10話 レイラとカイルがポーチにいると、突然、ヘルハルト公爵がやって来ました。
公爵は挨拶するレイラに向かって
「レマーさんは?」と尋ねました。
レイラは、
唇を何度もこすって拭いた後、
おじさんは市内に行っていると
答え、何か用事があるのかと
尋ねました。
短く頷いたヘルハルト公爵は、
すぐにレイラからカイルに
視線を移すと、唇に
社交的な笑みを浮かべました。
カイルは、ようやく
本能的な警戒心を緩めました。
老婦人の健康を
よく気遣ってくれる医師に対する
感謝と安否の言葉を伝えた彼は、
再びレイラを見ると、
微笑みが消えた唇で、
バラを持って来るくらいなら
代わりに
ルウェリンさんがやってと
指示しました。
レイラは、
庭にあるバラのことかと
尋ねました。
ヘルハルト公爵は、
適当に摘んで離れに、と答えると
レイラの返事を聞きもしないで
去ってしまいました。
レイラは、
ブラウスとスカートに
たくさん付いている
ビスケットの粉を見て
絶望的なため息をつきました。
夢中で払い退けたけれど、
屈辱感まで払いのけるには
力不足でした。
しきりに唇を擦るレイラを
見ていたカイルは、
もう付いていないと言って
爆笑しました。
どうして、よりによって
こんな時に現れたのかと
レイラが嘆くと、カイルは
まあ、いいではないかと
慰めました。
しかし、レイラは無意識のうちに
また口元を擦りました。
カイルは、
自分の前では口を大きく開けて
食べるのに、
何を今更、気にするのかと
尋ねました。
レイラは、
カイルは友達だからと答えました。
カイルは
ヘルハルト公爵は他人だから
友達より、気にすることはないと
言いました。
しかし、レイラは
それはそうだけれど、
なぜか、とても気まずいと
返事をしました。
カイルは、
どうしたのか。
何かあったのかと尋ねました。
レイラは、
そうではないけれど、
とても気まずくて、
息が詰まるので嫌だと答えました。
カイルは、かすかな期待を込めて
自分は楽でいいよね?と
尋ねました。
レイラは、変な話を聞いたように
笑いながら、帽子をかぶると、
「もちろんです、エトマンさん」と
満足そうに答えました。
カイルの笑顔が
一層明るくなりました。
カイルは、
やはり、そうだと思ったと
返事をすると、
公爵の用事を手伝うことを
提案しました。
しかし、レイラは
大したことではないからと断り、
もう家に帰るよう勧めました。
カイルは、
ここで待っていると答えると、
レイラは、
大丈夫。
カイルが、また、ここで
遊んでいることを知ったら、
エトマン夫人が、すごく怒ると思う。
自分まで怒られたくないので
帰って勉強するようにと勧めました。
カイルは、反論したいけれど
反論できませんでした。
彼は公爵が消えていった方向を
じっと見つめました。
このように不安なのは、
最近、過敏に
なり過ぎているからだろうと
思いました。
つまらないことを言い出して
レイラを怖がらせたくなくて、
カイルは唇を固く閉じました。
しかし、
他の男ならともかく、
婚約間近の完璧な貴族である
ヘルハルト公爵だからと
思いながらも、
カイルは不安を消すことができず
レイラを呼びました。
ハサミと籠を手にしたレイラは
笑みを浮かべながら、
「また、明日」と挨拶しました。
行かないでと言いたいのを
必死に飲み込み、カイルは
いつものように手を振りました。
ヘルハルト公爵だからという考えを
呪文を唱えるように繰り返すうちに
レイラは小道の向こうに
遠ざかって行きました。
「もう一度」と、
後ろからマティアスの声が
聞こえて来ました。
数回、瞬きするほどの時間が
経ってから、レイラは、その言葉が
自分に向けられたものであることに
気づきました。
レイラが息を殺して振り向くと、
窓際のテーブルに
執事と向かい合って座り、
テーブルいっぱいに広げた書類を
検討しているマティアスが
「派手ではない色で、もう一度」
と指示ました。
荒唐無稽にも、
レイラを見るマティアスの顔には
穏やかな笑みが浮かんでいました。
レイラは苛立ちを堪えるために
拳をギュッと握りました。
適当に摘んで来いと言ったくせに、
そのバラが問題のようでした。
レイラがバラを睨みつけている間に
マティアスは執事の説明を
再び聞き始め、
短い指示を加えました。
気に入らない使いの存在は、
完全に消されたように見えました。
ビルおじさんのために。
その呪文を繰り返しながら、
レイラは
再び庭園に向かいました。
真夏の午後2時に、
こんな風に人をいじめる
あの男がいい人だなんて
全く認められないと思いました。
邸宅の仕事に無関心なレイラでも、
川沿いの離れが、ヘルハルト公爵の
空間だということぐらいは
知っていました。
なかなか客を迎えることがなく、
出入りする使用人も限定的な
その空間に花を置こうとしたのは
まもなく婚約するクロディーヌが
出入りすることになったからだと
思いました。
それで華やかな色が好きな
クロディーヌの好みに合わせて
花を選んだら、
このような形になってしまいました。
レイラは日陰のない庭で
もう一度心を込めて
バラを切りました。
気難しい公爵の要求に合わせて、
今度は、ほのかな色を選びました。
大半が、レイラも好きなバラでした。
籠いっぱいになった花を手にして、
レイラは炎天下を再び歩きました。
