1話 天涯孤独の孤児レイラがヘルハルト公爵家にやって来ました。
春先の遅い午後。
一日中、バラの苗を植えるのに
忙しくしていたビル・レマーは
「ビル・レマーおじさんですか?」
と子供に聞かれて面食らいました。
その声は、とても柔らかくて
アクセントが妙でした。
彼は、自分がビル・レマーだと
返事をすると、
麦わら帽子を脱ぎました。
日焼けした顔が露わになると、
子供はびくっとして
乾いた唾を飲み込みました。
荒々しい外見をした
巨体のビルを初めて見た人たちは、
概して、
そのような反応を見せたので、
殊更、
新しいことではありませんでした。
ビルは、
一体、お前は誰なのかと尋ねました。
彼がしかめっ面をすると、
さらに険悪に見えました。
子供はビルに挨拶をすると、
自分の名前はレイラ・ルウェリンで
ロビタから来たと
自己紹介しました、
ビルは、その時になって、
ようやく子供の奇妙なアクセントを
理解しました。
ビルは、レイラが一人で
国境を越えて
ベルクまで来たのかと尋ねました。
レイラは、「はい」と返事をし、
汽車に乗って来たと説明すると
ぎこちなく笑い、姿勢を正しました。
子供をここまで連れて来たという
郵便配達人が
ちょうど近づいて来たので、ビルは、
レイラをここへ連れて来た理由を
尋ねました。
郵便配達人は、
子供が一人で荷物を持って
駅前を歩いていたので、
どこへ行くのか尋ねたところ、
ヘルハルト家の庭師である
ビル・レマーを訪ねるところだと
言われた。
ちょうど、ここへ
配達に来るところだったので
連れて来たと、
笑いながら答えると、
ビル宛に来た一通の手紙を
差し出しました。
隣国のロビタに住む
遠い親戚が送って来た手紙でした。
気の短いビルは
その場で封筒を破りました。
手紙には、
孤児になって親戚の家を転々とした
一人の子供の来歴と、
貧しい境遇のために、
到底、子供の面倒を
見ることができないという
自分たちの事情が書かれていました。
その子の名前はレイラ・ルウェリン。
まさに、彼の目の前に立っている
この少女が、
その問題の孤児のようでした。
くそったれ。
連絡を寄こすのが遅過ぎると
悪口を吐いたビルは
呆然として失笑しました。
ロビタには、
厄介者の孤児を引き受けてくれる
親戚がなく、 子供と
微かな繋がりのある人の中で、
ビルの暮らし向きが一番いいので
そこに子供を行かせる。
もし彼の状況もままならないなら、
子供を孤児院に入れろという言葉も
付け加えてありました。
いくらなんでもひどい。
この幼い子を
一人でここへ送ってくるなんてと
悪口を吐くと、
手紙をくしゃくしゃにして
床に投げ捨てました。
あちこち押し付けられた子供が、
これ以上、行く所がなくなると、
外国に住む
遠い親戚の住所一つを教えて、
国境の外に追い出すなんて。
ビルの顔が怒りで
赤く燃え上がりました。
じっと彼を見守っていたレイラは、
自分はそんなに幼くない。
数週間後には12歳になると、
わざと大人っぽい口調で
ひそひそ話しながら
そっと背伸びをしました。
その姿に、さらに呆れたビルは
失笑しました。
あまりにも子供が小さいので
10歳くらいかと
思っていたからでした。
とにかく、想像していたよりは
年長だったので良かったと
言うべきなのかと思いました。
郵便配達人が去ると、
庭には2人だけになりました。
親戚ではあるけれど、
あの子の父親とは他人同然で
最後に会ってから
20年は経っているのに、
男やもめである自分が
遠い親戚の小さな子を預かるなんて。
ビルは頭を抱えました。
まだ、かなり寒いのに、子供は、
とんでもなく薄い服を着ていて、
鉄串のように痩せていました。
見てくれがいいのは、
大きな緑の目と金糸のような
髪の毛だけでした。
あの子を預かるのは
とんでもないことだけれど、
あの子を
孤児院に入れるのかと思うと、
気が狂いそうでした。
ビルは、もう一度
この騒ぎを起こした者に対して
呪いの言葉を吐きました。
子供はギクッとしましたが、
表情はかなり毅然としていました。
震える手と噛んで赤くなった唇は
隠せませんでしたが。
ビルは、
まずはお腹をいっぱいにしてから
考える。付いて来いと
ぶっきらぼうに言うと
先頭に立って歩き始めました。
棒のように立っていたレイラは、
ようやく足を踏み出しました。
歩いて行くにつれて、
足が軽快になって行きました。
子供が自分の取り皿に置いた食べ物を
チラッと見たビルは、眉を顰めて
お前の分はそれだけなのかと
尋ねました。
レイラは、
