56話 エトマン博士は老婦人の診察に訪れています。
今日も大変、世話になったと言うと
カタリナ・フォン・ヘルハルトは
いつものように慈しみ深い目で
診療カバンを片付けている
エトマン博士を見ました。
エトマン博士も、
温厚な笑みを浮かべながら、
大きな問題がなくて幸いだと
返事をしましたが、老婦人は、
自分が、いつ問題が起きても、
おかしくない年齢ではあると
言いました。
エトマン博士は、
そう言われると自分は寂しいと言って
ゆっくり立ち上がりました。
老婦人は軽い風邪でしたが、
彼女の年齢を考えると、
軽く見てはいけませんでした。
老婦人は、軽い微笑みを浮かべながら
この年寄りが長生きできるのは
すべてエトマン博士のおかげだと言うと
彼の横に立っている嫁に向かって
同意を求めました。
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
喜んで同意すると、
エトマン博士を労いました。
彼が別れの挨拶をして帰ろうとすると
エリーゼは、
カイルは元気かと尋ねました。
彼女の質問に、
落ち着いていたエトマン博士の目が
揺れましたが、彼は
すぐに平静を取り戻した顔で微笑むと
幸いにも、学業に熱中しているそうだと
答えました。
エリーゼは、
エトマン博士によく似ている子なので、
きっと立派な医者になるだろうと
言いました。
彼は、そう思ってもらえて光栄だと
返事をしました。
エリーゼは、
冬休みになったら、
カルスバルに戻って来るでしょうねと
確認しました。
エトマン博士は、
まだ明確な計画は立てていないようだと
返事をしました。
エリーゼは、
初めての休みなので、
首都に留まって社交生活を楽しむか、
それとも、暖かい南の方へ
見聞を深める旅に出てもいいと
言いました。
エトマン博士は、
いずれにしても、カイルの意向を
尊重しようと思うと返事をしました。
エリーゼは、
計画が決まったら教えて欲しい。
いい社交クラブを紹介するし
旅行に行くことになったら、
それにふさわしい手伝いをすると
提案しました。
彼女が見せた意外な配慮と親切に、
エトマン博士は、
やや驚いた表情でした。
主治医を寝室のドアの前まで見送った
エリーゼは
エトマン夫人にもよろしくと
挨拶を付け加えました。
絶縁した人について
言及しているとは思えないほど
優しい口調でした。
エトマン博士は
穏やかな笑みを浮かべてから
立ち去りました。
その後、使用人たちも退くと
寝室には、
公爵家の二人の女主人だけが
残されました。
老婦人は、
エリーゼが、かなりカイルのことを
気遣ってくれていると言って
微笑みました。
エリーゼは、
考えてみると、
お母様の言うことが正しいようだ。
カイルが良い医者になれば、
マティアスにとって有益なこと。
エトマン夫人とは絶縁したけれど
主治医としてのエトマン家は
尊重しようと思うと返事をしました。
老婦人は、
エリーゼが同意してくれたことを
喜びました。
異変がない限り、カイル・エトマンも
公爵家の主治医になるはずでした。
その後、エリーゼは、
この家門の生きる名誉で、
誇らしい後継者マティアスが
村の学校の評議員会議に出席したこと。
そして、そんなに細かいところにまで
気を遣えることに感心したと
嬉しそうに話しました。
老婦人は、マティアスが、
自分たちの予想よりずっと早く
家門の主人になることを
学んでいるようだと敬服し、
エリーゼも、
あの子は最も完璧な
ヘルハルト公爵になるだろうと
喜んで同意しました。
特別なスケジュールがなく
暇な日だったので、マティアスは、
一緒に社交クラブに行こうという
リエットの誘いを受け入れました。
適当に楽しく、
また適当に退屈な時間を過ごして
帰って来る途中、角を曲がった車が
邸宅につながる道に入ったその瞬間、
偶然にもレイラがいました。
かなり離れていましたが、
他の誰でもないレイラでした。
彼が買ってあげた
白いコートを着たレイラが、
晩秋のプラタナスの道を
自転車で走っていました。
自転車に乗った女性との距離が
ますます縮まると、
リエットも彼女に気づき、
あれは、
レイラ・ルウェリンではないか。
アルビスの狩場に住む
鳥を愛するお嬢さんだと
指摘しました。
しかし、そのふざけた口調とは裏腹に
リエットは真剣は目で、
ヘルハルト公爵を見つめました。
マティアスは、
顎を振って返事をすると、
車窓の外に見えるレイラの後ろ姿を
じっと見つめました。
仕事帰りなのか
少し疲れた様子でしたが、
元気よく自転車のペダルを踏む勢いは
相変わらずでした。
車が付いてくるのに気づいたレイラは
道の端に自転車を避けました。
その頃、
マティアスとリエットを乗せた車が
レイラの横を通り過ぎました。
近くで見ると、靴も
マティアスが買ってあげたものでした。
リエットは、
まだマティアスを見つめて、
ニコニコしながら、
彼女は村の学校の教師だと
言っていたよね?
