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45話 いよいよ結婚式は明日です。
祈祷書を閉じたバーデン男爵夫人が
ベッドに入ろうとしていたところへ
枕を抱えたエルナがやって来て、
今夜はここで寝ると言いました。
かつてなかった甘える孫娘を
じっと見つめていた
バーデン男爵夫人は
勝てないふりをして頷きました。
エルナは満面の笑みを浮かべて
駆けつけると、
彼女の隣に横たわりました。
孫娘の顔をそっと撫でる
バーデン男爵夫人の手は、
いつにも増して切なく、
親しみのこもったものでした。
今日がエルナと一緒に過ごす
最後の夜でした。
エルナが父親の元へ発つ時に
バーデン男爵夫人は、
未練を捨てたと思いましたが、
いざ結婚式が目の前に近づくと
あの時とは比べものにならないくらい
虚しさと寂しさを感じました。
明日になれば、
大公妃になるけれど、
感想はどう?
と尋ねるバーデン男爵夫人の口元に
柔らかい笑みが浮かびました。
今日の午後、
エルナの荷物を積んだ馬車が
シュベリン宮殿に向かいました。
明日からは、
もう、そこがエルナの家。
新しい家族と新しい生活を始める
基盤になるはずでした。
布団の中でぴったりとくっ付いて
祖母の手をいじっていたエルナは
実は、とても変な気分だと
静かに囁きました。
バーデン男爵夫人は心配そうに
孫娘の顔色を見ると、
怖いのかと尋ねました。
エルナは「少し」と
結婚準備が始まって以来、
初めて本音を吐きました。
実はエルナは、
信じられないプロポーズを受けた日から
今この瞬間まで、
毎日、恐怖を感じていました。
自分が結婚することになったことと
その相手が、ビョルン王子であることと
その縁談によって起こる
すべてのことについて
エルナは途方に暮れてしまい
恐怖を感じていました。
エルナは、
なぜ、王子様は
自分にプロポーズしたのだろうかと
尋ねました。
バーデン男爵夫人は
それは当然、
エルナを愛しているからではないか。
大公は隠れた宝石を探し出す目を
持っていたのだろうと答えました。
誇りに満ちた笑みを浮かべている
祖母を見ていたエルナは
つい笑ってしまいました。
二人の結婚が決まった後、
王室の問題児である王子を
非難してきた過去を
すっかり忘れたかのように、
ビョルン王子に対する祖母の見解は
180度変わりました。
彼は自分を愛していないと
喉元まで上がって来た言葉を
エルナは飲み込みました。
この世には、真実より価値のある
偽りもあるものだからでした。
エルナの大きな瞳を、
しばらく眺めていたバーデン男爵夫人は
手で孫娘の頬を包み込みながら、
実はエルナがアネットの運命に
似てしまうのではないかと怖かった。
浮気をして離婚し、
自分の子供まで見捨てた男だなんて
ウォルター・ハルディと
鳥肌が立つほど同じで、ぞっとした。
よりによって、そんな者に
心を奪われたエルナを
どうすればいいのか分からなくて
気を揉み、むやみに
ここまで来てしまった。
しかし、少なくとも、
もう、そんな心配はしない。
ビョルン王子は、
噂のような悪人とは別人だからと
言うと、赤くなった目で微笑みました。
彼女は、
街の人々による醜聞が、
いかに馬鹿げていて悪質であるかを、
今では、よく知っていました。
気苦労をしているエルナを見て
その事実を身に染みて学びました。
そのため、バーデン男爵夫人は
とんでもない噂より、
自分の経験と判断を
信じてみるつもりでした。
決してエルナは、
この都市の人々が、むやみに騒ぐような
子供ではないように
王子もそうかもしれない。
この数ヵ月間、見守った
ビョルン・デナイスタは、
少なくとも、その程度は
信頼できる男でした。
バーデン男爵夫人は
エルナの髪を優しく撫でながら、
