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40話 バーデン男爵夫人はタブロイド紙のエルナの記事を読んで、倒れてしまいました。
今日もパーベルは留守でした。
眉を顰めて、玄関のドアを
見つめていたエルナは、
もう一度力いっぱいノックしました。
そのせいで、めまいがして
体がふらつきましたが、
幸いにも転びませんでした。
しかし、トランクが階段の下に
転げ落ちてしまいました。
エルナは、軽くため息をついた後
マントのポケットから取り出した手紙を
ドアの隙間に挟みました。
そしてゆっくり、
転ばないように気をつけながら
階段を下りてトランクを
拾おうとしましたが、
半分、持ち上げたところで
手から逃してしまいました。
ただでさえガタが来ていた持ち手が
壊れてしまったのでした。
エルナは絶望的なため息をつきました。
今まで経験した試練に比べれば
それほど、大したことではないのに
なぜか、耐え切れないほど
悔しくて悲しい気持ちが
押し寄せて来ました。
壊れたトランクの前に
うずくまって座ったエルナは、
目を閉じたまま、
ゆっくりと数を数えました。
そして、再び目を開けると
エルナは
まず持ち手がガタガタする
トランクを、階段の手すりに
もたせかけました。
片方の持ち手の連結金具が
完全に壊れてしまったため、
直ちに直すのは難しそうでした。
適当な解決策を見つけることが
できなかったエルナは、
荷物を置き去りにして、
集合住宅の玄関の外に出ました。
そして、階段の終わる所に
力なく座り込むと、
長いため息をつきました。
ビョルン王子は
帰って来ませんでした。
あと、もう少しと、
馬鹿な期待感を捨てられず
待ち続けましたが、
変わることはありませんでした。
夜が訪れ、その夜が再び去るまで
窓際にいたエルナは、明け方になって
ようやくタウンハウスを離れました。
しおれてしまった鈴蘭は、
その花を貰った瞬間の喜びと共に
窓枠に残しておきました。
王子との約束を
破ることになったけれど
罪悪感は持たないことにしました。
約束を守らなかったのは、
彼も同じだからでした。
トランクを抱えてでも
駅に行くという決心を固めた時、
自分の名前を呼ぶ男の声が
聞こえて来ました。
エルナは驚いて顔を上げました。
「パーベル、シュベリンにいたのね」
自分に向かって走って来ている
パーベルを発見した
エルナの顔いっぱいに、
笑みが広がりました。
約束を破ったという恨みより、
彼が無事だったという安堵感の方が
勝っていました。
しかし、パーベルは硬い顔で、
エルナの手首をギュッと握りました。
彼女はパーベルに
何かあったのかと尋ねました。
パーベルは、
まずは病院へ行こうと告げました。
彼は感情を抑えようとして、
息を切らしました。
言いたいことが多かったけれど、
今は、バーデン男爵夫人のことが
一番、重要でした。
遅れてエルナの顔をまともに見た
パーベルは、
「エルナ、あなた顔が・・・」と
呟くと、思わず眉を顰めました。
エルナの血の気のない顔のあちこちに
微かに痣の痕と傷がありました。
エルナが、
むやみに彼を訪ねて来た日に
見たのと同じ暴力の痕跡でした。
パーベルは、
彼が、また手を出したせいで、
こんなことが起きたのかと
尋ねました。
しかし、
不吉な予感に捕らわれたエルナは
揺れる眼差しで、
その話は後でするので、
あなたから先に話して欲しい。
なぜ病院へ
行かなければならないのか。
どうしたのかと尋ねました。
パーベルは、
驚かないで聞いて欲しい、
バーデン男爵夫人が
今、病院にいる。
ショックを受けて倒れたのだけれど
心臓に無理がかかったみたいだと
説明しました。
パーベルは、
エルナをしっかり支えながら
悲しい知らせを伝えました。
予想通り、力が抜けたエルナの体が
彼の腕の中でふらつきました。
パーベルは、
まずは、おばあ様の所へ
行かなければならないと言いました。

侍従が差し出した
タブロイド紙を見たビョルンは、
どうやら時代を間違えて
生まれたようだという結論を
下しました。
ざっと目を通した後、
ビリヤード台の端に置いた新聞には、
今日も、かなりよく写っている
彼の写真が掲載されていて、
それだけは、依然として
称賛に値しました。
ビョルンは、
気に障る野郎の首ぐらい、
意のままに、ふっ飛ばしても
別に問題にならない
適度に野蛮な時代に
生きるべきだったと言うと
キューでボールを突いて、
目標物に正確に当てました。
吐き出している言葉とは裏腹に
ビョルンの唇には爽やかな笑みが
浮かんでいました。
「どうして?
