21話 エルナは逃げるようにパーティー会場を抜け出しました。
エルナは、
お茶とお菓子を楽しむ客が集まっている
休憩室を通り過ぎると
長い廊下を、速足でせっせと歩き
これ以上、人が見えない
東の端の応接室に近づくと、
ようやく、安堵のため息を
漏らしました。
慎重にソファーの端に座ったエルナは
疲れた顔で時計を見ました。
もう午前0時になろうとしているのに
パーティーは、
終わる気配がありませんでした。
思いがけず泥棒になり、
莫大な借金をし、思わず王子と踊り
人々の厳しい視線に
苦しめられるという、
あまりにも多くのことを経験して
疲れた日でした。
さらに、
ロビン・ハインツと自己紹介した男が
エルナが困惑するほど、
しつこくダンスを求め、
彼女が逃げて行く先々で
姿を現しました。
最初の数回は丁寧な要求でしたが
エルナが拒絶を繰り返すと
態度が高圧的に変わって行きました。
そのせいで自分に集中する視線が
負担になったエルナは、
静かにパーティー会場を離れました。
そして、パーティーが終わるまで、
ここに身を隠すことにしようと決めて
緊張を解いた頃、
突然、その男が入って来ました。
ロビンは、
そんなに急いで
どこへ行くのかと思ったら
ここにいたのかと
皮肉たっぷりに言うと、
エルナが座っているソファの前に
近づきました。
驚いたエルナは
急いで靴を履き直して
立ち上がりました。
男からは、濃い酒の匂いがしました。
ハインツはエルナに、
ここで大公と
密会する約束でもしていたのかと
尋ねました。
エルナはハインツに
退いて欲しいと訴えましたが、
ハインツは拒否して、
エルナの手首をつかみました。
逃げる間もありませんでした。
ハインツは、
あの、ろくでなしの目に留まって
可愛がられたから、他の奴は皆、
変に見えるのではないかと
言いました。
エルナは、
何でこんなことをするのか。
放してと訴えました。
しかし、ハインツは
王子を狙うのは無駄な苦労だ。
むしろ自分によく思われた方が
得ではないか。
可愛く振る舞ってくれれば、
あの年寄りの代わりに
自分がハルディさんを
買ってあげられるかもと
言いました。
その言葉にエルナは、
ハインツさんが
何を言っているのか分からない。
この手を離してと訴えました。
しかし、ハインツは、
何が分からないと言うのか。
エルナの父親は、
札束を背負って来る奴なら、
それが誰であれ、娘を売る奴だ。
自分があの老人より、
一銭でも多く提示すれば、
ハルディさんは
自分に売られることになる。
それなのに無視をするのかと
ハインツは、
エルナに理解できない言葉を
口走りながら、
エルナを力いっぱい
自分の方へ引き寄せました。
彼の胸に顔が触れると、
エルナは悲鳴を上げながら
もがき始めました。
思ったより激しい抵抗に驚いた彼が
しばらく躊躇ったおかげで、
エルナは応接室の反対側の端まで
逃げる時間を稼ぐことができました。
爪に引っかかれた頬を
撫でていた彼は、
失笑しながら近づき始めました。
エルナは怯えた目で
窓の下を見ました。
出口は男の後ろにあり、
もみ合いで彼に勝つことは
不可能でした。
だから逃げられる所は
この窓だけだけれど、
どうしても飛び降りる気になれず、
泣きそうになっている間に
男が背後まで近づいて来ました。
鋭い叫び声が、
廊下に響き始めました。
邸宅の東側に繋がっている
廊下の端から聞こえて来た
女性の切迫した悲鳴が、
ビョルンの歩みを止めました。
パーティーに招待された客が
集まっているような
場所ではなかったので、
聞き間違えたと判断したビョルンは
再び歩き出しましたが、
さらに鋭い悲鳴が聞こえて来ました。
幻聴として片付けるには、
あまりにも生々しい恐怖が
含まれた悲鳴でした。
高い酒を美味しく飲めなかった
クソ野郎が、
またメイドに手を出しているのか。
ビョルンはため息をついた後、
東の廊下に向かって歩きました。
人通りの少ない場所で
適当に寝てから帰ろうとする計画は
どうも失敗したようでした。
