11話 レイラはマティアスにサンドイッチを食べろと命令されました。
今日はかなり暑い日なのに、
レイラは、
なんとなく背筋がぞっとして
肩をすくめました。
さっさと食べて帰ろうと
決意しましたが
前に置かれた食べ物は
少しも減りませんでした。
昼食を腹一杯食べた上に
おやつまで食べ、
用を言いつけられている間に
暑さに苦しめられたので、
何も飲み込めそうに
ありませんでした。
マティアスは、斜めに頭を下げて
再び自分の仕事に
熱中しているだけでしたが
レイラは息さえ
まともにできませんでした。
レイラは、
一口かじったサンドイッチを
飲み込みながら、
お粗末なお使いと、
酷い活け花への罰だろうかと
じっくり考えました。
もしそうなら、今、レイラは
本当に酷い罰を受けている
気分だったので、
ヘルハルト公爵は目標を達成したと
思いました。
レイラは
吐き出したい衝動に勝つため
急いでレモネードを飲みました。
そして、再びサンドイッチを
手に取りました。
死にそうな顔をしていることが
ばれないように、帽子のつばを、
もう少し深く下げました。
ヘルハルト公爵の指先が、
突然、彼女の顎の先に触れたのは
その時でした。
彼は、顎の下で結んでいる
リボンを解くと、
淑女なら、室内では
このような帽子を脱ぐべきだと
言うと、レイラが文句を言う前に
麦わら帽子を脱がせました。
驚いたレイラは、
反射的に立ち上がりました。
そのせいで落ちたサンドイッチが
床を転がりました。
マティアスは目を細めましたが
帽子にだけ神経を集中している
レイラは気づきませんでした。
レイラは怒りで震えた声で
自分は家に帰りたいので
帽子を返して欲しいと訴えました。
マティアスは、
全くそのつもりはないと言うように
奪った帽子をつかんでいました。
たった帽子一つを脱がせただけなのに
裸にされたような反応をし、
首筋まで赤くなっているレイラを
マティアスは
かなり面白がりました。
マティアスは、
まだ2個残っている
サンドイッチを指差し、
レイラに食べるよう促しました。
そして、
食べて、帽子を受け取って、
それから帰る。
簡単なことだと言いましたが
レイラは首を振りながら
彼のそばに近づくと、
食べたくないし、嫌だと
きっぱり断りました。
怯えたレイラの目は
震えていました。
自分が何を言っているのか
分からない顔をしている
気もしました。
マティアスは帽子を握りしめたまま
椅子から立ち上がり、
嫌なのかと尋ねました。
レイラは、
自分が全てしくじったので、
どうか返して欲しいと頼みながら
背伸びをして手を伸ばしました。
今にも、
泣き出しそうな顔をしていました。
マティアスは、
じっくり、その顔を見ると
手に持った帽子を、ゆっくりと
頭の上に持ち上げました。
レイラの視線も、
その動作に従って動きました。
その目が、
完全に自分を捕えた瞬間、
マティアスは帽子を
窓から投げました。
帽子は風に乗り、
川の上を飛んで行きました。
冷たく彼を睨みつけたレイラは
応接室を駆け抜けました。
マティアスは、
船着き場と川が見渡せる窓の前に
近づきました。
まもなく船着き場に
姿を現したレイラは、
水面に浮かんでいる帽子を見て
地団駄を踏んでいましたが、
いきなりエプロンと眼鏡を
外しました。
あんな帽子一つ拾うために
川に飛び込もうとするのか。
マティアスは、
かなり興味津々な眼差しで
レイラを見守りました。
堂々と振る舞いながらも、
レイラは、
まるで水が怖いかのように
ブルブル震えていました。
しかし、マティアスが
あざ笑うように
片方の口の端を上げた瞬間、
レイラは川の中に入り、
躊躇いながらも
帽子が浮いている所へ向かって
歩き始めました。
いつの間にか胸まで
水に浸かっても、
レイラは止まりませんでした。
マティアスは腕組みしながら
その呆れた様子を見守りました。
レイラが、
思いっきり手を伸ばしてみても
帽子は、もう少し遠い所まで
流れてしまいました。
もう諦めることもできるのに、
レイラは屈することなく
一歩ずつ帽子に近づいて行きました。
もう少し行くと、
彼女の背より水が深くなると
マティアスが考えている間に、
ついにレイラの手が
帽子のリボンの先を握りました。
しかし、それと同時に
レイラの姿が水面下に消えました。
「やはり」とマティアスは
ぶつぶつ呟き眉を顰めました。
レイラは
急に深くなったことに驚き
必死にもがきましたが、
そうすればするほど、
ますます深い方へ
流されていくだけでした。
そんな中でも、命綱のように
帽子を握りしめていました。
マティアスは大股で
船着き場に向かいました。
レイラは泳げないくせに
怖気づくことなく
川に飛び込んだという彼の予想は
当たりました。
船着き場の端で立ち止まった
マティアスは、
水に溺れてもがくレイラを
見つめました。
水面上に浮かび上がったり
沈んだりを繰り返すうちに
悲鳴は次第に
小さくなっていきました。
食べて、帽子を受け取って
それから帰る。
そんな簡単なことで、
こんなに大騒ぎするなんて。
マティアスはため息をつきながら
川の中に飛び込みました。
日差しに熱せられた
船着き場の板に頬が触れると、
レイラは、自分が
無事に川から出たという事実を
実感しました。
安堵感を覚えると、
苦痛と恐怖が押し寄せて来ました。
レイラは激しい咳をして
震えましたが、その瞬間にも、
拾った帽子は
手から離しませんでした。
マティアスは、その光景に
あまりにも呆れていました。
荒い息づかいの中に
低い笑いが入り混じりました。
しばらくして、
マティアスを見たレイラは、
息が詰まりそうになって
喘ぎながらも、
一体、どうして、こんなことをと
