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43話 ビョルンはエルナにプロポーズしました。
しばらく、口当たりの良い言葉を
並べ立てていたブレンダ・ハルディは
茶碗から立ち上っていた
白い湯気が消える頃、ようやく
お父さんを許して欲しいと
本論を切り出しました。
ぎこちなく上げた口の端は
痙攣するように
細かく震えていました。
ブレンダは、
あの時は、あまりにも
窮地に追い込まれていて、
状況も悪かったことを
知っていたではないかと言い訳をすると
乾いた唾を飲み込み、
エルナの顔色を窺いました。
彼女は、
にこやかな笑みを浮かべながら
ブレンダを見ていました。
昔とあまり変わらない姿なのに
なぜか、妙な緊張感を振り切るのが
困難でした。
ブレンダは、
もちろんエルナの立場からすれば、
悲しいことだっただろうし、
なぜ、その気持ちが
分からなかったのかと弁解しました。
しかし、目を伏せて、
ティーテーブルを見回したエルナは
茶が冷めたと、そっと囁きました。
ブレンダがびくっとしている間に、
静かに近づいて来たメイドが
冷たい茶を片付けて
新しい茶を注ぎました。
陶器のカタカタいう音が、
息詰まるような静寂を
さらに際立たせました。
メイドが退くと、
エルナは自分の無礼を謝り、
ブレンダに、
話を続けるよう促しました。
この上なく丁寧な態度でしたが、
その裏に隠された
これ以上、話を聞きたくないという
意味を理解するのは、それほど
難しいことではありませんでした。
この不埒な者が、あえてブレンダを
無視していました。
怒った彼女は、
思わず歯を食いしばりましたが
どうしても、
エルナに立ち向かうことは
できませんでした。
来週には、シュベリン大公妃という
この都市最高の
貴婦人の座に就く子でした。
腹が立っても、
仕方なくエルナを支えて
仕えるしかありませんでした。
殴られて家出した田舎者が、
次期王子妃になって帰ってきたという
噂が広まった当初、ブレンダは、
他の全てのレチェン人と同じように
鼻で笑いました。
たとえ、あの毒キノコ王子が
とんでもないことをしたとしても、
王室が、その結婚を
受け入れるはずがないと
思ったからでした。
身の程知らずの欲を出して
結婚商売を台無しにした挙句、
とうとう自分の人生まで、
燃え盛る火の中に投げ入れた。
世の中の怖さを知らないエルナを
思う存分あざ笑うことで、
目前に迫った破産が与える悲しみを
なだめてみたりもしました。
ところが、
国王は快くその結婚を許し、
この秋のうちに、
式を挙げろという命令まで
付け加えました。
たった二か月で、
王子の結婚式を準備するのは
格式と伝統を破ることでしたが
誰も反論することはできませんでした。
この結婚自体が、
とんでもなく破格なので、
今さら、そのようなことを求めるのも
滑稽なことでした。
ハルディ一家が衝撃に陥って
茫然自失している間にも、
結婚式の準備は
体系的に進められました。
まずビョルンは、
バーデン男爵夫人とエルナを
自分のタウンハウスに移させました。
結婚式に関することは、すべて
バーデン男爵夫人に委ねられました。
名目上はエルナの両親である
ハルディ夫妻を、
徹底的に排除した仕打ちでしたが
相手は王室なので、
恥辱と悔しさを、じっと我慢して
受け入れる以外に方法が
ありませんでした。
いずれにせよ、エルナが
大公妃に選ばれたおかげで
破産を免れることができました。
結婚式は、
一週間後に迫っていました。
あと一週間で、ハルディ家が、
王室の姻戚になることを思えば
今までなかった忍耐心が
強くなりそうでした。
ブレンダは、
あれこれ雑談することで
雰囲気を盛り上げ、
エルナの顔色を窺いながら
結婚式の前には、お父さんと
仲直りしなければならない。
バージンロードを
一緒に歩くのだから、
他人行儀なのは困るではないかと
さっと本論を切り出しました。
そして、華やかな笑みの中に、
「あなたは、
ウォルター・ハルディの娘」
という暗示を盛り込むことも
忘れませんでした。
それから、ブレンダは
一緒に夕食を食べるのはどうか。
バーデン男爵夫人も
一緒に招待すると誘いましたが、
エルナは、
固くなった両手を握りながら、
今、返事をするのは難しいと思う。
スケジュールを確認してから
もう一度、返事をすると
ゆっくり答えました。
指先が、細く震え始めましたが、
幸いにも、表情と声は
落ち着いたままでいられました。
不満そうな様子が、顔にありありと
浮かんでいましたが、
ハルディ子爵夫人は
素直に受け入れました。
ブレンダは、必ず連絡をくれと、
執拗に何度も念を押しました。
エルナはタウンハウスの前まで
ブレンダを見送りました。
ハルディ家で受けた
侮辱と蔑視を考えると、
心がひんやりとなる気分でしたが、
つまらない噂を広めたくは
ありませんでした。
遠ざかっていくハルディ家の馬車を
眺めていたリサは、
こんなことを言うのは
差し出がましいし、
無礼だということは
分かっているけれど、
子爵夫人は全く恥じ知らずだと
ぶっきらぼうに言いました。
エルナは、
困惑した表情を見せましたが
それでもリサの見解を
訂正しないことにしました。
リサは、
お嬢様に、あんなことをしておいて
平気で許しを云々するなんて
自分は理解できない。
まさか、ハルディ家を
許すわけではないですよね?
