5話 ギリス女学校の正門の前で、カイルはレイラを待っています。
カイルは、塀や街灯のような
存在になっていたので
皆、「また来たんだ」程度にしか
思わず、
大したことがなさそうに
彼をチラチラ見るだけでした。
カイルはニコニコ笑いながら
校門の向こうを覗き込みました。
遠くから自転車を引いてくる
少女が見えました。
優雅でたくましい歩き方を見ただけで
カイルは、それがレイラだと
分かりました。
それだけでなく、
豊かな表情を浮かべる顔、
やさしい仕草。
それらは全て、彼にとってレイラで
レイラのような少女は
どこにもおらず、
初めて会った時からいつもそうでした。
カイルが力強く
レイラの名前を呼ぶと
彼女は立ち止まりました。
目を細めていたレイラは、
もう少し足を速めて、
カイルに近づき始めました。
カイルは、
その瞬間が好きでした。
レイラは、
なぜ、ここに来たのか。
後で家に直接来る方が楽なのにと
言うと、カイルは、
どうせ帰るところだからと
嘘をつきました。
カイルは
レイラと一緒に下校するために
テニス部の練習を
すっぽかしたのでした。
しかし、ラケットを
武器のように持って待つ先輩たちも
今は怖くありませんでした。
明日のことは、
なるようになるだろうと思いました。
2人は並んで
商店街を通り過ぎながら
アイスクリームを買って食べ、
本屋に立ち寄りました。
レイラはよく笑いました。
彼女が、
こんなによく笑うことを知っているのは
ビルおじさんを除けば、
この世でカイルだけだという事実も
カイルは気に入っていました。
アルビス領地に続く道に入り
試験の話題が出ると
レイラの目つきが深刻になりました。
幾何の話をする時は、
若干、絶望もしました。
カイルは、
ちょっとしたレイラの表情の変化を
注意深く観察しました。
そして喉元まで上がってくる
くすぐったい言葉を
じっと我慢しました。
下手に告白して、気まずい仲に
なりたくなかったからでした。
あえて恋人になる必要はなく、
すぐに夫婦になればいい。
レイラ・エトマン。
すごくいいと思いました。
なぜ、笑っているのかと
レイラは眉を顰めて尋ねました。
まったく点数が上がらない
幾何について糾弾していたのに、
カイルは、何がそんなに楽しいのか
ニヤニヤしていたからでした。
カイルは慌てて、
ヘルハルト公爵が
久しぶりに戻ってくるそうだね。
いつ戻ってくるのかと
突然話題を変えました。
レイラは、
よく分からないと答えました。
カイルは、
皆がヘルハルト公爵のことを
口にするけれど、
レイラはあまり興味がないようだと
指摘しました。
レイラとヘルハルト公爵は
たまに森で会ったり、
度々訪問するクローディヌに
呼び出されて
顔を合わせるのが全てでした。
それさえも気まずくて、
レイラはできるだけ公爵を
避けようと努めました。
仕方なく出くわした時には
できるだけ頭を深く下げました。
金貨を握り締めて走っていた
あの幼い日の夕方、
転んで落としてしまった金貨を
足で踏んで止めたヘルハルト公爵に
向き合った瞬間以後、
いつも、彼に会いたくないと
思いました。
勝手に呼び寄せて、放置して
お金をくれたたのは
クローディーヌだけれど、
心を限りなく惨めにしたのは
公爵でした。
もしかしたら、
見知らぬ華やかな世界で、レイラが
どれほどつまらない存在なのかを
痛感させたのが
彼だからかもしれませんでした。
そのことは、
レイラがこれまで耐えてきた
蔑視や逼迫とは異なる種類の傷を
残しました。
忘れたくても、
ヘルハルト公爵に向き合うと、
自然にその日のことが
思い浮かびました。
レイラは、
そうさせる公爵が嫌いでした。
レイラが息を整えている間に
黒い車が1台通り過ぎました。
老奥様は
絶対自動車に乗らないので、
おそらく奥様のようでした。
公爵が帰ってくると、
しばらくアルビスは
慌ただしくなるだろうと思いました。
カイルは、
自分もヘルハルト公爵のように
将校になって勲章をもらう。
敵の心臓に銃弾を撃ち込む
百発百中の名射手エトマン大尉と
言うと、銃を撃つふりをして
いたずらっ子のように笑いました。
カイルは、
鳥一羽の命も奪えないのにと言って
レイラは、くすくす笑いました。
カイルは
プライドが傷つきましたが、
反論できませんでした。
