7話 川で泳いでいるマティアスと木の上で本を読んでいるレイラが出くわしてしまいました。
レイラは、最初、
幻を見たと思いました。
目が悪いため、
森の道に落ちている木の実を
リスと見間違えたり、
水に浮かぶ木の枝を人だと思って
驚いたことがあるからでした。
しかし、錯覚というには
目に見える形が
あまりにも人に近く、
しかも、裸の大男でした。
彼の濡れた黒髪まで目に入ると
もはや錯覚だと、言い訳することは
できませんでした。
水面を漂う、あの何かは
間違いなくヘルハルト公爵でした。
驚愕したレイラは、
片手に持っていた新聞を
落としてしまいました。
レイラは、
今すぐ目を閉じろ。
いや、今すぐ木から降りて
この森を離れろ。 そうでなければ、
驚きの悲鳴でも上げろと考えましたが
レイラのできることは、
その一糸纏わぬ男を
ぼんやりと眺めることだけでした。
ヘルハルト公爵も、裸の体を
全く隠す気などない人のように
水の上に浮いたまま
レイラの方を凝視するだけでした。
いっそのこと、
このまま流れに身を任せて欲しいと
切実に願った頃、公爵は、
レイラのいる川岸の方へ
泳ぎ始めました。
来てはダメ。来ないでと
レイラは叫ぶと、
怯えながら木から降りました。
公爵に対する礼儀なんてどうでもよく
籠や帽子のことも考えられず、
レイラは、ただ走りました。
小屋に続く小道の真ん中で
レイラはカイルに出会いました。
カイルは、当惑した顔で
危うく倒れるところだったレイラを
捕まえました。
彼はレイラに
どこへ行っていたのか。
家にいなかったので、
探しに行く途中だったと尋ねると
レイラは荒い息を吐きだしながら
どうしようと、
半分気が狂った人のように呟きました。
カイルは、
どうしたのか。
野獣にでも会ったのかと尋ねると
レイラは
激しく首を横に振りました。
カイルは怪訝そうな目で
道の向こうを見回しましたが
何もありませんでした。
カイルは、
どうしてそんなに驚いたのかと
尋ねましたが、レイラは、
どうしようと呟くと、泣き顔になり
その場に座り込んでしまいました。
エプロンの裾で顔を覆い
何度も首を振りました。
思い出したくないのに、
なぜか、しきりに思い浮かび、
レイラは、自分の髪まで
ギュッとつかみました。
レイラは、再びカイルに
「どうしよう?」と尋ねました。
カイルは、
何なのか分からないと答えられないと
返事をして眉を顰めると、
レイラの前にしゃがみこみました。
久しぶりに上げたレイラの顔は
真っ赤になっていました。
何かを言おうとするかのように
唇を震わせていたレイラは、
再び、泣き顔になって
エプロンに顔を埋めました。
カイルは、
一体、何を見たのか。
幽霊でも見たのかと尋ねると、
カイルはクスクス笑い出しました。
レイラは、
それよりも、もっと怖いものと
言いたかったけれど
唇が離れませんでした。
目の前に広がる光景に呆れ過ぎて
マティアスは失笑しました。
彼は離れの船着場まで泳いで行くと
服を着て、ここに戻って来ました。
レイラは自分の荷物をすべて投げ捨て
逃げ出した後でした。
マティアスは、
木の下に置き忘れた大きな籠と帽子。
地面に落ちている新聞。
濡れたハンカチを注意深く
観察しました。
あまりにも多く採った野イチゴを見た
マティアスは、レイラが
アルビスの野イチゴを
絶滅させるつもりなのかと思い
再び失笑しました。
あの小さな者が、
この籠を持ち歩いているのが
不思議なほどでした。
そういえば鳥だと思って
彼女を撃ちそうになったのも
この木だったようでした。
マティアスは木を見上げると
木の枝の上で、
じっと自分を眺めていた
小さな顔が浮かび上がり、
再び失笑が漏れました。
今でも、彼女が
木に登って遊んでいたとは
思いませんでした。
彼はレイラを
追いかけようかと思いましたが
気が変わり、
邸宅の方へ足を向けました。
今日の午後、アルビスで
取締役たちに会う予定でした。
これまでは、会社の経営に
直接介入しませんでしたが、
除隊後は、マティアスが
引き受けるべきことなので
全般的な仕組みや業務を
把握しておく必要がありました。
ヘルハルト家は、
土地を基盤に、貿易、資源に
領域を広げて行きました。
マティアスの祖父が、思い切って
新大陸の油田に投資したことで
今の莫大な富を築きました。
長い歴史を通じて築いてきた
すべての名誉と権勢が、
今やマティアスの両手に
握られていました。
彼はそれをよく守り、
次のヘルハルトに譲るのが
自分の最大の義務だということを
よく知っていたし、
誰よりも完璧にやり遂げる
自信がありました。
それは一度も疑ったことのない、
極めて当然の事実でした。
邸宅に戻ったマティアスは、
まっすぐ寝室に向かうと
服を着替えて乱れた髪も
きれいに整えました。
それから、
寝室の西側の窓際に置かれた椅子に
座りました。
約束の時間まで、
