4話 エルナはハルディ家に到着しました。
どっちみち破産寸前なのだから、
前妻の娘に
分け前を与えられないこともないと
ブレンダ・ハルディは
口を固く閉ざしている夫に向かって
激しく叫びました。
昨夜、あまりにも、
ぼーっとしていた頭の中が、
遅ればせながら
怒りに満ちて来たところでした。
ウォルター・ハルディは
グラスを無言で傾けました。
今、自分の話を聞いているのかと
ブレンダは叫ぶと
酒瓶を取り上げました。
ウォルターは、詐欺にあって以来、
酒ばかり飲み続けてきましたが、
今日は、特に
その姿にブレンダはイライラし、
神経を逆なでされました。
昨夜、メイドが急いでやって来て
ハルディ家の娘だと言う人が
訪ねて来たと伝えるのを聞いた時、
何だか気の狂った者が
現れたのではないかと思いました。
メイドが、
エルナ・ハルディという
訪問客の名前を付け加えなければ
汚水でもかけて追い出せと
命令したかもしれませんでした。
なぜ、急に
アネットの娘が現れたのか。
ブレンダは、全く信じられなくて
息を切らして駆けつけたところ、
あまりにも母親に似ているのを見て
口をあんぐり開けました。
死んだアネット・バーデンが
生きて帰って来たようで、
鳥肌が立つほどでした。
もちろん、その滑稽な身なりにも
驚かされましたが。
ブレンダは、
あの子を一体どうするつもりなのかと
尋ねました。
対岸の火事でも見ているかのように
振る舞っていたウォルターは
よく理解できるように説得して
帰せばいいと、
ようやく、口を開きました。
そのように簡単に言うウォルターに
ブレンダは、
よく言葉が通じそうだ。
だから、ここまでやって来て
そんな、とんでもない要求をしたのだと
皮肉たっぷりに言うと
鼻で笑いました。
バーデン家の田舎の邸宅を
守って欲しいというエルナの頼みは
実に、とんでもなくて
厚かましいものでした。
緊張した顔をしていても、
自分の言いたいことは
きちんと並べ立てる姿まで
間違いなくアネットでした。
ブレンダは、
エルナをすぐに追い出さないように
あらゆる忍耐力を
動員する必要がありました。
その時、慎重なノックの音と共に
朝食の用意ができたことを
知らせるメイドの声が、
再びウォルターに文句を言おうとした
ブレンダの言葉を遮りました。
彼女は、
エルナが理解できるように
必ずきちんと話して帰すようにと
念を押しました。
ウォルターは妻を残して
立ち去りました。
一晩寝かせて、
食べさせてやったのだから、
最低限の道理は守ったことになる。
ウォルターは、すぐにエルナを
追い出そうと決心しました。
ただでさえ頭の痛い状況に、
借金取りのような娘まで加える気など
微塵もありませんでした。
朝食室でおとなしく待っている
エルナに向き合うまでは。
彼と目が合うと、
エルナは急いで立ち上がりました。
昨夜は酒に酔っていたので、
今初めて、彼女を見たような
気分でした。
息を殺したまま
大きな目を瞬かせていたエルナは
ウォルターに、
おずおずと挨拶しました。
響きがとても澄んでいて
柔らかい声でした。
父親が黙っているので
エルナは首を傾げながら、
緊張して震えていた両手を
ギュッと握り締めました。
小柄で、か細い体格と
細密な顔立ちまで、
完璧に母親にそっくりで、
ウォルターが残した痕跡は
せいぜい茶色の髪の毛程度でした。
とんでもない身なりをしていても
こんなにきれいなのだから
きちんと飾れば、
きっとかなりの美人だろう。
これなら、
国中が大騒ぎして敬っていた
グレディス王女と
引けを取らないかもしれない。
そこまで考えたウォルターは
思わず感嘆の声を漏らしました。
すっかり忘れていた大きな財産が
転がり込んで来たような気分でした。
まずは食事をするようにと言うと
真剣なまなざしで
そばに立っている妻を眺めました。