恐れることはない。
きっとうまくやれる。
それ以上でも、それ以下でもなく
ありのままのエルナを見せればいい。
それで十分だと助言しました。
エルナは、
本当にそうだろうかと尋ねました。
バーデン男爵夫人は
もちろん、そうだと答えました。
全く客観的でない評価だということを
知っているけれど、エルナは
頷きながら微笑みました。
送り出してくれる祖母の心に
心配が残らないように、
気楽に離れたいと思いました。
バーデン男爵夫人は
エルナの額にキスをしながら
アネットの分まで幸せになってと
涙声で囁きました。
エルナは、
「はい、そうする」と
確信に満ちた返事をしながら
笑いました。
この世で一番幸せな花嫁のように
「必ずそうする」と
何度も明るく返事を繰り返しました。
眠れそうにない夜でしたが、
エルナは祖母の胸の中で
目を閉じました。
乾いた花びらの香りが漂う
祖母の匂いと心臓の鼓動と息遣い。
シワの寄った肌のぬくもり。
忘れたくない、その感覚を
記憶の中に刻み込んでいる間に
夜が更けて行きました。
夜が明ける頃になって、
ようやく、うとうとしたエルナは
自分の名前を呼ぶ祖母の優しい声で
目を覚ましました。
祖母は、
幸せな花嫁になる時間だと告げました。
眩しいほど晴れた秋の朝でした。

ウォルター・ハルディは、
大公妃の父親である自分を
こんなふうに扱うなんて、
怪しからん奴だと言うと、
歯ぎしりしながら、
包帯を巻いた足を見下ろしました。
気持ちとしては、
すぐに、この厄介なものを
外したいけれど、
すでに約束してしまったので
どうしようもありませんでした。
ブレンダ・ハルディは、
今日一日だけなので
少しだけ我慢してと宥めると、
何ともない両足で立ち上がった夫に
松葉杖を差し出しました。
屈辱感に震えながらも、ウォルターは
素直に、それを受け取りました。
二日前の夕方、突然、ビョルン王子が
ハルディ家にやって来ました。
今からでも、
大公妃の親としての扱いを
受けるようになったと思って
ウォルターは喜んでいましたが、
王子は、
とても正気では言えないような言葉で
家の中をひっくり返しました。
ハルディさんは、自分の手を取って
バージンロードを歩きます。
それは一歩的な通知。
いや命令でした。
当惑したハルディ子爵は、
伝統と格式など、
一国の王子が当然守るべき
多くの徳目を力説してみましたが
彼は、眉一つ動かしませんでした。
まるで巨大な壁にでも
向き合っているような気分でした。
窮地に追い込まれたウォルターは
父親が健在なのに、
そんな破格な結婚式を挙げれば
世間の人々は何て言うだろうかと
賢明に抗弁しました。
娘が大公妃の座に就く栄光の日に、
そんな恥をかかせられるなんて
とんでもないことでした。
しかし、王子はさりげなく、
それなら理由を一つ作るのも
悪くないと、戯言を吐きました。
まさか酒でも飲んで
酔っぱらっているのか。
呆然としたウォルターが
目をパチパチさせている間に、
ビョルンは、
ゆっくり席を立ちました。
そして、体調が悪いなど、
そんな適当な理由のことだと
説明すると、
片手に握っていた手袋を
ゆっくりとはめて
ハルディ子爵の足を見下ろしました。
その平然とした顔は、
さらにウォルター・ハルディを
辱めました。
喉元まで上がって来た罵声を
飲み込むために、
ウォルターは何度も深呼吸を
繰り返さなければなりませんでした。
応接室を離れる王子の後ろ姿を
見つめながら、ウォルターは、
一体なぜ、あえて、
このようなことまでしようと
するのかと、震える声で尋ねました。
もしも、エルナが
王子にすべてを話していたら。
突然、訪れた恐怖に、
ウォルターは、
目の前が暗くなりました。
父親が娘を躾けたことに
他人が干渉するのは、
明らかに越権行為だけれど、
