934話 タッシールはラティルがお金を持っていないと言いました、
◇タッシールの選択◇
皇女ラティルは
自分の手首を見ました。
高価なブレスレットは
すでに売ってしまい、そのお金で
傭兵を雇用し、
馬車を借りるなどしたので、
3分の1程度を
使ってしまいました。
彼女は遅ればせながら、
ただ逃げるだけでは
うまくいかないことに気づきました。
逃げる時も問題があったけれど
逃げた後も問題がありました。
これまで彼女は、皇室からの小遣いを
ふんだんに使って来ました。
しかし、逃げてしまったので
もう不可能でした。
旅行に行く時に持って来た
数多くの荷物があるけれど、
皆、旅館に置いて逃げて来ました。
皇女ラティルは一歩遅れて衝撃を受け
自分にはお金がないと呟くと、
タッシールは咳払いをした後、
すぐに大笑いしました。
けれども、嘲笑うような
笑い方ではありませんでした。
しばらく笑った後、彼は、
ニヤニヤしながら、
でも自分にはお金があると
言いました。
皇女ラティルは、
それでタッシールが
一緒に行ってくれると言うのか。
でもタッシールは商人だから
損をすることはしないと
言っていたのにと言うと、
タッシールは、
商人は損をしそうな時、
そこから早く手を引いて
損害を甘受するのか。
あるいは、ずっと耐えて
状況が変わるのを待つかの
どちらかを選択すると言いました。
皇女ラティルは
口をピクピクさせました。
本来の彼女なら、
堂々と、後者を選択しろ。
自分がいつかお金を全部返すと
威張るだろうけれど、今は、
身分を使うこともできない上、
手ぶらで急いで逃げて来たので
どうやってお金を稼ぐことができるか
途方に暮れました。
皇女ラティルは消え入りそうな声で
タッシールは
手を引いた方が良さそうだと
返事をしました。
タッシールは、
そうだけれど、
この選択は自分がするもの。
自分は、持ちこたえる方向へ
歩いてみると言って
ニッコリ笑いました。
皇女ラティルは、混乱した気持ちで
彼を見つめました。
いつも信頼していた父親は、
自分の命を奪おうとしたのに、
この怪しげに現れた陰気な男が
ただ自分を助けると言ったので
当惑しました。
無事に検問所を通過したのか、
馬車の速度が上がり始めました。
皇女ラティルは
訳もなく両手を握り締めると
チラッと横を見ました。
タッシールは窓枠に肘を突いて
外を見ていました。
これでいいのだろうか。
そう思った皇女ラティルは
その横顔を見て驚きました。
横顔なので、
落ち窪んだ目元が隠れているせいか
それとも、
日光を正面から浴びているせいか、
タッシールの顔が
本当に美しく見えました。
これが、痘痕もえくぼなのか。
それとも本当に美しいのか。
皇女ラティルは
ぼんやりと横顔を見つめながら
タッシールと同じように
窓枠に頭を当てました。
◇浮気◇
タッシールとは、
一緒に逃亡の旅をしているうちに
結ばれるようだ。
ラティルは幻想から覚めると、
訳もなく胸がいっぱいになりました。
偽の未来の中ではあるけれど
いつも徹頭徹尾なタッシールが
自分のために損害を甘受する姿に
訳もなく感動しました。
偽の未来を見せる怪物は、
ロードの感動した表情に
期待を抱きながら、
今回の未来は気に入ったかと
尋ねました。
怪物は、今度こそロードが
自分の使い道を高く評価し、
今後、待遇を改善してくれることを
期待しました。
しかしロードは
「うん!」と明るく叫ぶと、
そのまま外へ走って行きました。
褒美のようなものはないのかと
聞こうとした怪物は、
遠ざかる後ろ姿に向かって
手を伸ばしましたが、
すでにロードは
すーっと行ってしまいました。
ラティルが向かったのは
タッシールの寝室でした。
真夜中だったので、
彼はベッドに横たわっていました。
しかし疲れた表情をしながらも
彼は書類を手に持って
最後まで目を通そうとしていました。
「陛下?」
ラティルが、突然部屋の中に現れると
タッシールは驚き、
