26話 父親に殴られたエルナはパーベルに会いに行きました。
エルナは、
ホットミルクを飲み終えると
自分は馬鹿だったと呟き、
ハンカチで、口元についたミルクを
落ち着いて拭き取りました。
そして、両手で
カップを力いっぱい握り締めながら
父のような人を
信じてはいけなかったと
呟きました。
当てもなく家を出て、ここに来る途中、
すべての感情の残りかすまで
出したおかげか、
体の傷は痛かったけれど、
頭の中はすっきりしていました。
そして、エルナは
父親に関するどんなことにも
もう、執着したくありませんでした。
エルナはパーベルに向き合うと、
彼に迷惑をかけたことを謝りました。
そして、自分が頼れるのは、
あなただけだから・・・と
言葉を濁しながら、
視線を落としました。
広場で偶然出会ったビョルン王子の顔が
空のカップの中に
ぼんやりと浮かび上がり、
消えていきました。
もしかしたら彼が
助けてくれたかもしれないけれど、
エルナは何があっても、
このような姿を王子に見せたくなくて
傷の痛みも忘れて
無我夢中で走りました。
パーベルは、
よくやったとエルナを褒め、
助けが必要になったら、
必ず自分を訪ねて来るよう
言ったではないかと告げました。
そして、深いため息を吐きながら
立ち上がると、
エルナが握っている空のカップを片付け
寝室へ行き、
パッチワークの毛布を持って来ました。
祖母が作った毛布であることに
気づいたエルナは目を見開きました。
パーベルが肩に掛けてくれた毛布を
そっと撫でるエルナの唇の上に
笑みが広がりました。
ずっと固い表情をしていたパーベルも
つい虚しく笑ってしまいました。
その毛布は、男爵夫人がくれた
入学祝いのプレゼントでした。
夏でも布団は
必ず掛けなければならない。
あらゆる病気が蔓延している大都市では
特にそうしなければならないと
繰り返し頼みながら、
プレゼントの包みを渡してくれた
あの優しい老婦人を思い浮かべると
パーベルは改めて
怒りが沸き起こりました。
エルナは彼らの宝物で、
すでに父親であることを
放棄したハルディ子爵に、
その宝物を、このように扱う資格は
ありませんでした。
目頭を赤くしたまま
毛布を撫でているエルナを
見ていたパーベルは
バフォードへ
連れて行ってあげようかと
衝動的に尋ねました。
エルナは悩みましたが、
そうしたいけれど、
今すぐにはできない。
自分が契約を破ったら、
父親は、
バーデン家の邸宅を放っておかないと
答えて、首を横に振りました。
パーベルが「契約?」と聞き返すと
エルナは、
父親の言うとおりに嫁に行くことが
契約だったと答えました。
パーベルは、
だからといって、
このままハルディ家にいるわけには
いかないではないかと反論しました。
エルナは、
分かっている。父親の思い通りに
素直に、売られることはない。
その前に、何とか方法を探して・・・
と返事をすると、パーベルは、
もう少しエルナに近づき、
いっそのこと、家を諦めたらどうかと
提案しました。
毛布に包まれた肩を包み込む手に、
そっと力が込められました。
パーベルは、
エルナが、バーデン家の邸宅を
どれほど大切に思っているかは
よく分かっているけれど、
あの家は、エルナの人生よりも
大切ではない。
男爵夫人も、そう思うだろうと
言いました。
しかし、エルナは、
そうなれば、
自分たちは行くところがないと言うと
途方に暮れた目で彼を見ました。
そのような考えを
してみなかったわけではないけれど
持っているお金をすべて集めても、
古い借家一つ手に入れることが
難しい境遇でした。
自分と祖母が過ごす場所は
辛うじて用意できるとしても、
2人の使用人まで責任を負う道は遠く
そして、エルナは、
父親のような人とは比べ物にならない
本当の家族である彼らを、決して
無視することはできませんでした。
パーベルは、
自分が手伝う。
大金ではないけれど、今月末には、
絵を売った金が入って来て
4人家族が暮らす田舎の借家を
手に入れる程度にはなるだろうと、
傷だらけになって、
自分の所へ来たエルナを見た瞬間に
思いついた衝動的な考えを
落ち着いて伝えました。
エルナは、
それはできないと反対しました。