相手は、他ならぬ
ビョルン・デナイスタでした。
しばらく考え込んでいたビョルンは、
「それはまあ、私の妻だから」と
相手の戦意を削ぐ返事をしながら
微笑みました。
深く考え込み、震えていた
ウォルター・ハルディは
一瞬、緊張が解けてふらつきました。
奇襲するが如く押しかけて来て、
無頼漢のような振る舞いをした王子は
完璧な紳士らしい礼儀を備えた
黙礼を残して、
ハルディ家を去りました。
あらゆる悪口を浴びせながら
ウォルターは激怒しましたが、
結局、何ともない自分の右足に
包帯を巻くしかありませんでした。
最低限の体面を保つ道は
それしか、ありませんでした。
やはり並大抵の狂人ではなかった。
ウォルターは、
松葉杖をついて歩く度に、
あの忌まわしい王子を呪いましたが
あんな狂人のおかげで、
ハルディ家が王室の姻戚になる
栄光を享受できるという事実は
否定できませんでした。

シュベリン宮殿へ続く道は、
王子の結婚式を見物するために
集まった人々で、
ごった返していました。
多くの非難と聞き苦しい言葉を
浴びせながらも、
瞬く間に見物人たちは、輝く目で
王子妃を乗せた馬車が現れる
道路の向こうを見つめました。
そして、四頭の白馬が引く
豪華な馬車が姿を現すと、
群衆が騒ぎ始めました。
礼装の王室近衛隊が率いる
花嫁の行列は、華麗でありながらも
威厳がありました。
ラルスの王女を
王太子妃として迎えた時の
盛大な結婚式とは
比べものになりませんでしたが
決して格が落ちたわけでは
ありませんでした。
拙速に準備した粗末な結婚式を
思う存分笑う準備をしていた彼らには
かなりの衝撃を与える光景でした。
たかがあんな女を
お姫様のように奉っている。
花嫁を乗せた馬車が近づくと、
非難の声がさらに高まりました。
何があろうと、
この国の第一王子妃だから
軽んじることはできないだろう。
王室の体面というものがあるから。
でも、一体、何であんな女が
グレディス王女の代わりになったのか
理解できない。
格が、あまりにも違い過ぎる。
棘のある群衆の視線が、
馬車の窓越しに見える
花嫁の横顔に刺さりました。
ビョルン王子の二番目の花嫁は、
彼女を待っていた人々を
一度も見ようとしませんでした。
前だけを見つめている姿が
道理にかなっていると
言えるだろうか。
いつも優しくて親しみのある態度を
見せてくれたグレディス姫とは
全く違う姿だ。
没落しかけた貴族の娘の鼻は、
ラルスの王女より高い。
その噂が町中に広まった頃、
王子妃を乗せた馬車は
大公の橋を通り過ぎました。
宮殿に近づくにつれ、
ベールの下に隠されたエルナの顔は
さらに青ざめていきました。
夏中、
この日のための準備をしましたが
ウエディングドレスを着て
王室の馬車に乗った瞬間、頭の中が
真っ白になってしまいました。
エルナは、
シュベリン行きの列車に乗った
あの春の日から、
今この瞬間までの全てのことが
とても長くて
不思議な夢ではないかという
気がしました。
エルナは凍りついた手を
じっと見てから目を閉じました。
たぶん、現実のエルナ・ハルディは
まだ眠っているかもしれないと
滑稽なことを考えました。
居心地の良いベッドの上で
目を覚ませば、
田舎の家の平穏な一日が始まる。
寝室いっぱいに差し込む朝の光。
窓から見える果樹園や畑。
風に乗って運ばれる
花の香りと鳥たちの歌声。
いつの間にかエルナの想像は、
現実のように鮮やかになりました。
目を開ければ、バフォードの風景が
広がって見えるようになった瞬間
徐々にスピードを落とした馬車が
止まりました。
「大公妃殿下」
まだ聞き慣れない呼称が
エルナの意識を覚醒させました。
彼女は諦めて目を開けました。
首を回すと、
シュベリン宮殿の敷地内にある
王室の礼拝堂が見えました。