書類をテーブルに置いて
立ち上がりました。
ラティルは駆けつけて彼を抱きしめ、
「美しい夫だ!」と言いました。
タッシールは当惑しましたが
ラティルを抱き締めて、
そうだけれど、
ところで、何かあったのか。
なぜ突然、このタッシールの心を
くすぐるのかと尋ねました。
ラティルは嬉しそうに笑って
タッシールと目を合わせました。
彼の瞳は、
偽未来の中の彼の瞳と同じでしたが、
錯覚なのか、
今はもう少し優しく見えました。
ラティルは
偽の未来の中の
タッシールの選択を思い出しながら
自分が皇帝でなくても、
お金がなくても、追われる立場でも
自分のことを好きだよね?と
満足そうに尋ねました。
タッシールは、
そうですね。
ちょっと計算してみないと分からないと
当惑したふりをして答えました。
しかし、ラティルは
すでに彼がそのような言葉を
頻繁に呟きながらも、
皇女ラティルの後を
追いかけているを見たので、
全く嫌な気がしませんでした。
ラティルは、
「そうだよね」と
誇らしげに言いました。
タッシールは、
今度は本気で当惑したように
「私がですか?」と
問い返しました。
彼の顔には、自分は
そんな人ではないのにという
疑問が浮かんでいました。
そんな人ではないのに
そうだったら、
もっとすごいことだ。
ラティルはタッシールの腰を
満足そうに抱き締めました。
何だか分からないけれど、
こういうことをしてくれるといいと
タッシールは思いました。
そして、ラティルを抱き締めて
額にキスをしました。
たちまち2人の間の雰囲気が
和らぎました。
ラティルは、額ではなく唇に
キスしてくれることを望みながら、
彼の唇に露骨に視線を送りました。
しかし、タッシールは
キスをする代わりに、
皇帝が、無職で逃亡者で
乞食であるにもかかわらず、
自分が皇帝のことを
好きだというのは、
もしかして、怪物が見せてくれた
偽の未来のことなのかと
尋ねました。
すると、ずっと笑っていた
ラティルの表情に
初めて亀裂が入りました。
全部正しい言葉ではあるけれど
タッシールが、そのように言うと
少し気分が悪くなりました。
しかし、
まだ偽の未来のタッシールから
受けた感動が残っていたので、
ラティルは表情管理をして、
「うん。でもどうして?」と
明るく聞き返しました。
タッシールは、
皇帝が、ここ数ヶ月間ずっと、
食後すぐに、忙しそうに
どこかへ行っていたけれど、
あの怪物の所へ行ったのかと
尋ねました。
ラティルは、
そうだ。
いつもは短く見て終わりにしたけれど
タッシールとの偽の未来は
タッシールが弱いせいか
何だか、しきりに続けて
見るようになった。
そこでタッシールは
腕に大怪我をしたと答えました。
タッシールはラティルの返事に
妙な表情を浮かべ、
それでは皇帝は、この数ヵ月間、
自分に会いに行って来たのですねと
冗談めかして尋ねると、
ラティルは満面の笑みを浮かべて
「そうだよ」と答えました。
しかし、タッシールは、
そのタッシールは、
このタッシールではない。
つまり、皇帝は何ヶ月間も
自分そっくりの男と
浮気をしていたのですねと
非難しました。
その言葉にラティルの笑顔は
すぐに消えました。
ラティルは、
いえ、違う。
それが、どうしてそうなるのかと
不機嫌そうに反論しました。
しかし、タッシールは、
皇帝が見ていたのは
自分ではないのではないかと
とんでもない主張をしました。
ラティルは、
いえ、あれはタッシールだと
否定しましたが、
タッシールは寂しいと言うと、
膨れっ面で彼女のお腹を撫でました。
そして、うちの子が
とんでもない父親を見て
自分の父親だと誤解したら
どうするのかと抗議しました。
ラティルは、
誤解してもいいではないか。
顔も名前も同じ。 いや、
同一人物だからと言い返しました。
タッシールは、
子供がこんがらがるといけないので
そのタッシールにしてあげたことを
このタッシールにもして欲しいと