そんなことをしたら、自分は
お嬢様も理解できない。
もちろん理解できなくても
愛しているけれどと、
最後の言葉に、特に力を入れて
言いました。
当惑したように
リサを見つめていたエルナは、
しばらくして笑みを浮かべました。
このように
恥ずかしそうに笑う瞬間のお嬢様は
まったく、
この世の人とは思えないほどきれいで
リサの心をくすぐりました。
エルナと再会した日、リサは
一生、お嬢様に従い、愛すると
決めました。
エルナが毒キノコ王子のプロポーズを
受けたことを知ったリサは、
安心感と悲しみを
同時に味わいました。
可哀想なお嬢様が救われて
良かったけれど、もう二度と
エルナに会えなくなるという事実に
心を痛めました。
もう大公妃になる貴重な人なので、
つまらないメイドを、再び、
呼んでくれるはずがないと
思っていました。
だから、ハルディ家に
直接リサを迎えに来てくれた
エルナが与えた喜びは、
さらに大きいものでした。
厄介者扱いされて、
追い出される日だけを
待っていたリサにとって、
その日のお嬢様は、
リサの人生を変えた
救いの光に他なりませんでした。
エルナは、リサが自分のせいで
たくさん苦労したのではないかと
心配しました。
何を言えばいいのか分からなくて
もたもたしていたリサの頬を
撫でていたエルナの手は、
とても温かでした。
そして「ごめんなさい、リサ」という
温かい謝罪の言葉が
リサを泣かせました。
その日、リサは、
自分より小さい娘の胸に抱かれて
わんわん泣いてしまいました。
醜態を晒していると
分かっていたけれど、
思い通りに涙は止まりませんでした。
エルナは、黙って
リサの震える背中を軽く叩きながら
抱き締めました。
一生、お嬢様に従い、愛し
守ってあげなければ。
リサは、再び悲壮な覚悟で
エルナの後を追いました。
無視されていた田舎者の
リサ・ブリールが、
大公妃に仕える席まで
上がることになるなんて。
空を飛んでいるように
喜びながらも、非常に、
責任重大だと思いました。
その後、リサは、
王子がエルナに会いに来ないことを
指摘しました。
ハルディ家に劣らない強敵、
ビョルン王子を思い出すと
リサの目が決然と輝きました。
お嬢様を救ってくれた
白馬に乗った王子様。
その事実だけでも
毒キノコのようだった過去を
全て忘れることにしましたが、
見れば見るほど、
エルナに対する王子の態度が妙でした。
国中を大騒ぎさせながら
結婚を敢行するのを見ると、
すっかり、お嬢様に
はまっているようだけれど
二人の仲は平然としていました。
それに王子は、なかなか
お嬢様に会いに来なかったし
花一輪、手紙一通も、
送って来ることがなく、
絶対に、正常な恋人の姿では
ありませんでした。
リサは、熟考の末、
何かが間違っている。
間違っていたとしても、
非常にしっかり間違っていることは
確かだと結論を下しました。
エルナは、
明日、会いに行く。
宮殿で昼食を共にすることにしたと
何でもないように微笑んで答えました。
半月ぶりに、
ようやく婚約者に会うのが
異常だという考えなど
全くできないような明るい顔でした。
リサは真剣な表情でエルナに向き合い
これではいけないと
警告をするつもりでしたが
いざ幸せそうなエルナを見ると、
その意欲が失せました。
すでに十分綺麗だけれど、
自分が美しく飾ってあげると言うと
リサは、
最善を尽くしてみることにしました。
毒キノコ王子が
しっかり惚れてしまうように、
とても美しく飾るという誓いは
秘密にしておくことにしました。
さりげなくリサを見ていたエルナは、
再び無邪気な笑みを浮かべました。
人の気も知らない、
とてもきれいに笑うお嬢様でした。

この酷い奴という一言を残して
レナードはテーブルの上に倒れました。
そのせいでグラスが倒れてしまい
飲み切れなかったブランデーが
こぼれました。
ビョルンは、
空になったグラスを置いて
にっこり笑いました。
自然に閉じた目が再び開くまで
かなり長い時間がかかりました。
透き通るように澄んでいる
秋の午前の日差しで満たされた
クラブの風景は悲惨でした。
落ち葉のように
床を転がっている空の酒瓶。
その間に散らばっている
意識を完全に失った間抜けども。
笑う者、泣く者、服を脱ぐ者。
多彩な醜態を展示しているような
光景でした。
ビョルンは、この大騒ぎの中で、
孤高に輝いている
鹿の角のトロフィーを
ひったくるように握りしめて
立ち上がりました。
命でも懸けるかのように、
しつこく飲む酒飲みたちを
相手にするために、
ビョルンもやはり、
かなり多くの酒を
飲まなければなりませんでした。
