59話 レイラはマティアスの乗った車にはねられました。
マティアスは、
クロディーヌをエスコートして
二人の女主人が待っている応接室に
向かいました。リエットも一緒でした。
もしかしてクロディーヌは
勘違いをしたのではないか。
あの事故を、まるで、
なかったこととして片付けている
マティアスを見る、リエットの頭の中は
ますます複雑になって行きました。
もしも、クロディーヌの言うように
彼女に夢中になっているのなら、
こんなことは、あり得ませんでした。
そのため、リエットは
この辺で覆い隠すのが、
一番賢明なことだということを
知りながらも、
あえてマティアスの前で、
その名前を口にしました。
クロディーヌを迎えるために
少し早く始まった晩餐会が終わると
二人の女主人とクロディーヌは
応接室でお茶を飲み、
リエットはマティアスと一緒に
書斎に上がって来ていて、
当然、彼は
マティアスの向かいの席に座りました。
リエットは、
偶然、会ったので
仲良くなろうと思ったけれど、
とても怖がったと言って、
マティアスをチラッと見た後、
にっこり笑って、
あの女のことだ、レイラだと
付け加えました。
その柔らかな響きの名前が、
リエットには、
ザラザラする砂のように
感じられました。
最初から、あんなにひどく
追い詰めようとするつもりはなく、
あの哀れな女性に、感情の残りかすを
ぶちまけたようなものでした。
マティアスは、ようやく、
そのことを思い出した人のように
「ああ」と短くため息をつくと、
じっと、リエットを見つめ、
驚いたことに、
クスクス笑い出しました。
無理に繕っているにしては、
あまりにも快活で、
ある程度、無邪気にさえ感じられる
笑いでした。
マティアスは、満面の笑みを浮かべて
リエット・フォン・リンドマンも
女性に断られる時があるみたいだ。
いいざまだと言うと、
銀製の箱からタバコを取り出し
火を点けました。
そして、リエットにも
顎の動きでタバコを勧めました。
リエットがたばこを吸っている間、
マティアスは、椅子の背もたれに
ゆったりと、もたれかかりました。
しきりにニコニコしながら
タバコを吸う彼を
じっと見ていたリエットも、
思わず虚しく笑ってしまいました。
たかがこの程度の扱いだなんて。
もう、そろそろ、
レイラ・ルウェルリンのことが
心から、
気の毒になろうとしていました。
リラックスしたリエットは、
「ちょっと、みっともないね」と言うと
椅子にもたれかかりました。
クロディーヌと自分が
バカになった気分でした。
夏のある午後、
ぼんやりと窓の外を眺めていた
クロディーヌは、
あの子は、まるで
ヘルハルト公爵の寝室に住んでいる
カナリアみたいではないかと、
笑いながら尋ねました。
彼女は、
庭の仕事から帰るところの
レイラ・ルウェリンの後ろ姿を
見ていました。
軽快な足取りに沿って揺れる
豊かな金髪が、
まるで、あの小さな鳥の
羽ばたきのように見えたりもしました。
リエットは、
まさかマティアスが、
いきなりカナリアを育て始めたのは
あの子のせいだと言いたいのかと
信じられずに聞き返した言葉に
クロディーヌは、静かに微笑みました。
肯定の意味でした。
誰よりも理性的なクロディーヌが
いたずらに、
そんな誤解をするはずはないと思い
リエットは、注意深く見守りました。
動く標的以上に考えたことのない鳥を
大事に育てるマティアスの態度が
多分に
疑わしいこともあったからでした。
そう思って見たせいか、
まさにそう見えました。
レイラ・ルウェリンと
カイル・エトマンを引き離すために
計略まで弄したという話を聞いた時は
確信しました。
クロディーヌが見間違えたり、
誤解をするはずがないと
信じていたからでした。
しかし、それなら、こんなことは
ありえないのではないか?