自分は少ししか食べない。
本当だと答えて笑いました。
少し不安になったビルは、
自分は小食な子は大嫌いだと
言いました。
その言葉に
子供の目が丸くなりました。
袖の下から
子供の痩せこけた手首が見えました。
ビルは、何でも、牛のように、
よく食べろと言いました。
考え込んでいたレイラは、
肉とパンをもう一塊ずつ
皿の上に移しました。
とてもお腹が空いていたのか、
子供はあたふたと食べ始めました。
レイラは、
牛のようには少し難しいけれど
本当はよく食べると言うと
口元にパンくずをつけたまま、
にっこり笑いました。
確かにそう見えると
返事をしたビルは、苦笑いしながら
グラスを持ち直しました。
ビルは、わざとしかめっ面をして
自分が怖くないのかと尋ねました。
子供は、
彼の両目をじっと見つめると、
おじさんは自分に怒鳴らないし
美味しいものもくれるので
有難いし、いい人だと思うと
答えました。
たかが、そんなことで
有難いと思うなんて、一体、
どんな人生を生きて来たのか。
手紙には子供の母親が
夫と子供を捨てて
他の男と一緒に逃げたこと。
そのことに傷ついた子供の父親は
酒に溺れて暮らしていたけれど
病気になって、
この世を去ったこと。
その後は親戚の家を
転々としながら育ったことが、
書かれていました。
あの子の境遇がどうだったか
分かる気がするけれど、
それでも、あの子を育てるのは
お話にならない。
遅くても来週までには
子供の問題を終わらせると
決意しました。
使用人休憩室に駆け込んで来た
メイドが、
庭師のレマーが、幼い女の子を
育てることになったという話をすると
ある侍従は、
彼が女の子を育てるなんて、
むしろライオンや象を
飼うと言う方がもっともらしいと
鼻で笑いました。
ヘルハルト公爵家の
庭師ビル・レマーは、
花を育てるのに
天賦の才能を持った男でした。
そのおかげで、彼は
非常に非社交的で
ぶっきらぼうな性格でありながら
20年間、この家門の庭師の座を
守ることができました。
驚くほど公正なビルは、
公爵一家に対する態度も
あまり変わりませんでしたが、
それでも彼は信任され、
特に花への愛情が格別な老奥様は、
庭と関連したことに対しては
無限の理解と寛容を示しました。
領地の裏手の森にある小屋を
庭師に差し出したのも
彼女の決定でした。
ビル・レマーは、
庭で働き、小屋で休みました。
たまに同年代の使用人たちと
酒を飲む時を除けば、
ほとんどの時間を
花と木に囲まれて過ごす男でした。
妻が病気で亡くなってから
十数年が経ちましたが、
女性を近づけることも稀でした。
そんな彼と幼い女の子だなんて、
とんでもないと
意見がまとまった頃、
窓際に立っていたメイドが
本当に、そうみたいだと言って
目を丸くして
ガラスの外を指差しました。
庭の向こうで、
仕事をしているビルの後を
噂の主らしい
小さな女の子が追っていました。
窓際に集まった使用人たちは、
すぐに驚いた表情をしました。
ビルは子供のことを聞かれる度に、
考え中。
ここに置くわけにはいかないので
よく考えてみると、
同じ答えを繰り返しました。
彼の考えが、春を過ぎて
夏になるまで続く間、レイラは、
この領地の一部として定着し、
庭と森を歩き回る子供の姿は、
使用人たちにとって、
いつのまにか
見慣れた風景になっていました。
小屋の裏の森を歩きながら
あらゆる草と花を見ていたレイラを
小屋の窓越しにチラッと見た
料理長モナ夫人は、
背が少し伸びたようだと
笑いながら言いました。
まだまだ伸びなければ。
あまりにも小さ過ぎると
返事をすると、モナ夫人は
子供は植物ではないので
一夜にして大きくならないと
言うと、持ってきた籠を
食卓に置きました。
これは何かと尋ねるビルに
モナ夫人は、
クッキーとケーキ。
昨日、奥様のティーパーティーが
あったと答えると、ビルは、
自分は甘いものが
大嫌いだと言いました。
しかし、モナ夫人が、
これはレイラのだと告げると
ビルの眉毛が蠢きました。
ある日から、公爵家の使用人たちは
レイラの安否を尋ね、
食べ物を持って来てくれて、
時には子供に会いに来ることも
ありました。
ビルにとって頭の痛いことでした。
鳥を追いかけて走っている
レイラを眺めていたモナ夫人は
服を買ってやらなければならない。
もう少し背が伸びれば、
スカートが短くなると言って
舌打ちをしました。
子供について何も知らないビルでも
レイラが自分の体に合わない服を
着ていることは分かっていたので
反論できませんでした。