仕事帰りなのかな?と尋ねました。
マティアスは、たぶんと返事をすると
レイラから目を逸らしました。
しかし、誰かが見れば、
まるで初恋でもしているかのように
彼の口元には、依然として
柔らかい笑みが浮かんでいました。
まさか、そんなはずがない。
リエットは、従弟の顔から
しばらく目を離すことが
できませんでした。
その視線を感じたのか、マティアスは
突然、リエットの方を向いて
何か言いたいことでもあるのかと
尋ねました。
リエットは、
いけずうずうしく笑うことで
微かな当惑感を拭いました。
そして、
狩りに付き合ってほしいという
適当な言い訳も、
すぐに思いつくことができました。
リエットが、週末、
アルビスの森に狩りに出るという計画を
明らかにすると、あちこちから
招待して欲しいという要請が
殺到しました。
マティアスも、
リエットの判断に委ねました。
リエットは、
せっかく、客まで招待したのに、
アルビスの主人も一緒でなければ
全く変だ。
マティアスの領地で、
自分が主人になるわけにはいかないと
言うと、
しばらく考え込んでいたマティアスは
快諾しました。
週末の森には、
レイラがいるはずだからでした。
リエットは、
ようやく自分の知っているマティアスと
向かい合っているかのように笑いながら
いつの間にか玄関前に到着した車から
降りました。
リエットは、
それでこそヘルハルト公爵だと言うと
マティアスの肩に腕を回しました。
彼はリエットを止めませんでした。
二人は邸宅のロビーに向かって
足を踏み出しました。
フィービーは賢い山鳩でした。
週末の朝、
食事の準備をするレイラの代わりに
フィービーの餌を用意した
ビルおじさんは、鳥かごの鍵を、
きちんと閉めないミスを犯しました。
フィービーは、お腹いっぱい、
餌を食べることが大事だったので。
最初、それを知りませんでした。
レイラとビルが
裏庭に散らばった落ち葉を片付けながら
和やかに話を交わしていた時、
フィービーは、
何だか、いつもと違う鳥かごの形に
気づきました。
ビルおじさんは、
今日、公爵が
友達と狩りに出かけるそうだから
森へは行くなと警告しました。
熊手で落ち葉を集めていたレイラは
その言葉に、ため息をつくと、
しばらく静かだったけれど、
公爵が
趣味を変えたのではなかったんだと
ぼやきました。
ビルおじさんは、
名射手が、
その実力を腐らせてもいいのかと
聞きました。
レイラは、
おじさんは公爵の味方だと思うと
答えました。
ビルおじさんは、
それが、そうと言うより・・
誰の味方が、どこにいるって?
まあ、そんなものだと
慌てて言い返すと、
レイラはにっこり笑い、
アルビスの人たちは皆、
公爵のことが好きみたいだと
言いました。
ビルおじさんは、
嫌う理由がなければね。
あれほどの貴族もいない。
あの生意気な貴族のお嬢さんは
花婿候補一人をきちんと捕まえたと
返事をしました。
レイラは「・・・はい」と
返事をすると、明るい笑顔で
熊手を振りました。
その時まで、フィービーは
おとなしく鳥かごの中に
留まっていました。
遠くから鳥かごを見たレイラが
全く変な気配を感じなかったのも
無理はありませんでした。
ビルが仕事場に出て、
レイラが家の中の掃除を始めた頃、
風が吹き、きちんと閉まっていない
鳥かごの木のドアがきしみました。
その音に近づいたフィービーは、
嘴で揺れるドアを突いてみました。
ドアが動くということを知った
フィービーは、
さらに猛烈な勢いでドアを突き、
まもなく鳥かごのドアが
大きく開きました。
ぼやっとしながら、
開いたドアの向こうを見ていた
フィービーは、
公爵の手紙一通を運んで来た罪で
監禁された無念な境遇から
脱出する機会が来たということに
すぐに気づきました。
フィービーは
真っ白な羽を思い切り広げ、
庭をぐるぐる旋回した後、
森に向かって飛んで行きました。
間もなく、狩りに出た公爵一行が
小屋の前を通りました。
しばらく雑巾がけを止めたレイラは
窓の間からこっそり顔を出し、
音が聞こえて来た方向を見ました。
猟犬たちが先頭に立ち、
馬に乗った貴族たちが後を追う
見慣れた光景が
繰り広げられていました。
しかし、不気味に輝く猟銃だけは、
依然として慣れなくて恐ろしく、
