22話 ビョルンはハインツを痛めつけました。
自分と目を合わすこともできず
呻いている
ロビン・ハインツに向かって、
ビョルンは、
かなり丁重に黙礼しました。
立ち去るビョルンの姿のどこにも
少し前の、一方的な喧嘩の痕跡は
見当たりませんでした。
ビョルンは、がらんとした廊下を
ゆっくり歩きました。
ハインツに、
グレディスにイライラさせられた
腹いせまでしましたが、
あまり申し訳ない気持ちは
ありませんでした。
夜が明ける前に全都市に広がる噂も
気になりませんでした。
王冠などとは程遠い元夫の姿に
お姫様の絶望が一層深まるなら
申し分ありませんでした。
ビョルンは燭台を手に持ったまま
休憩室に入りました。
何気なく、そちらを見た客たちは、
すぐに驚愕し、ざわめき始めました。
彼を発見した
ハーバー侯爵夫人の叫び声が
鋭く響きました。
彼女は、
グレディスに、あんなことをして
いなくなったのに、
このざまは何なのかと非難すると、
ビョルンは、
平気で血のついた燭台を
大叔母の前のテーブルに置くと
ちょっとした騒ぎがあったと
説明しました。
ハーバー公爵夫人は
一体何を・・・と言いかけたまま
悲鳴を上げました。
他の貴婦人も同様でした。
中には、隅の席に座って
友人たちに慰められていた
グレディスも含まれていました。
ビョルンは、
満足そうに後ろを振り返ると、
予想通り、血塗れの姿で
足を引きずりながら現れたハインツが
そこに立っていました。
ビョルンは、再びのんきな足取りで
パーティー会場に向かいました。
すれ違いざまに見た
ハーバー侯爵夫人の顔には、
自分のパーティーで繰り広げられた
血みどろの劇が与えた興奮の色が
浮かんでいました。
地獄でパーティーを開く日は
まだ遠いようで、
かなり顔色が良さそうな姿でした。
興奮したリサは、寝室に入るや否や、
本当にそのような黄金のトロフィーが
あるそうだと大声で言いました。
イライラしながら、部屋の中を
ウロウロしていたエルナは
驚いて振り返りました。
落とした染色用の筆が床を転がって
リサのつま先に触れました。
筆を拾ったリサは目を輝かせながら、
結婚を控えた紳士が
黄金の鹿の角のトロフィーを作って
独身パーティーを開くのが
社交クラブの伝統だそうだ。
そのパーティーで、
お酒を一番よく飲んだ人が
それを手に入れるという
面白い伝統もあるそうだ。
たかが酒を飲むだけの賭けに
黄金を賭けるなんて、
本当に珍しいことをすると
説明を続けました。
親しいメイドたちに聞いた話では
先日、ベリマン侯爵家の息子が
そのトロフィーを作って
盛大な独身パーティーを開き、
その勝者は、毒キノコの
ビョルン王子だったらしい。
聞くところによれば、
全ての独身パーティーの
トロフィーというトロフィーは
ビョルン王子が手に入れ、
地獄の鹿ハンターと
呼ばれているそうだと説明しました。
リサが話を続ければ続けるほど、
エルナの絶望は
ますます大きくなっていきました。
リサは、なぜエルナが、
そのような放蕩息子たちの
情けない遊びを気にするのかと
突然、質問しました。
エルナはビクッとすると、
パーティーで
そういうのがあると聞いて
不思議に思ったので、
本当なのか、少し気になったと
答えました。
リサは、
誰が聞いても馬鹿馬鹿しい話なので
気になるのも無理はないと
何の疑いもなく頷きました。
そして、思い出したように
王室の毒キノコが、
また事件を起こしたと話し、
乱闘劇を繰り広げて、
ハーバー公爵夫人のパーティーを
台無しにした。
酒をたくさん飲むだけでは足りず、
喧嘩までするなんてと非難すると
エルナは、
お酒に酔っていなかった。
確かにそうだったと反論しました。
リサは、
エルナが酒飲みたちを知らないと
言いましたが、エルナは、
もしかしたら、相手の方が悪くて
喧嘩をしたかもしれないと
ビョルンを庇いました。
王子がどんな人であろうと、
あの件は、明らかに
自分の過ちでした。
リサは、
ハインツ家の子弟の行いが
いくら悪くても、毒キノコ王子より
メチャクチャではないと言うと
突然、深刻な表情をし、
エルナが、しきりに
王子の肩を持っていると指摘しました。
エルナは、
肩を持つというよりは、
その状況をまともに知らないのに
むやみに断定するのは軽率だと
返事をすると、リサは
首を振り、眉を顰めながら
外見に惑わされてはいけない。
美しいからといって
毒キノコをかじったらどうなるのか
知っていますよね?と尋ねました。
エルナは、
そんなことないと否定しましたが
リサは、食べたら死ぬと
何度も繰り返して念を押すと、
メイド長に呼ばれて、
急いで寝室を離れました。
一人残されたエルナは
力なく机の前に座りました。
仕事をしてみようと
材料をたくさん広げたけれど、
今日だけは、気を引き締めることが
できませんでした。
エルナの目の届く所全てに
王子の顔が浮かぶので、
エルナは、ギュッと目を閉じました。
多方面に渡り、
大きな借金をしてしまったという
否定できない事実が
エルナの心を重くしました。
散歩を口実に、