帰ろうとしたモナ夫人は、
「あの子を見て」と言うと
驚いて窓際に駆け寄りました。
レイラが追いかけていた鳥が
木の枝に止まると
彼女はリスのように
素早くその木に登りました。
レイラは木登りの才能がかなりあると
ビルが淡々と返事をすると、
モナ夫人は、
あれを知っていながら
そのままにしておいたビルを非難し
一体どうやって
子供を育てているのかと尋ねました。
ビルは、見ての通り
強く育っていると答えましたが
モナ夫人は、
女の子を腕白坊主のように
育てていると、声を張り上げて
叱りました。
ビルが窓越しに外をのぞき込むと
レイラは木の枝に腰を下ろし、
遊んでいる鳥たちを
見守っていました。
レイラは、世の中のあらゆるものに
好奇心旺盛な子供でした。
花や草、鳥や昆虫など、
目が届く全てのことを不思議に思い、
知りたがっていました。
ある日、夕方になっても
帰って来ないので
森に行ってみたら、川辺に座って
水鳥の群れを眺めていました。
あまりにも集中していたので、
名前を何度呼んでも
気づきませんでした。
モナ夫人は、
耳にたこができるほど説教をした後、
ようやく帰りました。
ビルが小屋の裏手に出ると
彼を見つけたレイラは
うれしそうに手を振りました。
登る時と同じくらい、
素早く木から降りてきた子供は、
すぐにビルの目の前まで
近づいてきました。
来ているワンピースは
スカートだけでなく
袖も短くなっていました。
この格好で公爵に会わせることは
できないので、服一着くらいは
買ってあげなければ
ならないようでした。
ビルが、
準備して出て来いと衝動的に言うと
戸惑った表情をしていたレイラの目に
一瞬、恐怖の色が浮かびました。
ビルは、服を買いに
街に出かけるだけだから、
そんな顔をするな。
もうすぐ
ヘルハルト公爵が来るはずなので
その格好で挨拶をするのは
どうかと思うと言いました。
レイラは、
公爵といえば、この領地の
ご主人様かと尋ねると、
ビルは、
そうだ。
もうすぐ夏休みだから
帰ってくるだろうと答えました。
レイラは、
公爵も学校に通っているのかと
尋ねました。
ビルはクスクス笑って
子供の頭を撫でると、
公爵も18歳なら、仕方なく
学校に通わなければならないと
答えました。
公爵が18歳だと聞いて、
気絶しそうなくらい驚く子供が
可愛くて、ビルの笑い声が
さらに高まりました。
首都発の列車が
カルスバル駅のホームに入ると
待機中だった使用人たちは
特等車両の前に近づきました。
背が高くて、すらりとした少年が
プラットホームに降りました。
執事ヘッセンの挨拶を皮切りに、
すべての使用人が
彼に向かって頭を下げました。
優雅な姿勢で立ったマティアスは、
軽い黙礼で
彼らの挨拶に答えました。
マティアスと使用人たちが動き始めると
見物人たちは、慌てて
彼らのために道を開けました。
マティアスは、
プラットホームを通り過ぎると
駅の前で待っている馬車を見つけて
「馬車ですね」と言いました。
執事は、老奥様が、あまりにも
自動車を信用していないからと
恐縮すると、マティアスは、
おばあ様にとっては、
我慢できないほど軽薄で危険な
鉄の塊に過ぎないからと
返事をしました。
執事が謝ると、マティアスは
久しぶりのクラシックも
一度くらいは悪くないと言って
気持ちよく馬車に乗りました。
彼を乗せた馬車は
すぐにスピードを上げて
走り出しました。
荷物を積んだ馬車は
適当な距離を保ちながら、
華やかな金色の紋章がきらめく
馬車の後を追いました。
子供とは全く無縁だった
無骨なビルは、
いきなりやって来たレイラに
困ってしまったものの、
彼女の哀れな境遇と姿に
同情してしまったのではないかと
思います。
いずれは手放すつもりだったけれど
いつの間にか、レイラのいる風景が
当たり前となってしまい、
情も湧いて来てしまった。
他の人に、いつか手放すと言った手前
未だに、そうすると言っているけれど
すでに、その気はなさそうに思えます。
孤児を引き取るまでの過程は
違いますが、
アルプスの少女ハイジのおんじと
赤毛のアンのマリラを
彷彿させられました。
年齢設定について、
マンガではレイラが11歳。
マティアスが17歳。
原作では前者が12歳、
後者は18歳となっています。
マンガに統一した方が良いのか
悩みましたが、
お話の本筋は同じものの
原作とマンガでは、
多少、脚色が異なっているので、
原作と同じ年齢設定に
させていただきますね。
2話は、明日、公開します。
問題な王子様9話は、
土曜日までお待ちください。