リエットは、
考えるほど複雑になる疑問の中で
道に迷ったような気分でした。
鳥のように、
非常に愛して大事にしている女に
自分の従兄が近づいたことを知り、
そのせいで事故が起きて
女が怪我をしたのに、
このように無心で平然とした男が
この世に存在することが
できるのだろうか。
クロディーヌが勘違いしたのでなければ
もしかしたら、
すでに終わった関係なのだろうか。
しかし、それならば、
まだこの寝室に住んでいるカナリアは
どう説明すればいいのだろうか。
考え事をしていたリエットを、
マティアスが
淡々とした口調で呼びました。
深まる疑問に、
眉を顰めていたリエットは、
急いで表情を変えて
従弟に向き合いました。
マティアスは、
じっと彼を見つめながら、
リンドマン卿の醜聞は
リンドマン卿の領地で作るのはどうか。
自分はアルビスの秩序を守るためなら
何でもするんだと言って微笑みました。
そして、
半分も減っていないタバコを捨てて
新しいタバコを吸っている間も、
マティアスはリエットから
視線を逸らしませんでした。
嫉妬や怒りのようなものが
込められた目ではなく、
空っぽのように澄んだ瞳は、
まるで無邪気な子供の目のようにさえ
見えました。
「あなたの従弟は紳士的な悪鬼だった」
戦場で見た
マティアス・フォン・ヘルハルトを
説明しながら身震いした、
その将校の言葉が、
ふと、リエットの脳裏をかすめました。
リエットは自然と乾いた唾を飲み込み
タバコを持つ手がビクッと震えました。
そして、マティアスは、
誰よりも、君が
よく知っている事実ではないかと
低い声で付け加えると、
リエットから視線を逸らしました。
ゆっくりとタバコを吸う彼の横顔から
リエットが見つけられるのは
せいぜい若干の疲労感が全てでした。
よく分からない。
結局、再びその虚しい結論しか
下すことができなくなったリエットは
ため息をつきました。
疑問を解決するためには、
おそらく、もう少し大きな刺激が
必要なようでした。
しかし、その答えが、
果たしてクロディーヌにとって
有益なのだろうか。
リエットは
新たな疑問について考えながら、
もう一度乾いた唾を飲み込みました。
フィービーが窓ガラスを突く音が
暗い部屋の中を揺らしました。
普段なら、素早く駆けつけて
窓を開けたはずのレイラは、
ベッドにうずくまって横になったまま
ただぼんやりと
虚空だけを眺めていました。
ゆっくりと瞬きをしていましたが、
何も目に入っていませんでした。
そうして数分が経ってから、
レイラは意識を取り戻しました。
しかし、体を起こすまでに、
少なからぬ時間がかかりました。
傷を負ったり、
折れたところはなかったけれど、
走って来る車に強くぶつかった
左の背中と肩が折れそうなくらい
痛みがありました。
いっそのこと眠りたかったけれど
時間が経つにつれて強くなる痛みのため
それさえも、
容易ではありませんでした。
レイラは右手だけで
ゆっくりと窓を開けました。
フィービーの足首には
手紙が結ばれていました。
きっとヘルハルト公爵が
送って来た手紙でした。
レイラは、
フィービーの柔らかい羽を
ゆっくりと撫でた後、
手紙を外しました。
今日も公爵に、
腹一杯食べさせてもらったのか、
フィービーは、
すぐに裏庭の鳥かごに戻りました。
窓を閉めたレイラは
再びベッドに戻ると、
その端にそっと腰を下ろしました。
どのように事故が起き、
また、どのように
小屋まで戻って来たのか
よく思い出せませんでした。
リンドマン侯爵から
逃れなければならないという考えだけで
逃げて、強い光に向き合い、
遥かな痛みが全身を揺さぶりました。
レイラは、深呼吸をしながら
目を閉じました。
確かにとても痛かったけれど、
ヘルハルト公爵と
クロディーヌを乗せた車と
ぶつかったことを知った瞬間、
痛みを忘れました。
早く逃げたいという、
あまりにもつらくて惨めな思い以外
何も思いつきませんでした。
赤くなった目元を強く擦ったレイラは
枕元に無造作に脱いでおいた
眼鏡をかけました。
レイラは、しばらく躊躇った後、
手紙を開きました。
そこには、
「ハンカチを
持って来なければならない。
君が来ないなら
私が行ってあげることもできる」と
あの男らしい残酷な命令が
書かれていました。
レイラは、
片手でくしゃくしゃになった手紙を
ベッドの下に落としました。
うずくまってベッドに横になると、
熱い失笑が
涙のように流れ出ました。
再び外した眼鏡を
無造作に投げたレイラは、
枕に深く顔を埋めました。
気が狂いそうでした。
あの男がいない遠い所へ
逃げることができるならと、
でたらめな夢を見ても
現実は変わっていませんでした。
ここはアルビスで、
レイラは決して、あの男から
逃れることができませんでした。
訪ねなければ、やって来る。
彼はそうだったし、いくらでも、
そうすることができる人でした。
彼は、
ビルおじさんに見つかることなんて、
少しも意に介しませんでした。
もし見つかったら、ビルおじさんは・・・
レイラは、
お前は、立派な大人になるという
ぶっきらぼうだけれど、