結婚式が行われる場所でした。
エルナは乱れた息を整えて
馬車から降りました。
見知らぬ人々の手に
導かれているうちに、
いつの間にか礼拝堂の前にいました。
ブルブル震えるブーケを
見下ろしていたエルナは、
泣きそうな目を上げて
閉じている礼拝堂の扉を見ました。
幸せになれるだろうか。
祖母と交わした約束が思い浮かぶと
心臓が爆発しそうに
ドキドキしました。
幸せになると豪語しましたが、
実は自信がありませんでした。
この扉が開かれれば、
見知らぬ世界が広がっていて、
エルナは恐ろしいばかりでした。
今からでも、引き返さなければ
ならないのではないか。
辛うじて体を支えている両足が
危うくガクガクし始めました。
怖くなって、
後ろを振り返るエルナの上に、
黒い影が落ちました。
「エルナ」と呼ぶ声に反応して
頭を上げるとビョルンが見えました。
あの扉の向こうの世界が
いつの間にか、
エルナのそばに近づいていました。
彼女を見つめていたビョルンは、
「息」と笑いながら囁きました。
息という言葉を、
あえて繰り返していたエルナは
妙な既視感に目を細めました。
「息をして」と、笑い声で、
もう一度囁いたビョルンが
エルナの手を握りました。
ただ、それだけでしたが、
エルナは、今、自分たちが、
同じ記憶を辿っていることを
感じることができました。
滅茶苦茶だった
デビュタントの夜のことを思い出すと
虚しい笑いが出ました。
あんな風に初めて出会った相手と
結婚することになるなんて、
夢のようでしたが、
エルナは、もはや妄想の中へ
逃避しませんでした。
エルナは、あの日のように頷きながら
ゆっくりと息を整えて
ビョルンが差し出した手を
握りました。
落ち着きを取り戻したエルナは
ビョルンにお礼を言いました。
ビョルンは、
自分の手の中に入った
エルナの手をしっかり握って、
頭を下げました。
エルナは、
自分の願いを聞いてくれたから
こうして、王子様と一緒に
新たな出発ができると言うと
ぎこちない笑みを浮かべて
彼の手をしっかり握りました。
ビョルンが分けてくれた
温かさのおかげで、
氷のように冷たい手は、
本来の温かさを取り戻しました。
大したことではないと
軽く笑うビョルンを見たエルナは
最善を尽くすと衝動的に誓いました。
ビョルンは目を細めて
彼女を見下ろしました。
エルナが、
良い妻になれるように最善を尽くすと
もう一度固い約束をした瞬間、
礼拝堂の扉が開かれました。
ビョルンは低く笑うことで
代わりに返事をすると、
色ガラスの窓を通り抜けた美しい光が
祝福のように注がれる
開かれた扉の向こうの世界へ
花嫁を導きました。
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父親に捨てられ、
早くに母親を亡くし、
親代わりになって育てて来た
愛しい孫娘を嫁に出す
バーデン男爵の嬉しさと
安堵の気持ちと、寂しさと
切なさを、ひしひしと感じました。
バーデン男爵夫人は、
夫が亡くなって以来、
自分が死んだ後のエルナの行く末を
ずっと案じていたでしょうから、
寂しさよりは、喜びの方が
勝っていると思いますが、
結婚式当日の
エルナを非難する言葉を
耳にしているでしょうから
より不安と心配を
募らせているのではないかと
思います。
エルナとビョルンの結婚を
祝ってくれているのは
バーデン男爵夫人とグレベ夫人。
そして、王と王妃とリサと
フィツ夫人。
王の姻戚になるので、
一応、ハルディ子爵夫妻も。
レオニードは微妙なところ?
結婚式という晴れ舞台に
お祝いしてくれる人が
10人にも満たず、
この結婚を呪う人が大勢いる状況に
ぞっとしました。
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