レイラは思わず肩をすくめました。
公爵が、小屋の窓の方に
顔を向けたのはその時でした。
公爵と目が合うと、
レイラは驚いて後ずさりしました。
恐怖も学習するもなのか、
レイラは、ただ彼を見ただけなのに
心が不安になりました。
そわそわして、
その場をうろうろしていたレイラは
窓を閉めた後、厚いカーテンまで
しっかりと閉めました。
彼らの気配が遠くなった後も、
心臓の鼓動は、
なかなか正常の範囲内に
戻りませんでした。
初めてでもないのに、
どうして子供の頃よりも、さらに
臆病者になってしまったのか。
レイラが冷たくて硬くなった手を
揉んでいる間に、
最初の一発の銃声が鳴り響き、
続けて猟犬たちが吠え始めました。
たぶん、あの男だろう。
何気なく鳥を撃って死なせていた公爵と
銃弾を浴びて血まみれになった
小さくて冷たい体。
そして、その血の生臭さが
生々しく蘇りました。
いっそのこと、狩りが終わるまで
この森を離れていようと
決心をしたレイラは、
急いでカバンを持って家を出ました。
裏庭に行って鳥かごを確認したのは
習慣だからでした。
フィービーは、きっと
そこにいるはずだけれど、
ひょっとしてという老婆心でした。
ドアが開けっ放しの
がらんとした鳥かごの前に立った
レイラの顔は
恐怖で真っ白になりました。
かばんの紐を握った手が
ブルブル震え始める頃、
森では、再び銃声が鳴り響きました。
最初にマティアスが、
茂みの間を疾走していた
ノロジカの息の根を
一気に止めました。
マティアスに拍手を送ったリエットは
やっと走り回る獲物にも
興味を持つようになったのかと
楽しそうに尋ねました。
その一方で、それは少し残念だ。
飛ぶ鳥を命中させる
ヘルハルト公爵の射撃の実力を
鑑賞したいと
ぶつぶつ言っている間に猟犬たちは
灰色の毛のウサギを
追いかけて来ました。
今度はリエットが銃を構えました。
森の奥深くに移動するにつれ
狩りは熱気を増して行きました。
数羽の鳥も、
捕獲した獲物に加わりましたが
マティアスが撃った鳥は
まだいませんでした。
鳥でなければ、できることではないか。
この狩場の主人である自分が
一体なぜ、このように
考えなければならないのか
理解できませんでしたが、
マティアスは、
それなりの妥協点を見出しました。
多少つまらない狩りになっても、
あの女が泣く姿は
見たくありませんでした。
一行は、川につながる道に入りました。
水辺に住む鳥が多くて、
マティアスが一番楽しい狩りを
楽しんでいた道でした。
何気なく目を向けた、
その道の真ん中にある木の枝の上に、
マティアスは見慣れた鳥を見ました。
真っ白な羽を持つ山鳩の片足には
赤い糸が結ばれていました。
「フィービー」と反射的に囁くと、
彼の後を追っていた者たちも、
まさに、その鳥が座っている
木の枝に向かって頭を上げました。
リンダがとんでもないことを
仕出かしても、カテリーナは、
その夫や息子を
色眼鏡で見ることはなく、
その人となりを、きちんと見極め、
自分の家門にとって得になることを
選べる人格者だと、改めて感じました。
マティアスが
評議員会議に出席したことを
喜んでいる老婦人とエリーゼ。
けれども、マティアスが
仕事のためではなくレイラに会うために
評議会会議に出席したと知ったら
度肝を抜くのではないかと思います。
老婦人とエリーゼが知らないところで
すでに異変は起きつつあります。
レイラは、
マティアスが買ってくれた物を
今回は、きちんと着たのですね。
もし、着なかったら、
また何をされるか分からないと思うと
怖くて、着ないわけには
いかなかったのだと思います。
でも、その姿を見て、
まるで初恋をしているかのように
微笑むマティアス。
レイラに買ってあげた服を着てもらって
本当に嬉しかったのでしょうね。
また、マティアスが
レイラが泣く姿を見たくなくて
狩りを控えていたことと、
今回はリエットに誘われたので、
狩りに出たけれど
鳥を撃たなければいいと
妥協していたことに驚きでした。
一度、
レイラの心からの笑顔を見てしまったら
彼女の泣き顔よりも笑顔が見たいと
思うようになるのは当然。
マティアスは、レイラが泣かない方法を
少しずつ、
考えられるようになってきたのだと
思います。