噴水台から邸宅まで逃げてきた道を
隅々まで探してみましたが、
当然のことながら、
鹿の角のトロフィーの痕跡すら
見つかりませんでした。
もしかしたら王子が
嘘をついたのかもしれないという
最後の希望も、
粉々に砕けてしまいました。
その上、自分の過ちなのに、
彼に濡れ衣を着せて逃げるという
卑怯なことまでしたので、
ちょっとやそっとの
恥知らずなことでは
ありませんでした。
ようやく震える胸を、
落ち着かせたエルナは、
血の気の失せた手で
クローゼットの下に隠しておいた
ブリキのクッキー缶を
取り出しました。
エルナは思わず力が抜けて
床に座り込んでしまいました。
どんなに世情に疎くても、
自分の持っている物、
全てを合わせたところで、
あの鹿の角の枝一本さえ
買えないということくらい、
分かるような気がしました。
無意味だとは分かっていながらも、
エルナは、その場に座って
クッキー缶を漁りました。
数枚の硬貨が転がる音が
絶望的に鳴り響きました。
こうなることが分かっていたら、
お金を節約していたのにと
思いました。
パーベルが、デパートに
造花を納品できるようにすると
言ってくれた日、エルナは感激して、
材料をたくさん買ってしまいました。
わずかな金額でしだが、
莫大な借金を抱えて
窮地に追い込まれると、
それさえも残念でした。
クッキー缶に入っていた
スズランの造花を
じっと見下ろしていたエルナは
思わず「・・・花」と呟きました。
微かな希望を発見すると、
無気力だった眼差しが
徐々に生気を取り戻し始めました。
いつも祖父は、どんな場合でも、
人間の品位と尊厳を
失ってはいけないと言っていました。
借金をしたら最善を尽くして返す。
過ちを犯したなら、
心から謝罪し、許しを請う。
それがエルナの知っている
品位と尊厳でした。
祖父の意思も同じでした。
エルナは
スズランの造花を手に取って
立ち上がりました。
信念を守る人生を生きろ。
これも、祖父が残した遺産でした。
普段より多くの日程を消化して
疲れたビョルンは、
馬車の座席に深く腰掛け
だるそうな目で、
夕焼けが沈む川辺を眺めました。
フレイル銀行は、
シュベリンの金融界で、
かなり確固たる地位を築き、
個別的な投資案件も
満足できる収益を上げていました。
先日行われた大規模な競馬大会では
彼が所有する競走馬が優勝しました。
競馬には興味がないけれど
立派な種馬がもたらす賞金は
話が別でした。
望んでいた人生が順調なので、
この夏を愛せない理由は
ありませんでした。
ハルディ子爵が出した
美しい商品のおかげで
グレディスの存在感が薄れているので
なおさらそうでした。
彼女と自分を、
どう結び付けて、どう話そうが、
どうでもいいことでした。
グレディスがいなければ
どんな女性の名前でも
受け入れることができました。
その上、エルナは、近いうちに
大きな賭け金まで与えてくれる予定の
女性でした。
ビョルンの口元に
満足そうな笑みが広がる頃、
馬車は市街地と大公邸をつなぐ橋に
入りました。
ビョルンは、
橋の入り口にある
高い花崗岩の柱の上に立つ、
彼の曽祖父である
征服王フィリップ2世の金色の銅像と
目を合わせて
薄っすらと微笑みました。
勤勉な街灯係のおかげで、
欄干沿いに設置された
数十個のガス灯は
全て点灯していました。
光の橋の先に広がる自分の世界を
眺めていたビョルンの目が
突然細くなりました。
橋の反対側の端に建てられた
花崗岩の柱の下に
一人の女性が立っていて
大きな包みを胸に抱いたまま、
彼の馬車をじっと見つめていました。
「エルナ」と
ビョルンは失笑するように
その名を吐きました。
野暮ったい服を着た淑女。
賭けの勝利をもたらす
ビョルンのストレートフラッシュ。
信じられないけれど
確かに彼女でした。
まさか自分を待っていたのか、
女は馬車に向かって
慌てて手を振り始めました。
ビョルンは再び失笑すると
馬車の壁を叩きました。
馬車が止まると、ビョルンは
馬車の後方に目をやりました。
夕方の風景の中を
エルナが走って来ました。
許可もなく
大公邸まで押しかけた挙句、
ビョルンに突っぱねられ、
それでも、性懲りもなく
パーティーに現れ、
ビョルンにしつこく迫ったけれど
もっと残酷にあしらわれた
グレディス。
それでも、帰ることなく
友達に慰められているなんて、
きっと自分に有利になるように
噓八百並べているのではないかと
思いました。
そんなグレディスのせいで、
ビョルンに八つ当たりされた
ハインツに、少しだけ同情します。
バーデン家は貧しかったけれど
エルナは、おじい様から、
お金では買えない、
人として、とても大切なものを、
遺産として受け取ったのですね。
光の橋の先にいたエルナ。
野暮ったい服を着ていても
美しく見えたと思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様の考察が、本当に素晴らしくて
いつも感心させられています。
お忙しい中、お時間を割いていただき
本当にありがとうございます。