体がよろめくのを見ると、
結局、酔ってしまったようでした。
しばらく立ち止まったまま、
意識を取り戻したビョルンは、
ゆっくりとした足取りで、
クラブを抜け出しました。
よろめく体を支えるために、
何度も壁に手をついて
息を整えなければなりませんでしたが
へべれけらと一緒に転がる惨事は
起きませんでした。
二度の独身パーティーだなんて、
酒に酔って鈍った頭で考えても
可笑しなことでした。
この情けないことをしたのは、
彼に黄金のトロフィーを捧げた
苦い過去を持つ牡鹿たちでした。
今度こそ、
ビョルン・デナイスタの角を
切って捨てると執念を抱いた彼らは、
勝手にトロフィーを作って
独身パーティーを開きました。
ビョルンは、
昨夜、クラブを出ようとした時
それを知りました。
たとえ二回目だとしても、
最初の時のような気持ちで始めろと
何ともお粗末な詭弁に
失笑もしませんでした。
それでも、この狂ったことに
参加することになったのは、
この間抜けたちが、あえて彼の名前で
黄金のトロフィーを
注文したためでした。
どうせ、トロフィー代は
シュベリン宮殿に請求されるので
そのまま行ったら負けだと
戯言を言いながら請求書を振ったのは
最近、ビョルンに狩られた
牡鹿のベリマンでした。
支払人の欄に書かれた名前は、
呆れたことに本当に彼でした。
常連客である名門家の子弟たちを
過度に信じた工房の主人の呑気さと
間抜けたちの復讐心が合わさって
もたらした、粗雑な詐欺劇でした。
彼らが差し出した最初のグラスを
受け入れた時、
ビョルンは適当に飲んで
帰るつもりでした。
あえて自分に
詐欺を働こうとしたことは
腹立たしいけれど、これまで集めた
トロフィーのことを考えれば、
一つくらい、取らずに済ませて
与えてやれないことも
ないからでした。
しかし、
一杯、二杯と飲んでいるうちに
ビョルンは本気になりました。
独身パーティーを
二度も開くのはおかしいけれど、
その狂ったことで敗北するのは
もっとおかしいのではないかと
思ったからでした。
結局、両者とも執念を燃やし
牡鹿の夜は
ヒートアップしていきました。
皆、殺気だって、
執拗に襲いかかってきたため、
朝が明けるまで、
勝負は簡単に終わりませんでした。
レナードが、
もう少し持ちこたえていたら、
勝利を断言できない状況でした。
クラブの建物を出たビョルンは、
目を刺すような日差しと
新鮮な風の中で
長いため息をつきました。
広場の噴水台を見た瞬間は、
思わずクスクス笑いました。
馬車に乗って目を閉じる瞬間まで
その笑いは間欠的に続きました。
もし、あの日の夜明けに、
エルナが噴水台の前に現れなかったら
多くのことが変わったかもしれないと
ビョルンは目を閉じて考えました。
そして再び目を覚ますと、
馬車は大公邸の玄関前に
止まっていました。
馬車から降りるや否や
近づいて来たフィツ夫人は
「何とまあ。やっと、
こんな姿で戻って来られるなんて」と
怒った顔で叫びました。
ビョルンは、
うわの空で笑って見せた後、
よろめきながら、
玄関に続く階段を上りました。
そして、
思いがけない言葉を聞いたのは
邸宅のロビーに入った瞬間でした。
追いかけて来たフィツ夫人は、
ハルディさんが待っていると
声を張り上げて叫びました。
ビョルンは眉を顰めながら、
エルナが、どうしてと
聞き返すと、フィツ夫人は、
今日、婚約者と昼食を共にすることを
約束していたからだと
呆れたように、ため息をつきながら
額を押さえました。
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あれだけエルナに
酷い仕打ちをしたのだから、
まともな神経をしていれば
ウォルターもブレンダも
エルナの前に顔を出すことすら
恥ずかしくてできないはず。
それなのに、
エルナが大公妃になると分かった途端
甘い汁を吸おうと思って
恥も外聞を捨ててやって来たブレンダ。
おまけにウォルターと一緒に
バージンロードを歩けだなんて
よくも、そんなことが言えるものだと
呆れてしまいます。
似たもの夫婦のウォルターとブレンダ。
この二人の息子は、
一度も登場していませんが、
きっと二人に似て、
ハインツ家の次男みたいに
ろくでもない奴だと思いました。
たった二ヶ月で
結婚させることにしたのは
そうすることで、
エルナとビョルンの酷い噂の
一部くらいは、
収めることができるという
王と王妃の狙いがあったのではないかと
思いました。
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