8話 レイラはクロディーヌにお茶に誘われました。
ドアマンの、
とても当惑している表情に、
レイラは「理解する」と言うように
頷きました。
この都市の最高のホテルに、
古い自転車を押して来た客は、
今まで、
いなかったはずだからでした。
先に入ったヘルハルト公爵一行と
レイラを何度も交互に見てから、
ドアマンは自転車を預かりました。
レイラは短く感謝の意を表した後、
ホテルに入りました。
ホテルのマネージャーは、
川岸に面したテラスに
彼らを案内し、レイラは
最後にテーブルに座りました。
よりによって
ヘルハルト公爵と向き合う席でした。
じっと注がれる彼の視線が
想起させた記憶に、レイラは
急いで目を伏せました。
普通は、
見た人より、見られた人の方が
恥ずかしいのではないかと
思いましたが、
平気で自分を見るヘルハルト公爵が
レイラには、ただ不思議でした。
確かに、貴族にとって使用人とは
家具や絵のような存在に
過ぎないという点を考えれば、
家具の前で、裸になって
恥ずかしがる人はいないし、
裸の人を見て
恥ずかしがる家具もないので
理解できました。
特に注文をしなかったのに、
ヘルハルト公爵の前には
濃いコーヒーが置かれました。
茶碗を持った指が
とても長くてなめらかでした。
2人は、レイラの存在を
すっかり忘れたかのように、
自分たちだけで話し続けました。
こうなるなら、
なぜ、わざわざ自分を連れて来たのか
レイラには分かりませんでしたが
クロディーヌの行動は、概して
レイラの理解の範疇を超えていて
初めて会った12歳の夏以来、
ずっとそうだったので、
気にしないことにしました。
クロディーヌはレイラに
学校はどうか。楽しいかと
尋ねました。
彼女は、レイラより
わずか1歳年上でしたが、
いつもレイラに対して、
子供に接する
大人のような話し方をしました。
ビルおじさんのためにと、
レイラは、いつものように
呪文を唱えながら
「はい、お嬢様」と答えました。
満足そうに頷いたクロディーヌは、
学校生活について、さらに
いくつかの儀礼的な質問をし、
レイラは、笑みを浮かべ続けながら
「はい、お嬢様。」と
繰り返し答えました。
クロディーヌがレイラに望むのは
その答え一つだったし、
レイラは、その答えに慣れていました。
クロディーヌは、
多少退屈な表情でしたが、
依然として優しい声で、
レイラは卒業後に、
どんな仕事をするつもりなのかと
尋ねました。
レイラは、
教師の資格を取るためのクラスにいると
答えました。
クロディーヌは頷くと、
いい子だ。立派な目標だ。
レイラにぴったりだと思うと
けなげな子供を褒めるように言うと
再び微笑み、
マティアスに同意を求めました。
ヘルハルト公爵を見る
クロディーヌにつられて、
レイラも思わず視線を移しました。
眼鏡をかけて見た彼の目は、
さらに澄んだ青色を帯びていて
その目が自分に向かっていることに
遅れて気づいたレイラは
慌てて目を伏せました。
彼は「そうですね」と
さりげなく同意しました。
それを最後に、レイラの存在感は
再び薄れていったので、彼女は安堵し
この気まずいティータイムが
早く終わるのを待ちました。
テニスをしに行ったカイルと
市内で待ち合わせをしていましたが
このままだと遅れてしまうと
不安になったレイラは頭を上げると、
同時にマティアスも
レイラに視線を向けました。
彼女は、以前のように
視線を避ける代わりに、
じっと彼を見ました。
幼い頃、
その青いビー玉に似た目に向き合うと
澄んだ音が
鳴り響きそうな気がしました。
長い間忘れていた
その分別のない想像が思い浮かぶと
レイラは公爵が、
少しだけ見知らぬ感じがして
落ち着かなくなりました。
レイラは、
これ以上我慢できなくなり、
マティアスとクロディーヌに
先に席を立つ無礼の許可を求めました。
そして、焦りが滲み出た声で
友達との待ち合わせの時間が
近づいていると付け加えました。
クロディーヌが笑みを浮かべると
レイラは、ようやく
安堵の表情を浮かべました。
丁寧に挨拶したレイラは
急いでホテルを出ると、
夢中でペダルを漕ぎました。
しかし、無関係な世界から離れるほど
無関係な男の顔は、
さらに鮮明になりました。
レイラは息を切らしながら
眼鏡のせいだと思いました。
その一方で、
あのとんでもないことが
眼鏡をかけた後に起こったらと思うと
安堵感を覚えたりもしました。
頭がクラクラして
めまいしそうになった瞬間、
レイラは約束の場所に到着しました。
先に到着していたカイルは
満面の笑みで手を振りました。
心がホッとする安全な世界でした。
クロディーヌは、
レイラが去った方向をチラッと見ると
あの子も随分大きくなった。
もう淑女だと言っても過言ではないと
まるで娘のように扱う口調で
話しました。
マティアスは、
そんな歳になったのだからと
適切な笑顔で、
適度に無頓着な返事をしました。
しばらく物思いに耽っていた
クロディーヌは明るく笑うと
リエットお兄様が
新しく、素敵な車を買ったという
話を聞いたかと
巧みに話題を変えました。
そして、2人は、
向かい側の席に
しばらく座っていたレイラが
まるで最初から