力を込めて言葉を吐き出ました。
彼を睨みつける目は
涙をたっぷり含んでいて、
華やかに煌めいていました。
マティアスは
楽しそうに彼女を見下ろしました。
呼吸が落ち着くと、
笑い声がさらに高まりました。
レイラは、
熱い木の床に震える手を突いて
体を起こしました。
長い髪から、水滴が、
雨のように降り注ぎました。
目頭が赤くなったけれど
レイラは泣きませんでした。
その代わり、目を見開き、
愉快そうに笑っている
あの悪い男を睨みつけました。
レイラは、
どういうことかと
聞こうとしましたが、考えを変え、
よろめきながら立ち上がりました。
マティアスは木の床に座って、
彼女を見上げました。
水に濡れた薄い生地は、
レイラの体の線を露わにしていました。
マティアスの目が、
震える肩に触れた時、
レイラは、突然、
帽子を力いっぱい振って
水気を払い始めました。
冷たい水しぶきを浴びたマティアスは
ギョッとしましたが、
レイラは自分なりの復讐を
止めませんでした。
それから、
まだ水がぽたぽたと落ちる
帽子をかぶり、
今度はスカートの裾を
はたきました。
マティアスを見つめる目つきが
挑発的に輝いていました。
マティアスは、
自分はもう面白くないと
思っているのに
面白いのかと尋ねました。
一瞬にして笑いが消えた顔が
真夏でも冷たいあの川のようでした。
本能的な恐怖にびくびくしながらも
レイラは視線を避けることなく、
一体、なぜ自分に
こんなことをするのかと尋ねました。
しかし、マティアスは、
まずは、命の恩人に対する
感謝を伝えなければならないと
要求しました。
驚愕の目で見つめるレイラを
からかうように
彼は平然としていました。
レイラは、公爵が自分の帽子を
川に捨てなかったら、
こんなことは起きなかったと
抗議すると、マティアスは、
徐々に眉を顰めながら、
レイラがおとなしく
サンドイッチを食べて帰れば
こんなことにならなかったと
反論しました。
レイラは息が詰まって、
目を瞬かせました。
冗談というには、公爵の言い方が
あまりにも淡々としていました。
しかも、マティアスは
レイラが泳げないのに、
水に飛び込むという
情けないことをしなければとも
言いました。
レイラは怒りを抑え、
ビルおじさん、ビルおじさんと
何度も素早く呪文を唱えながら
助けてくれたことにお礼を言って
頭を下げました。
しかし、公爵は、
淑女らしく、もう一度と
命令しました。
今回も公爵は笑いませんでした。
レイラは、
自分は貴族の令嬢のような
淑女ではないと、
ビルおじさんへの深い愛も
抑えることができなかった怒りを
とうとう口にしてしまいました。
マティアスは、
動じることのない目で
彼女をじっと見ると、
それでも自分の前では
淑女にならなければならない。
レイラが何であれ自分は紳士だと
命令すると、唇の先で笑いました。
レイラは、
びしょ濡れのスカートの裾をつかみ
歯がガチガチ言うほど震えながらも
一言一句、正確に発音して、
自分の命を助けてくれたことに
お礼を言いながら、
公爵が望む淑女のように
優雅に礼儀正しい挨拶をしました。
マティアスは、
顎の先を少し動かすことで
合格点を与えました。
レイラは目に力を入れて拳を握ると、
あんな人のせいで泣くなと
自分を慰めました。
レイラは、
再び腰をまっすぐにすると
これで失礼すると挨拶をし、
何も言わないマティアスを残して
背を向けました。
足の力が抜けて
何度も転びそうになりましたが
レイラは、必死に
バランスを取りました。
そして歯を食いしばって
今日は転ばない。
これ以上、
あの男の遊び相手にならないと
誓いました。
マティアスの視線から逃れると、
レイラは走り出しました。
今や目頭は、
帽子でも隠すことができないほど
赤くなっていましたが、
それが嫌で、レイラは
ますますスピードを上げて
走りました。
かつてレイラは、
童話や宮廷小説の一場面のように、
クロディーヌを優雅にエスコートして
一緒に林道を散歩している
マティアスを
偶然、見たことがありました。
そして、クロディーヌの帽子が
風で飛んでしまった時、
マティアスは、
ゆっくりとした美しい仕草で
帽子を拾い上げて
クロディーヌに返しました。
しかし、彼は
あの日のように美しい仕草で、
レイラを侮辱しました。
レイラはよろめきながら
草むらへ行くと、
無理やり食べた物を
吐き出しました。
涙が滲んだけれど
泣きはしませんでした。
吐き気が収まると、
レイラは森を流れる小川へ行き、
口をすすぎました。
木陰でしばらく休んでいるうちに
気分がいっそう良くなりました。
その後、レイラは
小屋に続く道に戻りましたが、
これ以上走る気力が残っておらず、
足を引きずりながら歩きました。
小屋が見え始めると、
レイラは最後の気力を振り絞って
道端に落ちている
ハシバミの実を蹴りました。
コロコロと転がっていく実を見て
眉を顰めた瞬間、
レイラは眼鏡を置いて来たことに
気づきました。
マティアスは大人なので
やっていることは酷いけれど
彼の仕草は、
好きな子をいじめている
男の子のように感じられました。
おそらく、彼は子供の頃から
品行方正であることを求められ
人前では、そんなことが
できなかったのだと思います。
もっとも、気になる女の子も
いなかったのかもしれませんが。
レイラの気持ちを無視して、
自分のやりたいようにする
マティアスが憎たらしいです。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
今日から年末年始休み。
この間に、
マンガで公開されている所まで
記事を更新できたらいいなと
思っております。