しかし、エルナの反応を
すでに予想していたパーベルは、
貸すのだから心配しないように。
後で、自分を守れるようになった後に
ゆっくり返してくれればいい。
エルナの父親は、秋が終わる前に
エルナを売るつもりだ。
その前に、エルナが、
家族に責任を持てるだけの金を
集めることは不可能だと
落ち着いて説明しました。
エルナは否定できませんでした。
何も言えないエルナの目を直視し
パーベルは静かに息を整えました。
もしかしたら
無謀なことかもしれない。
このように逃げることが、
貴族の令嬢の将来に
決して良いことではないということを
パーベルも知っていました。
しかし、少なくとも
最悪ではありませんでした。
そして今、エルナに必要なのは
最善ではなく、
最悪よりマシなことでした。
パーベルは、
まずは父親から離れることだけを
考えるようにと、
言い聞かせるように穏やかな口調で
エルナを説得しました。
適正ラインは、
果たして、まだ有効なのか。
簡単に答えを出せない疑問が
微かに浮かび上がり、
すぐに消えて行きました。
エルナ・ハルディが姿を消しました。
ハルディ家の近くや繁華街はもちろん
どんな社交の場でも、
彼女の姿を見ることが
できませんでした。
子爵夫婦は、健康上の問題だという
決まりきった言い訳をしましたが、
誰もその言葉を
素直に信じませんでした。
ペーターは、
このまま、ボートレースの日も
現れなければ、
自分たちはどうなるのかと、
わざと深刻な顔で質問しました。
その言葉を聞いて、
ようやくビョルンは、
決戦の日が目前に迫っていることを
悟りました。
レナードは、
夏シーズンの最高のイベントなので
その日は出席するだろうと
返事をしました。
ペーターは、
本当に具合が悪いのなら
それも難しいのではないかと
言いました。
レナードは、
スキャンダルのせいで
しばらく身を隠しているんだと
返事をして、
ペーターを嘲笑いましたが
一瞬、表情が硬直しました。
それと同時に、彼らの視線が
一斉にビョルンに集まりました。
しかし、彼は平然と
リンゴを食べているだけでした。
彼の視線は、依然として
クラブのラウンジの入り口に
向けられたままでした。
ペーターは、
いくらあいつが馬鹿でも、
狂っていなければ、ビョルンの前に
現れるわけがないと言って
首を横に振りました。
その時、思ったよりはるかに
馬鹿なのが確実なロビン・ハインツが
入って来ました。
レナードは、「あの狂人め」と
弔意を表すかのように
ため息をつきました。
ハインツは、
このような早い時間に
ビョルンがクラブに現れたことを
予想できなかったように、
しばらく、グズグズしていましたが
すぐに虚勢に満ちた態度を
取り戻しました。
リンゴを食べながら
静かに待っていたビョルンは、
ハインツの一団が座ると、
ゆっくり立ち上がり、
軽快な足取りで、
彼らのテーブルに向かいました。
ビョルンは、久しぶりだと言うと、
必死に自分から目を背けて
蛮勇を振るっているハインツのそばで
立ち止まりました。
タブロイド紙を使って
挑発して来た覇気は消え、
かなり緊張している様子でした。
皆が注目して、
周囲がざわめき始めましたが、
ビョルンは大したことなさそうに
自然に彼の隣に座りました。
ビョルンは酒瓶を手に取り、
ハインツのグラスを
酒で満たしました。
そして、まさか、ここで君を
どうにかするわけがないと言うと、
じっとしているハインツの前に
グラスを押し出し、
ウェイターに目で合図をしました。
まもなくビョルンの前にも
氷の入ったグラスが置かれました。
彼女が先に自分を誘惑した。
ところが、実は彼女は、
大公と自分を両天秤にかけていた。
それで、大公との喧嘩が
起こったのだから、
すべての過ちの責任は、
あの邪悪な女にあると、
ビョルンは、
タブロイド紙に掲載されていた
彼のインタビューを要約し、
落ち着いて語りました。
もしかして、ハインツが先に
喧嘩のきっかけを
提供したかもしれないと
推測する人が増えると、
ハインツは、インタビューで
熱心に自分の弁護をしました。
エルナを犠牲に
するつもりだったようでしたが
彼女の肩を持つ人は
誰もいないので、