温かい真心の込もった
ビルおじさんの声を思い出しました。
他人が何と言おうと、
ビルおじさんはレイラを信じてくれて
誰よりも誇りに思っていてくれることを
あまりにもよく知っていました。
「公爵の愛人」と冷たく吐き出した
リンドマン侯爵の声が、
その記憶と混ざり、
レイラの呼吸が不規則になりました。
結局、これ以上、
我慢できなくなったレイラは
体を起こしました。
そして、机の上に投げられた
カバンを開けてハンカチを取り出し、
躊躇なく部屋を出ました。
夕食を食べるや否や、
寝床に入ったビル・レマーが
いびきをかく音が
微かに聞こえました。
レイラは、
ショール一枚も羽織らないまま、
冷たい夜の空気の中に出ました。
眼鏡をかけていないので、
視界がぼやけていましたが、
そんなことを気にする余裕は
残っていませんでした。
公爵が憎くてたまらず、
胸が裂けてしまいそうでした。
事故を誘発したのは
リンドマン侯爵だったので、
公爵を責めるのは
不当かもしれませんでしたが、
レイラは、あえて、あの男に
公正になりたくありませんでした。
彼もそうだからでした。
雲が月を隠して暗い夜でしたが
レイラは気にすることなく
森の中を歩きました。
離れが立っている川辺が近くなると
足は、さらに速くなって行きました。
吐く息が白くなるほど寒い夜でしたが
夢中で走るように歩くレイラの両頬は
熱気で熱くなっていました。
「来たね」
暗闇の中で聞こえてきた声に
レイラは歩みを止めました。
船着き場と離れの二階をつなぐ
屋外の階段の手すりに寄りかかった
公爵が、レイラを眺めていました。
行こうとしていたのにと言うと
公爵は、
何事もなかったようにのんびりと
チラッと微笑みさえ浮かべた顔で
立ち止まっているレイラに近づき、
彼女から一歩離れた所で
立ち止まりました。
吹いてきた川風に、
レイラの乱れた金髪と
スカートの裾が揺れました。
レイラの身なりを見た公爵は
眉間にしわを寄せながら、
寒くないのかと尋ねました。
失笑したレイラは、
「公爵様のハンカチ、どうぞ」
と言って
震える手で握りしめていたハンカチを
その男の手に投げるように
握らせました。
そして、
「さようなら。
二度とこんな風に会いたくない」と、
冷たく吐き出して、振り向きました。
揺れる体がとても痛くて
泣きたくなる度に、
レイラは内頬の肉を噛みました。
公爵は「そこにいろ」と命令しました。
レイラは走ろうとしましたが、
足が思い通りに
動いてくれませんでした。
その間に、距離が狭まった分だけ
レイラを呼ぶ公爵の声が
鮮明になりました。
そして、
公爵の手がレイラの左肩に触れると
レイラは鋭い悲鳴を上げながら
その手を押し退けました。
マティアスは眉を顰めて
レイラを抱き上げました。
避ける間もなく起こったことでした。
レイラは「嫌だ、放して!」と
頑としてもがき始めると、
マティアスは、
まるで部隊の袋のように
彼女を肩に担ぎました。
レイラが
背中を殴って引っ掻いても
マティアスは揺れることなく
階段を上がって離れに入りました。
室内に入ると、
レイラの泣き声のような悲鳴が
さらに高まりましたが、
ここには、その声を聞く人が
残っていませんでした。
マティアスは、
廊下を応接室とは反対側の方へ
大股で歩き、
その端にある寝室のドアを
躊躇なく開けました。
車にぶつかって
怪我をしたかもしれないレイラを
呼び出したマティアス。
一見、冷酷な命令に思えますが
いつものレイラなら、
そのような手紙を送れば
必ず、自分の所へ来るはず。
けれども、もし来なかったら、
それほどまでに、
体調が悪いのかもしれないし
手紙すら見られないのかもしれない。
マティアスは、
レイラの体の状態を判断するために
わざと意地悪な手紙を
送ったのだと思いました。
でも、レイラは、皆様が
コメントしてくださっているように
婚約者のいるマティアスと
キスをしてしまったことを
苦痛に思っている。
そして、
再びマティアスがやって来て
同じことが起き、
それをビルおじさんに
見つかってしまうことで、
自分への信頼が失われ、
ビルおじさんにまで、
公爵の愛人だと思われることを
恐れている。
だから、レイラは体が痛くても
無理をして、
マティアスの所へ行ったのだと
思いました。
きっとレイラは、体調が悪い中、
ビルおじさんの前では、
何でもない顔をして夕食の支度をし
一緒に食事をして、
片付けをしたのでしょうね。
レイラとビルおじさんの幸せな生活を
誰にも邪魔して欲しくないです。
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ひな様
記事が読めないことを
ご指摘いただきありがとうございます。
時々、やってしまう
カテゴリー分け忘れを、またまた、
やらかしてしまいました(^^;)
先程、カテゴリー分けをしましたので
もうお読みいただけたかと思います。
ぺこちゃん様、DUNE様、air0113様
aputa様、メロンパンナちゃん様も
いつもコメントを
ありがとうございます。
次回は月曜日に更新いたします。