まだ1時間ほどありました。
無駄に過ごすには長いと
判断した彼は、
体を起こそうとした瞬間、
テーブルの上に置かれた鳥かごの中で
カナリアが鳴きました。
あまりにも静かなので、
歌い方を知らないのかと
思っていましたが、
そんな考えを覆すほど、
鳥は美しく歌いました。
マティアスは、ゆっくりと近づいて
籠の扉を開けました。
歌うのを止めたカナリアは、
切られた羽根をパタパタ鳴らして
鳥籠から離れました。
マティアスは、
窓枠にもたれかかって
鳥を見守りました。
鳥は、少し飛んでは落ちることを
繰り返しながら、
部屋の中を歩き回りましたが、
やがて疲れてしまったのか、
椅子のひじ掛けの上に
おとなしく座りました。
マティアスは、
元の場所に戻すために
鳥を拾い上げました。
以前は、
耳をつんざくように鳴きながら、
もがいていましたが、
今では、おとなしく身を任せました。
その変化が不思議で、
マティアスは、鳥を
指の上に乗せてみました。
当然逃げると思っていたカナリアは
彼をじっと見つめながら
意外にも、じっとしていました。
衝撃を受けた人のように
ぼんやりしていたレイラは
新しい世界に出会った気分だと
呟きました。
眼鏡屋は笑みを浮かべながら、
目がかなり悪かったので
無理もない。
今まで、大変だったのではないかと
尋ねると、レイラは、
本を読むのに、
少し不便なことを除けば大丈夫だったと
明るく答え、
再び、眼鏡をかけました。
曇っていた世界が
魔法のように鮮明になったことに
レイラはもう一度感激しました。
眼鏡屋と、
もう少し話を交わした後、
レイラは店を出ました。
あまりにも鮮明になった風景が
少し不慣れで不思議でした。
レイラは、
新しい世界を切り開いてくれた
アルビスの森の野生の実に感謝し
暑い日、火の前で
腕が痛くなるほど
ジャムをかき混ぜた自分を
賞賛しました。
ところが、
なぜか、こんなに良い日に
不本意ながら、
公爵の裸を見たことを思い出し、
レイラは、
眉間にしわを寄せました。
あの日、レイラは、
日が暮れる頃になって、
ようやく置いて来た籠を
取りに行きました。
森は静かで、川の水が
穏やかに輝いているのを見て
ようやく安心したレイラは、
籠と帽子を持って川辺を離れました。
ただ、それだけなのに
しきりに頬の辺りが火照りました。
それに気を取られていたせいか、
手に持った籠が、どれほど重いかも
分かりませんでした。
その日以降、しばらくの間、
ビルおじさんとカイルを
見るのも恥ずかしいくらいでした。
いくら自分の領地でも、
白昼堂々と裸で川で泳ぐなんて。
レイラは、
嫌な記憶を消すかのように
首を横に振りました。
公爵が去るまで、
川辺に行くべきではないと
もう一度誓いを立てて
歩き始めた瞬間、
自分を呼ぶ、聞き覚えのある声が
聞こえて来ました。
この高くて澄んだ声は
おそらくクロディーヌでした。
レイラは息を整えた後、
ゆっくりと振り向きました。
適切な礼儀をわきまえた笑顔も
用意しました。
ところが、
レイラの視野に入って来たのは、
意外にも、
ヘルハルト公爵でした。
あまりにも鮮明で、
少し見慣れない世界の中に
彼が立っていました。
レイラはびっくりして
彼のそばに立っている
クロディーヌに視線を移しました。
ヘルハルト公爵が離れている間は、
彼女もアルビスに来なかったので
かなり久しぶりでした。
その間にクロディーヌは、
完璧な淑女に変貌していました。
レイラが丁寧に挨拶すると、
2人は優雅に頷きました。
クロディーヌはレイラに、
いつから眼鏡をかけているのか。
危うく、気づかないところだったと
言いました。
レイラは笑顔で彼女と向き合い、
ヘルハルト公爵には
目を向けないように努めました。
クロディーヌはレイラに
元気だったかと聞くと、
目を細めて、上から下まで
レイラをよく見ました。
彼女が「はい、お嬢様」と答えると、
クロディーヌは
華やかな笑みを浮かべ、
目で、通りの向かい側のホテルを
差しながら、自分たちは、
お茶を飲みに行くところだったけれど
久しぶりにレイラと会ったので、
一緒にお茶を飲みたいと言って
マティアスに許可を求めました。
彼は唇の先に、
軽い笑みを浮かべることで
同意を示しました。
レイラの気持ちは
どうでもいいようでした。
いつも、そうだったから、
今更、驚くことではないけれど。
2人が歩き始めると、
待機していた使用人たちも
静かにその後を追いました。
レイラはため息をつきながら
自転車を押しました。
マティアスは、子供の頃から、
期待とか、責任とか、義務とか
背負わなければならないものが
多くて、
がんじがらめになっているように
思います。
自分だけの離れで、
祖母や母も来ない川辺で
裸になって泳ぐのは、
自分を縛り付けているものから
解き放たれたいという願望の
表れなのではないかと思いました。