また何かやらかしたの?」
レオニードは、
少し前までビョルンが立っていた
ビリヤード台の端に近づき、
新聞を手に取りました。
記事を読むレオニードの顔の上に
怒り混じりの当惑感が
浮かび上がりました。
言葉では言い表せないほど、
刺激的で低俗なスキャンダルが
タブロイド紙の一面を
埋め尽くしていました。
ビョルンは、
最高だ。次回が期待されるほど
筆力が増していると
皮肉を言いました。
レオニードは、
こんな下品なマスコミは
制裁が必要なようだと言うと、
汚い物でも振り払うように
新聞を置きました。
肩をすくめながらキューを下ろした
ビョルンは、ビリヤード台の横にある
テーブルの前に、
ゆっくり近づきました。
彼がグラスを空にしている間に
レオニードが近づいて来ました。
生真面目な王太子は、
酒の代わりに水を一杯注ぎました。
ニッコリ笑ったビョルンは、
金色の酒が入ったグラスを握って
背を向けました。
グラスに当たる澄んだ氷の音が
響き渡りました。
ビョルンは酒を一口飲んだ後、
自分が買ってしまおうかと、
赤く濡れた唇を開きました。
そして、自分のおかげで
ゴシップを手に入れて
販売部数を上げているのだから、
半分は、自分が
食べさせているようなものだ。
社主になって、利益でも分け合えば
少しは悔しくないと思うと言うと、
「お前の番だ」と目配せして、
レオニードを催促しました。
狂っていると、
独り言をつぶやいたレオニードは
渋々、キューを持ちました。
普段の実力の半分も発揮されないため
ゲームはビョルンに
有利に流れていました。
今朝の食事の席で、両親は
エルナ・ハルディとの結婚を
許可した。
すでに本人への通知も終えたと
話しました。
驚いて大公邸に駆けつけると、
ビョルンは訳もなく笑いながら、
ビリヤードでもしようと
戯言を言いました。
レオニードは当惑しましたが、
気の狂った申し出に
素直に応じました。
グレディスとの離婚のニュースが
国中を揺るがした日にも、
大したことないから、
ビリヤードでもしようと
同じことを言っていました。
あの日もレオニードは、今日のように
自分の実力を発揮できず、
結局ビョルンが勝利を収めました。
それが、まるで
すごい成果でもあるかのように笑う
ビョルンを見ていたレオニードは
結局、涙を見せてしまいました。
呆れた現実が与えた怒りと悲しみを
抑えきれなかったためでした。
ビリヤードに1回負けたからといって
泣くほどではないと、
ビョルンはレオニードの肩に
手を置いたまま、
呑気に冗談を言いました。
レオニードは
呆れたように失笑しながら
眼鏡を外しました。
顔を包んだ大きな手の隙間から
さらに熱くなった涙が流れました。
彼の肩を叩くビョルンの手は
ビリヤード室を埋め尽くした
午後の日差しのように柔らかでした。
その日、2人の兄弟は、
日が暮れる頃まで
ビリヤード台に並んで座り、
窓越しの風景を眺めました。
咲き乱れた花が風に散っていた
晩春のことでした。
すでに形勢が傾いたゲームから
関心を引いたレオニードは、
かなり深刻な目でビョルンを見ながら
結婚するのかと尋ねました。
ビョルンは、
気でも触れたのかと、
呆れたように聞き返すと
意地悪そうに、
クスクス笑いましたが、
レオニードの表情は
依然として真剣でした。
心が複雑になるほど、
ふざけて、軽くなる人。
レオニードが知っている
双子の兄はそうでした。
あの時も、今も同じでした。
しばらく続いたゲームは
あの日のように、
ビョルンの勝利で終わりました。
残りの酒を飲み終えたビョルンは
ビリヤード台に腰掛けて
日の暮れる空を眺めました。
不本意ながら、
彼女との約束を破ってしまった。
ビョルンは、今朝になって、
ようやく、そのことに気づきました。