最初から、希望の色を
言ってくれれば良かったのにと、
言えなかった言葉の代わりに
レイラは石を蹴りました。
自分は公爵が嫌いだと、
決して彼には言えない
その言葉の代わりに、
無実の木の葉を足蹴にしました。
めまいがする頃に、
レイラは離れの前に到着しました。
船着き場の隣に立っている
美しい建物は、
半分、川の上に浮かんでいる形で
建てられていました。
1階には、ボート格納庫と
簡単な茶菓を用意できるキッチン。
2階には応接室と寝室、
ダイニングルームがありました。
バラの籠を持ったレイラは、
2階に続く外の階段を上りました。
執事と中年のメイドが
離れから出て来るところでした。
レイラは彼らに挨拶した後、
急いで応接室に入りました。
マティアスは、
まだ同じ場所にいて、
頭を後ろに反らしたまま
目を閉じていました。
待つべきだろうかと、
レイラが悩んでいる間に、
幸いにも彼が目を開けました。
レイラは、
新しいバラを持って来たと告げると
花でいっぱいの籠を
そっと持ち上げて見せました。
しかし、マティアスは、
じっと見つめるだけで、
口を開きませんでした。
乗馬服のジャケットを脱ぎ、
シャツのボタンを
いくつか外したせいか、
先程より、ずっと無防備で
だるそうに見えました。
レイラは震える声で、
もう一度、行かなければならないかと
慎重に尋ねました。
もう一度、
庭に行ってこなければならないなら
バラで公爵を叩くことが
できるような気がしました。
公爵は、
行けと言うなら行くのかと
少し、眠そうな声で尋ねました。
レイラは、
自分が、またミスをしたなら
行かなければならないけれど、
その場合は、望むバラの色を
言って欲しいと、
言いたかった返事を、
唐突に口にしてしまいました。
凍りついているレイラを
じっと見ていたマティアスは
姿勢を正すと、
テーブルの向かいの席を
目で示しながら
「座れ」と指示しました。
レイラは、
公爵が満足したなら
自分はもう・・・と
言いましたが、公爵は、
花を持って来たら、
花瓶に活けることまでが仕事だと
言いました。
レイラは、
花を活けるのは下手だと
言い訳をしました。
マティアスは、
それでは、自分が
しなければならないのかと尋ねると
じっくりと周囲を見回し、
その後、再びレイラを見ました。
彼の仕草から、この離れには
公爵と自分しかいない。
だから、下手な仕事でも
するしかないと気づくと、
レイラは慎重な足取りで
マティアスのそばに近づきました。
しかし、向かい側の席は
どうしても負担なので、
川に面した窓の前に置かれている
木の椅子に慎重に座りました。
レイラがバラを手入れし始めると、
マティアスも、
テーブルに散らばっている
書類の山に目を向けました。
最後に検討した書類に
署名を終えた瞬間、マティアスは、
ふと寝室に住んでいる鳥のことを
思い出しました。
飼い慣らすのが難しいと
聞いていたけれど、
カナリアはマティアスによく従い、
今では気兼ねなく彼の指の上に座り
歌ったりもしました。
とんでもなく小さな鳥が
そのように
美しくさえずるという事実が不思議で
しばらく眺めたりもしました。
彼が書類を整理している間、
レイラは静かに浴室に行き、
花瓶に水を汲んで来ました。
重さを感じさせないように
動く女でした。
レイラは、
やはり嘘をついておらず、
彼女は、ただ花瓶に
バラを挿しただけでした。
花瓶を持って立ち上がった
レイラは躊躇いながら、
気に入ったかと尋ねました。
「ひどい」と言うマティアスの口調は
非難する気配もありませんでした。
慌てたように瞬きをする
レイラの頬が少し赤くなりました。
彼女は謝ると
腕のいいメイドを呼んで来ると
言いました。
しかし、マティアスは、
向かいのソファーを指差し、
威圧的な声で
「座れ」と命令しました。
バラの花瓶を
コンソールの上に置いたレイラは
マティアスが指差した所に
硬直して座りました。
「食べろ」と言って
マティアスが目で示した所に
銀色のクローシュが
置かれていました。
レイラがぎこちない動作で
それを開けると、
一人分のサンドイッチと
レモネードが入った
銀のトレーが現れました。
マティアスは
当惑しているレイラを
じっと見つめました。
たかが、こんなことが好きなら、
彼女のレベルに合った手数料を
払うつもりでした。
結果は酷かったけれど、
庭師に代わって
苦労をしたからでした。
しかし、レイラは
振るえる手でクローシュを置くと、
ありがたいけれど、
自分は大丈夫だと断りました。
医者の息子の前では
太陽の光のように笑っていたのに、
今はただ困惑しているように
見えました。
レイラは、
これ以上することがなければ
自分はこれで・・・と言って
帰ろうとしました。
しかし、マティアスは、
自分の前に置かれた
自分の言っていることが
お願いに聞こえるかと尋ねました。
マティアスは婚約間近でも
完璧な貴族でも、一人の男。
カイルの不安は的中しているのに
マティアスの命令に
背けない立場のレイラが哀れです。
レイラはカナリアではないのに
彼女をカナリアのように
飼いならしたいと
思っているようなマティアスに
背筋が寒くなりました。
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