色々とイライラしたものの、
こと新しいことでは
ありませんでした。
ビョルンは、
グレディスと離婚したことで
歪んでしまった生活に慣れていました。
それ以前にも、
彼は決してまともな
模範生だったことがなかったし、
生き方も、今と大きく
変わりませんでした。
王冠と持ち替えた自由を
ビョルンは、
かなり気に入っていました。
王太子の品位を保つために
我慢してきた馬鹿どもを、
思う存分馬鹿ども扱いできることは
祝福に近いことでした。
だから今日も喜んで
その自由を満喫するつもりでした。
思いがけない顔に出会うまでは。
「ハルディさん?」
応接室の入り口で
立ち止まったビョルンは、
両目で見ても信じられない
女性の名前をゆっくりと呼びました。
震えながら泣いていたエルナは、
めちゃくちゃな顔を上げて
彼を見ました。
ぼんやりした瞳の焦点が合うまで
少し時間がかかりました。
ビョルンは、
エルナと数歩離れた所で
立ち止まりました。
青ざめて泣いている女。
破れたドレスと血まみれの燭台。
そして倒れている男。
メイドだと思っていた女性が
エルナだという点を除けば、
予想と一致していましたが
倒れている方が男というのは
多少例外的でした。
死人のような顔をしたエルナは、
自分は彼を殺めてしまったようだと
かろうじて口を開きました。
そして、
そのつもりはなかったけれど、
とても怖かったので殴ったら
転んでしまい、
頭をあそこにぶつけて、
血がたくさん・・・と
言葉を続けるほど、
鮮明になる恐ろしい記憶に
エルナは、
結局泣き出してしまいました。
飛びかかって来た男の手が
ドレスに届くと、
エルナは手が届いた物を
むやみに握りしめて振り回し、
もがきました。
薄い生地が裂ける音と鈍い打撃音、
そして男の悲鳴が
同時に響き渡りました。
何が起こったのか
やっと認知できるようになった時
エルナは血のついた燭台を持って
倒れた男の前に立っていました。
倒れている男を
注意深く観察したビョルンは
静かなため息をつきながら
立ち上がると、
心配しないように。
気絶しただけなので、
すぐに目を覚ますだろう。
この手の連中は、
概して簡単に死なないと言いました。
エルナは、
本当なのかと尋ねました。
彼女の目からは涙が流れ続け、
破れたドレスを濡らしました。
片方の肩と胸の半分が
露出していましたが、
それを認知する余裕など、
すでにエルナに
残っていませんでした。
ビョルンは「本当に」と
力を込めて答えると、
フラフラするエルナを支えました。
王子に勝ちたいがために
暴れる馬鹿が出るとは
予想していたけれど、
それが、よりによって
こんな馬鹿だとは。
いくら、みだりがわしく
弄ぶ部類であっても、
ある程度、名高い貴族の家の娘を
このように、
ぞんざいに扱うことができるとは
思いもよりませんでした。
ビョルンは、
脱いだイブニングコートを
エルナの肩にかけながら、
1人で歩けるかと尋ねました。
善良な子供のように頷く
エルナの顔が、月明かりのように
青白く輝きました。
ビョルンは、
「それでは行きましょう」と
断固として命じると、
エルナが握っている燭台を
奪いました。
そこに付いている血が、
手袋をはめた彼の手を赤く染めました。
ビョルンは、
ハルディ家の馬車が
待機している場所までの道順を
エルナに教えると、
先に帰るように。
あとは自分が何とかするからと
告げました。
そして、呆然としている彼女を
ビョルンは見つめながら
もう一度、力を込めて
道順を教えました。
エルナは、
そんなことはできないと
言いましたが、ビョルンは、
自分の責任がないわけではないので
自分の役割を果たすだけ。
だから、心配しないように。
自分は、必ず、この借りは
返してもらうからと言うと
笑顔でエルナの肩にかけた
イブニングコートの袖を結びました。
彼の服にすっぽり包まれた女性は、
途方もなく小さく見えました。
それから、彼は
ボートレースは好きかと
この状況と
全く不釣り合いな質問をしました。
エルナは自分の耳を疑い、