いなかったかのように、
再び彼らが共有する世界について
話を続けました。
2人がアルビスに帰る途中、
道が混んでいて、
しばらく車が止まったので
マティアスは思わず
窓の外を眺めました。
すると、 自転車を押しながら、
1人の少年と一緒に
通りを歩いているレイラがいました。
待ち合わせをしていた
友達のようでしたが、
マティアスは、
見覚えのあるその少年を
じっと見ているうちに、彼が
主治医の息子である
カイル・エトマンであることを
思い出しました。
しきりに眼鏡に触れる少年に
レイラは大声で叫びました。
しかし、少年のいたずらは
さらにひどくなり、
レイラはため息をついて笑いました。
何がそんなに楽しいのか、
しばらくケラケラ笑っていた2人は
図書館の階段の前で止まりました。
レイラが階段の端に座ると、
籠に入っていた紙袋を持って来た少年が
後に続きました。
そして、レイラと少年は並んで座り
袋から出て来た
ソーダ水2本とサンドイッチを
分け合いました。
少年が何かを言うたびにレイラが笑い
レイラが笑うと少年も笑いました。
その間に、
道路を塞いでいた馬車が通り過ぎ、
車が再び走り始めると、
マティアスは
2人から視線を逸らしました。
反対側の窓から、
外を見ていたクロディーヌも
彼に視線を移しました。
2人は笑いながら、
また適切な話を始めました。
ある瞬間、マティアスは
レイラが、自分の前に置かれた茶碗に
一度も手を触れず、
両手を膝に乗せたまま、
きちんとした姿勢で座り、
静かに去ったことを
無意識のうちに思い出しました。
自分から離れて
少年の所へ行ったという事実を
繰り返し考えているうちに、
彼をじっと見つめていたレイラの顔が
思い浮かびました。
彼女は、あの少年の所へ行きたくて
表情に、焦燥感と不快感が
漂っていました。
そして、テラスを離れたレイラは
自分から離れて、
あの少年のところへ行くために、
逃げるように、
急いで歩いて行きました。
彼らを乗せた車は、いつの間にか
アルビス領地に続く
プラタナスの道に入りました。
レイラが自転車で転んだ場所を
通り過ぎる時、 マティアスは、
レイラが、
あえて自分の何かになることは
できないけれど、この気持ちが、
あまり嬉しくはないということを
素直に認めました。
サンドイッチをご馳走になったから
デザートは自分が驕ると言うと
レイラは軽く微笑んで
図書館の階段から立ち上がりました。
空の紙袋とソーダ水のボトルは
自転車の籠に入れました。
カイルは、
そんなことは気にしないでと
言うと、少し照れくさそうに
レイラの自転車に乗りました。
後部座席に座っているレイラの体温が、
真昼の暑さよりも、
鮮明に伝わって来ました。
カイルは、熱気を和らげようとして
ペダルを漕ぎ始めました。
もう少し強く
握ってくれてもいいのに。
レイラは、じれったくなるほど、
そっと彼のシャツを
握っていました。
しかし、それだけでも
カイルの口元には
優しい笑みが広がりました。
レイラは知らないけれど、
彼は、レイラの自転車に
一緒に乗って帰りたくて、
わざと自転車を置き忘れて来ました。
カイルが自転車を漕いでいると
「あのね、カイル」と呼ぶ
レイラの声が聞こえました。
カイルは、レイラが
何かすごいことを言うのかと
思っていたら、彼女は、
それでもアイスクリームを
買ってあげると言ったので、
つい笑ってしまいました。
彼は、
レイラが食べたいからではないかと
指摘すると、レイラは
そんなことはないと答えました。
カイルは、下校途中に
レイラと度々立ち寄る
カフェテリアの方へ向きを変えました。
彼が自転車を止めている間、
レイラは店内に駆け込みました。
ついて行こうとするのを止めて、
カイルは日よけの下で
暑さを冷やしました。
しばらくしてレイラは、
コーンに入った
バニラアイスクリームを2個、
持って来ました。
2人は並んで
アイスクリーム を食べました。
眼鏡をかけたレイラが
見慣れないせいか、
カイルはしきりに
レイラをチラチラ見ました。
そして、カイルは
もう我慢ができなくなり、
レイラの名前を静かに囁きました。
彼を見るレイラの頬が
ほんのりと赤くなりました。
暑さのせいだと分かっていても
カイルは、胸がドキドキしました。
カイルは、半分溶けたアイスクリームを
一口食べると「おいしいね」と
言いました。
カイルが久しぶりに出した言葉に
レイラは虚しい笑みを浮かべました。
彼女は、
やっぱりバニラ味が一番好きと言うと
夏の空を見上げました。
なんて細長い首なのかと思ったカイルは
急いで視線を逸らすと、
再び、アイスクリームを
大きく一口大きく飲み込みました。
ビルおじさんは
マティアスの家の使用人で、
彼はビルおじさんのことを
自分の所有物だと思っている。
当然、ビルおじさんと一緒に
暮らしているレイラも
マティアスは、
自分の所有物だと思っている。
だから、自分から離れて
カイルの元へ行ったレイラのことが
気にくわない。
もちろん、それ以外にも、
レイラに対する微妙な感情が
芽生えて来てもいるのでしょうけれど
今後の
マティアスのレイラに対する仕打ちに
不安を感じました。