戻って来るから待っていろと
確かに約束したのに、
父親が落とした爆弾のせいで
頭の中が
真っ白になってしまいました。
嘘をついたことになったけれど
ビョルンは、
大して気にしませんでした。
どうせ、エルナはそこにいるので
だから、今からでも訪ねて、
約束したお金を、
渡せば良いことでした。
もうピリオドを打つという
決意を固めたビョルンは、
急いでタウンハウスへ向かいました。
しかし、エルナは、
すでに消えてしまった後でした。
今まで、
どうもありがとうございます。
お金は要りません。
多分に形式的で礼儀正しい
手紙一枚だけを残して。
予想できなかった状況に、
多少、イライラしましたが、
ビョルンは、
もうエルナ・ハルディを
消すことにしました。
お金は人づてに渡せばいいし、
女を、わざわざ探す理由も
ありませんでした。
これ以上、
頭を悩ませなくて済むよう、
この辺で、自ら去ってくれて
すっきりした気分になりました。
結婚などという
とんでもない父親の命令を
思い出すと、
再び、空笑いが出ました。
首を横に振ったビョルンは、
窓の前に立って
葉巻を一本吸いました。
まさかエルナ・ハルディの家族が
失踪届まで出して騒ぎを起こすのを
予想できなかったのは
明らかに失敗でした。
しかし、どうせ、あの女は、
世間とかけ離れた田舎の村に
戻ったのではないだろうか。
この年の喧騒とは無関係な所だから
あえて、
気を遣う必要はなさそうでした。
どうせスキャンダルは
すぐに沈静化し、彼女の人生は
本来の軌道に乗るだろう。
ビョルンは
すっきりとした結論を下すと
葉巻の灰を払い落としました。
その時、あの女が置いて行った
鈴蘭が目に入りました。
ビョルンは、萎れてしまった花を
長い間、じっと見つめました。
グレディスが与えた傷を
すべて癒してくれるほど
いい女に出会えるといいね。
彼をじっと見ていたレオニードは
老人のような声で言いました。
そして、両親がどう思っているか
分からないけれど、
自分はハルディさんが嫌いだと
言いました。
ビョルンは、
殿下は酔っ払っているのかと
冗談交じりに言うことで、
レオニードの言葉を遮りました。
しかし、レオニードはなかなか
退く気配を見せませんでした。
折しも、
フィツ夫人が入って来なかったら
耳が痛くなる程、
説教を聞かされたはずでした。
フィツ夫人は、
ハルディさんが・・・と
困ったように言葉を濁しました。
レオニードの存在が
気になるようでした。
しかし、ビョルンは
関係ないと言うように、
顎の先で、話すよう促しました。
すでに解決済みの女に関する
ニュースなら、あえて、
秘密にしなければならないことは
もう残っていませんでした。
フィツ夫人は、
ハルディさんが、今、
王立シュベリン病院にいると
話しました。
「病院?」と聞き返すビョルンの声に
刃が立ちました。
レオニードも当惑した表情でした。
冷たく沈んだ2人の王子の視線が
同時にフィツ夫人に向かいました。
当惑したフィツ夫人は
ゆっくりと息を整えた後、
バーデン男爵夫人が、今朝、
警察署で倒れて病院に運ばれた。
ハルディさんは、今そこで、
祖母の面倒を見ているそうだと
説明しました。

孫娘の、到底信じられない
みっともない姿を見た
バーデン男爵夫人は、
「堕落した」としか
言えませんでした。
額をピクピクさせる彼女の
やせ細った手が力なく震えました。
その姿に驚いたエルナは飛び起きて
バーデン男爵夫人のベッドに
近づきました。
急いで確認した呼吸と体温は、
幸いにも正常でした。
その思いやりのある優しい態度は、
間違いなく本来のエルナでした。
エルナは祖母に、
興奮してはダメだ。
お医者さんに言われたではないかと
注意しましたが、
それをよく知っている子が