目をギュッと閉じてから
再び開きました。
しかし、ビョルンは依然として
尋常な顔で立っていました。
そして、
好きにならなければならないと
告げました。
エルナは、
それは、どういう意味かと
尋ねましたが、
もぞもぞし始めたハインツを
チラッと見たビョルンは
それでいいので、
もう行くようにと
力を込めて命令しました。
もう笑っていないビョルンの顔は
冷ややかでした。
思わず頷いた瞬間も、
エルナは泣いていました。
何度も振り返ったエルナが去ると
応接室は再び静寂に包まれました。
足音が遠ざかったことを
確認したビョルンは、
コンソールの上に置かれている
花瓶を手に取ると、
ロビン・ハインツに近づき、
彼の顔から流れた血で
赤く染まったカーペットの上で
立ち止まりました。
彼は、それほど
ひどい怪我をしたわけではなく、
血がたくさん出たのは、
燭台の飾りに引っかかれてできた
側頭部の傷と鼻血のせいのようでした。
それが、やや残念なビョルンは
花瓶の水を注いで
ロビン・ハインツを起こしました。
やがて意識を取り戻した彼は、
溺れた人のように、もがきながら
目を開けました。
花瓶を元の場所に戻したビョルンは
混乱に陥っているロビン·ハインツに
淡々と挨拶しました。
燭台を握ったまま笑っている
ビョルンを、ハインツは
ぼんやりと見ましたが、
後ればせながら我に返った彼は、
驚愕して体を起こしました。
先程まで
花瓶に入っていたバラの花が
血と水でぐちゃぐちゃになった
カーペットの上を転がっていました。
ビョルンは、
自分が、少しやり過ぎていたなら
すまない。
でも死んでいないから、いいだろう?
と言うと、血まみれの燭台の先で
彼の頭頂部を軽く叩いて
笑いました。
ハインツは、
初めてこの状況を理解したかのように
動揺し始めると、
血まみれの唾を吐きながら、
「この馬鹿!」と叫びました。
その瞬間にも、
もがいている彼の姿を見る
ビョルンの笑みが濃くなりました。
彼が知っているハインツは、
か弱い女に殴られて
このような姿になったと、
絶対に騒がない馬鹿でした。
だから、嫌でも、
悪名高い王子と一勝負して、
自分の面目を立てる方が
ずっとマシだろうと思いました。
ため息をつくように
低く笑ったビョルンは
燭台を振り回しました。
無防備な状態で
頭を殴られたハインツは悲鳴をあげ、
再び床に倒れました。
それから、ビョルンは
この程度で、
自分たちが戦ったと
信じてもらえるだろうかと言うと、
クスクス笑いながら、
倒れた彼の腹部を蹴りました。
そして、
この業界の人々の目が
どれほど鋭いのか、ハインツも
よく知っているだろうと言うと、
今度は顔を蹴りました。
止まっていた鼻血が
再び流れ始めました。
だから理解してくれ、ハインツと
静かにささやく瞬間にも、
ビョルンは足を止めませんでした。
ハインツは
反撃しようと必死でしたが
一度も立ち上がることすらできず、
なすすべもなく殴られました。
ハインツが悲鳴を上げて
泣き出した後になっから
ビョルンは、
ようやく一歩退きました。
身を屈めて、
彼の顔を注意深く見たビョルンの口元に
笑みが浮かびました。
彼の頭を撫でたビョルンは、
血のついた手袋を脱ぎ捨てた後、
立ち上がりました。
ビョルンは、
ハインツの面目を立てるという
建前で
彼に暴力を振るっていますが
エルナを酷い目に遭わせたことへの
怒りも含まれていると思います。
自分のコートを
エルナの肩にかけてあげたり
ハインツに酷い目に遭わされたことを
誰にも気づかれないようにし、
エルナが家に戻れるように
配慮してあげたビョルン。
彼はエルナをグレディスと
同類だと思っている割には
グレディスへの態度とエルナへの態度は
全然違うと思いました。
*************************************
新年あけましておめでとうございます。
皆様にとって、
この1年が幸せな年でありますよう
お祈りいたします。
今年も、
どうぞよろしくお願いいたします。