訴えました。
ラティルは、
自分が何をして来たと
思っているのかと尋ねました。
タッシールは、
キスみたいなものではないかと
答えました。
ラティルは、
タッシールの期待に満ちた表情を
じっと見ると、
彼の頬を両手で挟んで、
判子を押すように口を合わせました。
◇平和な人◇
ラティルが1日に少しずつ
タッシールとの偽の未来を
見ている間、
時間は早く流れました。
その間、
ゲスターとクラインの戦いは
中途半端な状態のまま
停滞していました。
クラインは、こっそり
ゲスターにつかみかかり、
彼は、人知れず
クラインの攻撃をかわすのに
忙しくしていました。
2人とも今は、タッシールに
手が出せませんでした。
しかし、ゲスターは
忙しいからといって、
ラティルとタッシールに
関心がないわけでは
ありませんでした。
彼は忙しい中でも
ラティルのお腹を見ると
とても胸が痛みました。
この渦中に、ロルド宰相が
黒魔術で赤ちゃんは作れないのかと
しきりに、
とんでもない質問をして来るので
イライラしました。
ギルゴールは忙しくしていました。
彼は、ラティルが最初に頼んだ後も、
何度か議長を訪ねてくれました。
しかし、まだ議長と
話ができていないのか、
確かにどこかへ出かけては来るけれど、
セルに関することも、
プレラに関することも、
ラティルに教えてくれませんでした。
ラティルは、
今はプレラが元気に育っていることを
信じるしかありませんでした。
メラディムの卵は、依然として
音沙汰がありませんでした。
彼が卵を大事に抱いている姿が
よく目撃されましたが、
変わるのは彼の服装だけで、
卵は大きくなってもいないし
殻が薄くなることもなく
以前のままでした。
ラティルは、
あまりにも気になるので、
メラディムに割ってみようと
提案しましたが、
水をかけられました。
ティトゥは、
ラティルが水に濡れて
腰を抜かしている間、びっくりし、
メラディムを引きずって
急いで湖に隠れてしまいました。
ラティルは一歩遅れて我に返り
湖に駆けつけましたが、
すでにメラディムとティトゥは
隠れた後でした。
ラティルは血人魚に
付いて行けませんでした。
ちょうど、この様子を見ていた
ギルゴールは、
自分が捕まえてあげようかと
笑いながら提案しました。
ラティルは、
少し興味が湧いて来ました。
以前、ギルゴールと洞窟に行った時、
彼がどれほど水泳が上手なのか
実際に経験したことが
あるからでした。
しかし悩んだ末、ラティルは
ギルゴールの提案を断りました、
ラティルは、
大丈夫。メラディムが、それだけ卵を
大切にしているということだからと
返事をました。
ギルゴールは手加減しないので、
彼がメラディムを捕まえに行けば、
捕まえてくることだけに
止まらないだろうと思いました。
ラティルはまだ、
ギルゴールの温室の人工湖の中にある
正体不明の人魚の尾ひれの出所が
気になっていました。
ラナムンは、
一見、穏やかそうに見えましたが
最近は、意外にもクレリスのせいで
気分を悪くしていました
プレラがしきりに遊んでくれずに
本だけ読んでいると、
クレリスも本に
興味を示し始めました。
ここまでは、彼も
何も考えませんでした。
問題は、クレリスが本に没頭すると
今度は逆にプレラが
外で遊びたがるという点でした。
プレラは、
クレリスが本ばかり読んでいると
退屈なのか、ずっとクレリスに
遊ぼうとせがんでいました。
しかし、クレリスは遅まきながら
プレラより本に夢中になり、
遊びも後回しにして、
アトラクシー公爵が持って来た
プレラの本を読破しました。
アトラクシー公爵が
このことを知れば、
おそらく、自分の髪を
かきむしりたがるだろうと
ラナムンは思いました。
実際、これを見守るラナムンも
気分が良くありませんでした。
しかし、恥知らずに見えると思い
クレリスを止めることが
できませんでした。
ラナムンは訳もなく
サーナットを冷遇しました。