去年の今頃だったか、
小屋での食事代の代わりに
何でもやると
大口をたたくと、ビルおじさんは
夕食に使う鶏を捕まえてこいと
命令しました。
しかし、カイルは
ニワトリの羽を1枚すら
抜くことができず、
エトマン家のごく潰しという
屈辱的なニックネームを
もらった日でした。
彼のしかめっ面を
じっと見ていたレイラは
だから自分はカイルが好きと
微笑んで言いました。
そして、カイルの手は
銃を撃つ手ではなく
人々を助けてあげる手で
あってほしいと言いました。
カイルは、
それはそうだ。
自分は医者になるからと言うと
なんとなく照れ臭くなって
頬をいじりました。
カイルは、
それでは、軍医になろうか。
ところで、軍医も
勲章をもらえるのだろうかと
呟きました。
レイラは、
人をたくさん救えば
もらえるのではないか。
たくさん命を奪うことより
ずっとマシだからと
返事をしました。
「そうかな?」と
くだらない冗談を
言い合っているうちに2人は
分かれ道に到着しました。
エトマン家は左に続く道の先に
ありました。
カイルは、
レイラに貸してあげようと思った
幾何のノートを
家に置いて来てしまったと言って
眉を顰めました。
レイラは、
後で夕食の時間に合わせて来るように。
ノートを必ず持って来てと
頼みました。
カイルは、レイラが
自分とノートの、
どちらを待っているのかと
尋ねると、レイラは「ノート」と
厚かましく答えました。
そして、しばらくして
悪戯っぽくクスクス笑いました。
カイルは、ニッコリ笑うと
急いで家に向かって走り出しました。
レイラは、
ゆっくり来ても大丈夫。
どうせ夕食を食べるまでには、
時間があるからと大声で叫びました。
カイルは、
気にしないで。
自分の好きなようにすると
雄たけびのような返事をしました。
どうしようもないといった風に
首を小さく横に振ったレイラは、
自転車に乗り、
アルビス邸に続く道を走り始めました。
マティアスは
邸宅への進入路が始まる地点で
車を止めさせました。
運転手と執事のヘッセンは
当惑した表情をしました。
ヘルハルト公爵は、
予定より1週間も早く到着したため
アルビスの使用人たちは
一日中、バタバタと
準備に追われていました。
そのため、出迎えの人数も
最小限だったのに、
このような事態になったからでした。
ヘッセンは緊張しながら、
まだ到着していないと
言いかけましたが、
マティアスは穏やかな口調で
少し歩くと言って、
ヘッセンの言葉を遮りました。
運転手は急いで車から降りて
後部座席の扉を開けました。
そして、マティアスの後から
降りようとするヘッセンに対して
彼は首を横に振ると、
屋敷で会おうと言って笑いました。
ヘッセンは再び車に乗り込み、
運転手も運転席に戻ると
車は走り去りました。
マティアスは、脱いだ将校帽を
片手に握り、
のんびりと木陰を歩き始めました。
マティアスは完璧な子供で、
完璧な学生で、
今では完璧な将校になりました。
そして、完璧な女性と結婚し、
完璧なヘルハルト公爵となり
完璧な父親になる。
そのすべては当たり前すぎて、
多少退屈でさえありました。
今年の夏に婚約しなければという
母親の言葉に、
マティアスは喜んで同意しました。
適切な時期に結婚をして
後継者を生むのは
当然の義務だからでした。
クロディーヌが、
次期公爵夫人の座に
一番相応しい淑女だと思うと言う
祖母の助言も快く受け入れました。
クロディーヌ・フォン・ブラントは
立派な血統と条件を持った
花嫁候補だったからでした。
マティアスは、欲しがる前に
すでに全てが揃っていたので
望んだことがありませんでした。
切望は、
この上なく遠い世界の観念で
結婚もそうでした。
そして、マティアスは
余計な感情を消耗する必要のない、
彼の世界を
さらに強固なものにしてくれる
踏み台としての結婚を
望んでいました。
クロディーヌは、彼にとって
最もふさわしい相手であり
それ以外の事実に、
特に興味を持ったこともなく
その必要性を感じませんでした。
マティアスは
通りの真ん中で立ち止まって
頭を上げた時、意外にも
人の気配が感じられました。
目を細めてそちらを向くと、
自転車に乗ってくる
1人の女性が見え、
彼女は彼の左側を通り過ぎました。
レイラ・ルウェリン?
