の第一面には、
常連のビョルン・デナイスタの
写真が大きく載っていました。
王室の毒キノコ、
このままでいいのかという
滑稽な見出しを見たビョルンは
「毒キノコ」という言葉に
眉を顰めました。
レオニードは、
知らなかったのか。
大公の新しいあだ名らしいと
返事をしました。
その言葉を、
ゆっくり繰り返してみたビョルンは
失笑しながら新聞を置きました。
それでも、かなりよく撮れた写真を
載せてくれたという点では、
賞賛に値する記事でした。
じっとビョルンの横顔を
見つめていたレオニードは
グレディスがレチェンに
戻ってくるそうだと
慎重に口を開きました。
グレディスという名前が
ビョルンの口の端に浮かんでいた
笑いを消しました。
タブロイド紙には、今年の夏を
レチェンで過ごすことにした
「ラルスの王女」
グレディス・ハードフォートに関する
ニュースも、かなり詳細に
書かれていました。
かつては全レチェンに愛された
美しい王太子妃。
しかし、夫に裏切られたまま捨てられ
子供まで失った、
その悲運の女性の帰還。
贅沢な暮らしをする人たちが
熱狂するほどのゴシップネタでした。
一時は王太子だったけれど、
今は毒キノコに転落した
彼女の前夫まで加わると、
さらに、もっともらしい絵が
描かれるはずでした。
レオニードはビョルンに
どうするつもりなのかと
尋ねました。
ビョルンは「さあな」と
深刻なレオニードを
馬鹿にするような態度を取りました。
もう一口かじったリンゴを
下ろしたビョルンは、
椅子に寄りかかって座ったまま
指を伝った果汁を拭き取りました。
特別な感情がこもっていない
視線は、ただ淡々としていました。
まさに春。
毒キノコがすくすく育つ季節でした。
バーデン家は高台にあるので
村の全景が一望できる。
祖父が一日して亡くなったということは
心臓発作か何かで急死した?
レオニードはボートの練習のために
大公邸に滞在していた。
ふんふん、そうなんだと思いながら
読み進めました。
男性にしか
財産が相続できないという法律。
男尊女卑で苦しんだロゼットが
王太子妃になったので
この法律を絶対に改正して欲しいです。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
最終話では、初めての方からも
コメントをいただき、
とても嬉しかったです。
今後とも、
よろしくお願いいたします。
明日は、更新できると思います
(不確定で申し訳ありません)