ザイシンが目撃した
ラナムンとサーナットの
神経戦だけでも、
すでに7回近くになっていました。
人々は、今一番気が楽なのは
皇帝とタッシールだけだと思いました。
しかし、やはりタッシールも
気分が良い状況ではありませんでした。
色々なことで忙しいタッシールに、
ラティルが、
プレラの時みたいに、
子供が少し大きくなるまで、
ザイシンと共同で
子供を養育するのはどうか。
ザイシンは性格が良いので、
一緒に子供の面倒を見てくれるはずだと
周期的に提案するからでした。
ラティルは
良い意味で言った言葉でした。
タッシールは他の皇配より、倍働き、
他の側室たちより、
倍問題を起こすハーレムを管理し
「アンジェス商団」の仕事も
面倒みなければならず、
「黒林」まで導かなければ
なりませんでした。
あまりにも忙しいため、
タッシールは商団後継者の役割を
弟に譲ることを
家族に相談してみたりもしました。
しかし、弟たちが、タッシールの役割を
受け継ぐことができず、
結局失敗に終わりました。
ラティルは
このような状況を知っていたので、
タッシールに、
ザイシンとの共同養育を
提案したのでした。
しかし、タッシールは、
大変でも、自分が直接
子供を育てたいと思いました。
このため、ラティルとタッシールは
戦いというほどではないけれど、
何度か意見が衝突しました。
可哀想なのは、
子供を共同養育する欲もないのに、
突然、この問題に名前が取り上げられ
何度も呼ばれてきた者でした。
ザイシンはタッシールと
仲が良い方だったので、
訳もなく、彼の顔色を
窺うようになりました。
このような状況の中、
事実上、現在、最も気が楽な側室は
カルレインでした。
彼の威名と
威圧的な雰囲気のおかげで
側室たちや宮廷人、大臣たちは
カルレインに、簡単に
手を出すことができませんでした。
カルレインに喧嘩を売っても
大丈夫な人は、
ギルゴールとゲスター程度でしたが、
自分のやることが多い彼らは、
あえてカルレインを訪ねて
喧嘩を売る理由がありませんでした。
カルレインは、外的なトラブルも
ありませんでしたが、
気も楽でした。
彼は3番目の皇子を
後継者にする欲もなく、
子供が一番勉強を
できなくてはならないとか、
最も強くなければならないという
期待もありませんでした。
人間の人生は短いので、その短い間
事故を起こさずに
善良に育ってくれれば良いと
思いました。
カルレインが気になるのは、
ラティルの愛を、多くの人と
分かち合わなければ
ならないことだけでした。
そうして、最終的に
ラティルとカルレインだけが
平和な中。
時間はあっという間に過ぎ去り、
ついにラティルは出産しました。
◇乳母の悲鳴◇
ラティルは、
生まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら
侍女長と乳母に
側室たちを呼ぶよう指示しました。
乳母は嬉しそうな顔をして
出て行きましたが、
扉が閉まるや否や、
乳母の驚く悲鳴が
聞こえて来ました。
ラティルは、
タッシールに似ている赤ちゃんの目元が
落ち窪んでいるのではないかと
調べていましたが、
驚いて顔を上げ、
どうしたのかと尋ねました。
ラティルは数カ月も
怪物の作る幻影を
見に行っていたのですね。
改めて父親が裏切る姿を見ても
ラティルが傷つくことがなくて
良かったです。
ゲスターを怖がることなく
彼を攻撃できるのは
クラインぐらいしかいないと
改めて思いました。
黒魔術で子供が作れたとしても
それは人間ではなく
ダークリーチャーではないでしょうか。
いくらゲスターでも、
そこまではしないでしょう。
良きパパぶりを発揮している
カルレイン。
3番目の子供は、彼に育てられることで
小さいうちから
皇位争奪戦に巻き込まれずに済み、
かえって良かったかもしれません。
タッシールの子供は
タッシール似なのですね。
タッシールの喜ぶ顔が目に浮かびます。