かなり良い戦略だと言っても
過言ではありませんでした。
ビョルンは、
あの日のことが、
本当にそうだったのかと尋ねると
自分のグラスも、
自分で満たしました。
たじたじしていたハインツが
視線を避けると、ビョルンは、
大理石の床で揺れている
ヤシの木の葉の影の上に
視線を移しました。
彼の忍耐力は、
長く続く退屈な沈黙に
耐えられるほど、
強くありませんでした。
ビョルンは、
少し当惑している。これでは、
自分が楽しい飲み会を
台無しにしに来た
招かれざる客みたいではないかと
言うと、ハインツの肩に
軽く手を置きました。
そして、
楽しそうに騒いでいた時は、
まさか自分に、二度と会わないと
思っていたのか? それなら残念だと
言いました。
ハインツは、
一体何が言いたいのかと尋ねました。
ビョルンは、
そんな大げさなことではないと言うと
ハインツの肩を
力強く握っていた手を放し、
立ち上がりました。
ようやく、ハインツが
まともに息を吐き出しだ瞬間、
椅子が倒れて、
自分を見下ろしている灰色の瞳に
向き合いました。
あの夜のように、
ビョルンは笑っていました。
ハインツは、
体を起こそうとしましたが
ビョルンが、彼のみぞおちを
容赦なく踏んだので、
彼は悲鳴を上げながら
再び床に倒れ込みました。
ビョルンは、
お前の言う通りなら、
自分たちは、一人の女を巡る
恋のライバルのようなものだと
言うと、依然として
彼を踏みつけたまま、
ウィスキーのボトルを握りました。
そして、
お前がそうだと言うから、
それにふさわしいもてなしをすると
告げると、
ゆっくりと酒瓶を傾けました。
真っ赤になった
ハインツの顔の上に
ウイスキーが溢れ始めました。
ビョルンは、
ハインツは知らなかったようだけれど
これが、自分の恋のライバルへの
接し方だと告げました。
もがきながら悲鳴を上げる
ハインツを見下ろす瞬間にも
ビョルンは、
穏やかな笑みを浮かべていました。
空の酒瓶をテーブルの端に置きながら
ビョルンは、
恋のライバルを自称した馬鹿から
足をどけました。
怒りを抑えきれずに放った
ハインツの叫び声が、
彼らを取り囲んでいる
見物人たちのざわめきを
圧倒しました。
ビョルンは、
一歩退いたところで
ギャーギャー騒ぐ馬鹿野郎だと
軽蔑の目でハインツを一瞥すると
空のウィスキーボトルの横に
酒代を投げて背を向けました。
最近、めっきり退屈だった日常に、
再び活気が戻る気分でした。
自分を呼ぶ一行に
上機嫌で挨拶したビョルンは、
クラブを出て馬車に乗りました。
タラ通りを通る途中、
大きな包みを抱えて歩く
彼女のメイドを見ました。
エルナの姿は、
依然として見えませんでした。
パーベルは、
自分が駆け落ちのように
エルナをバフォードへ
連れて行くことで、
彼女の評判が落ちることと、
醜聞が立つことを
恐れているのでしょうけれど
バフォードは田舎だし、
バーデン家は、
社交界とは無縁の生活を
送って来ているので、
しばらくすれば、元の生活を
取り戻せそうな気がします。
それに、パーベルの父親は
身分の差を気にしているようだけれど
パーベルの健康を心配して
パッチワークの毛布を贈った
おばあ様なら、
仮にエルナとパーベルが
結婚することになっても、
孫の幸せのために、
賛成してくれたのではないかと
思います。
ハインツの想定外の早い時間に
ビョルンが社交クラブに来て、
ハインツを待ち伏せした。
そして、
エルナだけを悪者にした記事なのに
ビョルンは、ハインツに
制裁を与えた。
おそらく、タラ通りは
大勢の人がいるでしょうに、
リサを見つけ、しかも彼女が
大きな包みを持っていることにまで
気がつく。
ビョルンの心の中には、エルナが
しっかり入り込んでいるとしか
思えません。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
毎日、寒い日が続きますが、
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
大雪の降った地域にお住まいの方々が
大変な目に遭わないよう
心よりお祈り申し上げます。
次回は、明日、更新します。