マティアスが、
その名前を思い出した瞬間、
女性が彼の方を振り向きました。
彼を見た女性の目が丸くなりました。
彼らが、お互いを凝視している間に
バランスを崩した自転車が倒れ、
レイラは悲鳴を上げました。
マティアスは、ゆっくりと
女性に近づきました。
間違いなく、鳥狂いの少女
レイラ・ルウェリンでした
レイラは慌てて謝罪し、
頭を深く下げました。
彼がこのまま通り過ぎるのを
待っているようでした。
マティアスは、
このまま行こうとする気持ちを変え
ゆっくりと
レイラを見下ろしました。
女子校の制服は泥で汚れ
ストッキングは破れて、
膝からは血が流れていました。
レイラは眉を顰めて
マティアスを見ました。
大胆不敵な表情は
そのままだけれど、
妙に優しい印象でした。
あの娘も成長したんだ。
時間が経てば、
子供が育つのは当たり前なのに
なぜか気になりました。
マティアスにとってレイラは
いつも幼い少女で
必死に彼を避けて逃げる姿が
妙に気になったけれど
それだけでした。
しかし、
生地が薄い夏の制服の下に見える
体の線、
みずみずしい頬と唇、
柔らかい体臭は
もはや痩せた子供のものではなく
以前の記憶とは違う姿に
妙な不快感を噛み締めている間、
レイラはよろめきながら
立ち上がり、靴を履き直し、
制服のほこりを払いました。
成長してもレイラは、
枯の顎の先にも届かない
小さな女性でした。
マティアスは
衝動的にレイラの名前を呼ぶと
彼女はビクッとして肩をすくめ、
依然として頭を深く下げたまま
マティアスに謝罪しました。
そして、彼の足元にしゃがみこむと
土と血が付いた小さな手で、
カバンや本など、
散らばった物を拾い始めました。
そして、レイラの指先が
ペンに触れるのを見た
マティアスは、
そのペンを踏みました。
レイラは、呆然とした目つきで
マティアスを見上げました。
彼はレイラに
自分が呼んでいるのにと
ゆっくりとした口調で言いました。
レイラは目をギュッと閉じて開き、
「はい、公爵様」と答えました。
レイラは、どうにかして
ペンを引っ張り出そうと
必死になりましたが、マティアスは
びくともしませんでした。
レイラは、ブルブル震えながらも
「おっしゃってください。
聞いています」 と
堂々と話し続けました。
彼を直視する瞳が
戸惑いの混じった怒りで
輝いていました。
これ見よがしに金貨を踏みながら
微笑んでいたヘルハルト公爵を
レイラは思い浮かべました。
あの日も公爵は、
このような表情、このような目つきで
レイラを見下ろしていました。
静かに笑ったマティアスは、
握っていた帽子をかぶり、平然と
レイラの横を通り過ぎました。
何事もなかったように
悠々と遠ざかる
ヘルハルト公爵の背中を、レイラは、
ぼんやりと見つめました。
何も言わないなら、どうして
こんなことをしたのだろうか。
ペンを拾い上げた手に
自然と力が入りました。
完璧な貴族と称えられる
ヘルハルト公爵が
こんなことをしたと言っても
絶対にアルビスの人々は
信じないと思いました。
レイラは、
踏まれたペンを丁寧に磨いて
カバンに入れると、ゆっくり歩く
ヘルハルト公爵の後をついて、
自転車を押しながら歩きました。
擦りむいた肌がひりひりしました。
彼が振り向かないことを
知っていながらも、
レイラは足を引きずらないように、
力を入れた足がしびれても
じっと我慢し、
姿勢を正しながら歩きました。
あの長い足を使って、
早く歩いてくれればいいのに。
息苦しくて、
思わずため息が出そうになった瞬間
徐々に歩む速度を遅らせていった
ヘルハルト公爵が振り向きました。
驚いたレイラは
視線を避けることも忘れて、
ぼんやりと立ち止まりました。
マティアスの視線は、
解けた長い髪から、
激しく上下する胸と
自転車のハンドルを握っている
白い手。
不思議なほど細い足首と
小さな足へ移動すると、
澄んだ緑色の目に戻り、
しばらく静かに、
それを見つめました。
レイラ・ルウェリンは
依然として彼の領地で
住み込みをしている
孤児に過ぎないけれど、
彼女が成長した事実を受け入れると
マティアスは、
初めて、幼い女の子ではない
女性のレイラ・ルウェルリンを
見ることができました。
カイルが幾何のノートさえ
忘れなければ、
レイラはずっと自転車を押したまま
カイルと一緒に歩いていたので
レイラが
マティアスに出くわすことも
なかったのに(涙)
カイルは痛恨のミスを犯しました。
マティアスは生まれた時から
目の前に人生のレールが敷かれていて、
そこから逸れることなど
許されないように
育てられのではないかと思いました。
感情を持たないマティアスが
レイラの登場により
どのように変わって行くのか
楽しみでもあり怖いです。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
当地は、
昨日、今日と少し雪が降り、
外へ出ると風がとても冷たいです。
大雪の降った地域にお住まいの方は
どうぞ、お気をつけください。
最近、カテゴリー分け忘れを
やらかしてばかりで
申し訳ありません。
皆様からのフォローが
ありがたいです。
それでは明日も更新いたします。