今、何をしようとしているのかと
ブレンダは問い詰めましたが、
彼はびくともしませんでした。
ウォルターはブレンダに
もう少し話をしよう。
とても重要な話になると思うと
告げました。
大公の馬車が戻って来たのは
朝が明るくなってからでしたが
シュベリン宮殿では
日常の光景でした。
ビョルンは、いつものように
厳しい表情をしているフィツ夫人に
朝の挨拶をしました。
微かに漂ってくる酒の匂いに
フィツ夫人の眉間のしわが
深まりました。
お早いお帰りでと、
彼女の棘のある返事にも、
ビョルンは、
ただ、にっこり笑うだけでした。
ビョルンは
整列している使用人たちに向かって
頭を下げると、
ホールを横切りました。
そのまっすぐで優雅な姿勢のどこにも
あまり健全ではなかったはずの
昨夜の痕跡を
見つけることができませんでした。
フィツ夫人は
静かにため息をつきながら、
ビョルンの後を追いました。
そして、休むことなく
各種社交会の招待状について
報告していたフィツ夫人は
王宮からも招待状が来たと
力を込めた声で付け加えました。
ビョルンは、その理由を尋ねると
今年の建国祭の舞踏会には、
何があっても必ず参加して
シュベリン大公の義務を全うせよという
国王の命令が込められている。
王子が欠席したら、
大公邸の使用人全員に
その責任を問うと言っていると
答えました。
招待というより
脅迫のように聞こえると返事をすると
ビョルンは笑みを浮かべながら
扉を開けました。
赤くなった目頭を触る動作と
遅い歩き方からは
疲労感が感じられました。
毎年5月に開かれるレチェンの建国祭の
始まりを告げる王宮舞踏会は、
社交界の注目が集まる
盛大な行事でした。
ビョルンは王太子の座を離れてから
出席しなくなりましたが、
これまで黙認されてきた不参加を
改めて問題視されたのを見ると、
王室の高齢者の意思が
変わったようでした。
その理由は、
おそらくグレディスでした。
ビョルンは、
ゆっくりとジャケットを脱いで
タイを解きました。
まだ言いたいことが
たくさんある顔で立っていた
フィツ夫人は、
彼がシャツのボタンまで外し始めると
渋々、背を向けました。
王立病院のチャリティーパーティーが
終わる頃、
気になる淑女はいないのかと
それとなく母親に聞かれました。
まさか1回の離婚では
足りないと思っているのかと
ビョルンは軽い冗談で
言い返しましたが、
彼を見つめていた母の瞳は、
隠すことのできない心配で
深まっていました。
いきなり招待状が舞い込んだ理由は
おそらくそこにあるはずでした。
シャツを適当に脱ぎ捨てた
ビョルンは倒れるように
ベッドに身を投げました。
じっと天井を凝視していた
ビョルン、しばらくして
そっと目を閉じました。
ハルディ家に留まった3日間。
エルナは、
何となく落ち着かなくて沈鬱な雰囲気が
家中を押さえつけている
感じがしました。
いっそのこと、早く断ってくれれば
バフォードに戻れるのに、
ハルディ子爵は、
なかなか返事をくれませんでした。
勇気を振り絞って聞いてみても
もう少し考えてみるという返事が
続きました。
もし今日も、そんな返事だけなら、
エルナは潔く諦めるつもりでした。
いつまでも、
ここに留まるわけにはいかないし
手紙一枚だけ残して
出てきてしまった孫娘のために
気を揉んでいる祖母のことが心配で
耐えられなかったりもしました。
少し散歩にでも行って来たら
気分が少し良くなるかなと
思いました。
しかし、昨日の午後、
散歩に出たところ、
広場で出会った一人の男が
しきりに声をかけながら
追いかけて来るので、
夢中で逃げるしかなかったことを
思い出すと、手がブルブル震えるので
すぐに考えを改めました。
ノックの音と共に
「エルナお嬢様」と呼ぶ
溌剌とした声が聞こえて来ました。
窓の外を見ていたエルナは
ぎょっとして