そんな顔をしているのかと
バーデン男爵夫人は目を細めて
気に入らない孫娘を見ました。
化粧品をベタベタ塗ったエルナの顔は
まるで、滑稽なピエロのようでした。
男爵夫人が意識を取り戻した時から
エルナは、そんな姿で
付き添っていました。
エルナは、
これは都会の最新の流行だと
説明しましたが、祖母は、
この下品な都市が、
エルナを堕落させてしまったと
嘆きました。
一生、口にすることのないような
言葉を、平気で話すエルナが
彼女の悲嘆を深めました。
ビョルン王子とのことは全てデマだ。
ここで知り合った友達と、
数日、一緒に遊んだだけなのに、
些細な誤解があったと
エルナは釈明しました。
子供でも騙せないような
でたらめな嘘は、
むしろ、その噂の信ぴょう性を
高めるだけでした。
流行というものに心酔して
不健全な連中と交わり、
それでも足りずに
他所の男の家に泊まるなんて。
その男が、よりによって
悪名高いビョルン王子であることが
彼女の絶望をさらに深めました。
エルナを絶対に
ここへ送るべきではなかった。
仕方なく、この子の意地を
通させてしまった自分が憎くて
耐えられませんでした。
首を横に振ったバーデン男爵夫人は
もう休みたいと、
疲れた声で囁きました。
行方不明になったとばかり
思っていたエルナが、
こうして無事に帰って来てくれたのは
奇跡のように嬉しいことだけれど
放蕩王子とのスキャンダルと、
みっともない姿のことを考えると
胸が張り裂けそうになりました。
彼女をじっと見ていたエルナは
素直に頷き、
ゆっくり休むように。
食事の時間になったら
起こしてあげると言いました。
ベッドの横の椅子を
グレベ夫人に譲ったエルナは
静かに病室を離れました。
廊下の端まで歩いて
病院の裏庭が見下ろせる窓の前に立つと
必死に抑えてきた悲しみが
一気に押し寄せて来ました。
エルナは頭を下げたまま、
喉元まで、泣き声を飲み込みました。
辛うじて気持ちを落ち着かせた後
顔を上げると、窓ガラスに映った
自分の顔が見えました。
傷を隠すために雑に化粧をした
エルナの目にも、酷く見える
見慣れない顔でした。
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国中の称賛を浴びて、愛されて、
完璧な王妃になるだろうと期待され
皆が跡継ぎだと思っている子供を産んだ
グレディスと離婚するのは、
何も知らない人々にとっては
到底、許し難いことだったと思います。
それでも、ビョルンは
デナイスタの血が流れていない子供を
跡継ぎにするわけにはいかなかったので
グレディスと離婚した。
けれども、何も知らない人々は
たかが、浮気したくらいで離婚し
子供まで捨てるビョルンに
疑問を抱いたはず。
それが、怒りに変わり、
グレディスとの離婚を発表した後、
人々は、烈火の如く、ビョルンを
執拗に攻撃し続けたではないかと
思います。
今のビョルンは、
何を言われても平気になったけれど
離婚した当初は、
自分は何も悪くないのに、
なぜ、ここまで責められなければ
ならないのかという葛藤が
少しはあったのかもしれません。
それで、心を落ち着かせるために
レオニードを
ビリヤードに誘ったのではないかと
思いました。
一方、今回は、
国王にエルナとの結婚を認められて
かなり動揺していて、
レオニードをビリヤードに誘った。
ビョルンは、
彼女が自ら出て行って良かったと、
自分に言い聞かせているけれど
ビョルンがレオニードを
ビリヤードに誘う時の理由を
知っている彼は、王妃同様、
ビョルンの気持ちを、ある程度、
分かっているのではないかと
思います。
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