カーテンを閉めました。
身なりを整えている間に
再びノックの音が鳴り響いたので
エルナは入室を許可すると、
急いで窓際に置かれたテーブルの前に
座りました。
しばらくして扉が開き、
盆を持っているメイドが
入って来ました。
エルナはお礼を言うと、
そのメイドは、
気楽に話して欲しいと頼みました。
リサだと名乗った若いメイドは
にこやかな笑顔が印象的な
優しい少女で、
エルナの世話を引き受けていました。
色々な面で気を使ってくれて
ありがたかったけれど、
パーベルが大学に入学するために
故郷を離れて以来、
久しぶりに接することになった
同年代なので、エルナは
少し慣れませんでした。
そういえば、
王立芸術アカデミーは
このシュベリンにあることを
思い出したエルナは、
パーベルの住所を
持ってくればよかったと
遅ればせながら後悔しました。
バーデン家は、
近くの隣の家まで歩いて1時間かかる
辺鄙な所にありました。
世間に背を向けたバーデン男爵夫妻は
そこに閉じこもったまま暮らし
彼らに育てられたエルナも同様でした。
パーベルがいなければ、
人間より、草花と家畜に
馴染みのある生活だったと言っても
過言ではありませんでした。
エルナは、
お茶を注いでいるリサに
王立アカデミーは
ここから近いだろうかと
慎重に尋ねました。
リサは
駅馬車で5つの停留所ほど
離れた所にある。
そこへ外出するつもりなのかと
尋ねました。
エルナは慌てて首を横に振ると、
そういうわけではないけれど
ただ、少し気になったと
返事をしました。
突然パーベルを訪ねるのは
失礼だと思いました。
エルナはリサに、
もしかしてハルディ家に
何かあったのか。
雰囲気が少し落ち着かないようだと
慎重に尋ねました。
メイドは一瞬にして
表情を変えながら視線を避け、
自分はそんなことは知らない。
この邸宅に来たばかりだから
本当に知らないと
慌てて答えました。
それからメイドは、
急いでお茶をエルナの前に
出しましたが、
ソーサーに茶が飛び散ったことに
気づかなかったようでした。
エルナは、
メイドがしばらく他の所へ
目を向けた隙を狙って
素早くソーサーを拭きました。
茶で汚れたハンカチを
目立たないように隠すことも
忘れませんでした。
その時、ノックの音と共に
ご主人様が呼んでいると
聞き慣れないメイドの声が
聞こえて来ました。
エルナが気を揉んで待っていた
その知らせが来ました。
ブレンダもアネットを知っていて
エルナを見て
とても驚いたということは
ウォルターはアネットと
離婚をする前に
すでにブレンダと付き合っていて、
アネットを追い出すために、
色々と画策していたのではないかと
疑ってしまいました。
アネットも世間知らずだったので
きっとバーデン男爵夫妻は
若いうちに田舎に閉じこもって
しまったのでしょうけれど、
そうせざるを得ない、辛い出来事が
社交界であったのかなと思いました。
もしかして、
リボンとレースでいっぱいのドレスは
バーデン男爵夫人が
田舎に引っ込む前の流行で、
それが気に入っていた
バーデン男爵夫人は、
その後の流行に関心を持つことなく
アネットとエルナにも
そのような服を
着せていたのではないかと
思いました。
ウォルターの容姿について
茶色の髪以外、
何も書かれていませんが
マンガで描かれているように
何の変哲もない顔なので、
あえて、詳細に描写することも
ないということなのでしょうね。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
ここ数日、暖かい日が続いていますが
明日から、寒くなりそうです。
天気予報によれば、当地の最高気温は
明日と今日で、
10℃以上も差があるとか。
きちんと記事を更新できるよう、
体調に気をつけたいと思います。
皆様もお体ご自愛ください。