59話 ビョルンとラルスの王の会談が始まります。
「結婚おめでとう」と、
無意味な嘘を先に口にしたのは、
ラルスの国王
アソ・ハードフォートでした。
ビョルンは、巧みにその芝居に参加し
お礼を言いました。
穏やかな笑顔で
同盟国の王子の結婚を祝福する王と
心からの感謝を表す王子。
決められた役割に、完璧に合致する姿で
やりとりされる二人の会話は、
水が流れるように、自然に続きました。
会場の外で、緊張して震えている
両国の大臣たちを
虚しくさせるほどの平穏な光景でした。
ビョルンは、
お礼を言うのが遅くなったけれど
グレディス王女を通じて
伝えて来た王の提案にも
深く感謝している。
自分の意思と陛下の意思が違っていて
受け入れることはできなかったけれど
その思いやりは、
いつまでも忘れずに覚えておくと
言いました。
さりげなく挑発してくる
王子を見た王の眉間に
しわが寄りました。
相変わらず礼儀正しい笑みを
浮かべているものの、
ビョルンの目つきには
隠す気が全くない
刃が立っていました。
あえて、
不貞を働いた娘を前面に出して
他国の内政に
干渉しようとしたのですか?
失われた王冠を取り戻すのを
手伝うという提案に対する
不埒な返事でした。
その越権行為を
決して忘れないという警告も
一緒でした。
不機嫌そうな目で王子を見ていた王は
相変わらずだと言うと、
虚脱感の混じった笑いを
爆発させました。
歳月が流れれば
落ち着いたかと思いきや、
グレディスを罠にかけて、
ラルスの息の根を止めに来た
あの頃と、
少しも変わっていない姿でした。
王は、レチェンの王座を
自分の思い通りに
変えようとする意図ではなかった。
デナイスタの狼たちが、
それほど容易な相手ではないことを
自分も知らないわけではない。
ただ、レチェンの意思が
そうであるなら、
愚かな娘を持った贖罪の意味で
役に立とうと思っただけだと
話しました。
ビョルンは、
王の真心を信じるし、
レチェンの意思が何であるかも
もう、はっきり分かってくれたと
信じていると返事をしました。
王は、長いため息をつきました。
この密談が始まって以来、
初めて、わだかまりのない感情を
表わした瞬間でした。
グレディスを
再び妻にしたくなかった気持ちは
十分理解できる。
しかし、
私情を捨てて理性的に考えるなら、
ビョルンを王太子の座に戻すのが
両国にとっても最善だと思ったと
言うと、ビョルンは、
レオニードが王座に就いても、
両国の友好的な関係は
変わらないだろう。
弟は穏健で思慮深い王に
なるはずなので、
むしろ危険要素が
減ることになったのではないかと
言いました。
王は、ビョルンが、
王冠に何の未練もない人のようだと
指摘すると、ビョルンは、
未練があるなら手放さなかったと
むしろ、気楽そうに微笑みました。
しかし、悪意のなさそうな顔で
蛇のような本音を隠す王子を見る
王の目は、
次第に細くなっていきました。
頭角を現し始めた
王太子ビョルン・デナイスタのことを
他の王国は、おおむね
レチェンの狂犬が帰って来たと
言いました。
彼の曽祖父フィリップ二世は、
レチェンでは
偉大な征服王と称えられてきましたが
レチェンを除くすべての国にとって
歯ぎしりする敵でした。
レチェンの狂犬は、
そのフィリップ2世のニックネームで
デナイスタの狼の旗は
大きな恐怖を与え、その悪名は、
今でも広く語られていました。
本来、国際情勢というものは
回る車輪なので、
あの時代には、こいつがあいつを殴り
この時代には、あいつがこいつを
殴りつけるものでしたが
レチェンのフィリップ二世は
度が過ぎた、ならず者というのが
大勢の意見でした。
ラルスは、その狂犬に
最も痛い目に遭った王国の一つでした。
もちろん、ラルスがレチェンより
富強だった時代も存在しました。
当時、ラルスの騎馬部隊が
レチェンの心臓部まで突撃し、
国王の降伏を勝ち取った戦闘は、
長年、レチェン人を見下す際に
動員されて来たラルスの誇りでした。
しかし、狂犬率いる海軍艦隊が、
ラルスをはじめとする
三カ国が連合した艦隊を
ことごとく水葬させてしまった後は
おぼろげな昔の思い出に
なってしまいましたが。
その戦いは、レチェンの船が
数的に劣勢だったという点で
何よりも屈辱的でした。
フィリップ二世は、
自らその海戦を指揮しました。
まだ30歳にも満たない若き王が、
大陸の征服者になる礎を築いた
勝利でした。
狂犬が大陸を平定し、
再び平和が訪れると、
他の王国は、
殴られることで悟った序列を
諦めの気分で、渋々受け入れました。
とにかく大陸は再び安定し、
産業と文明は花を咲かせ、
繁栄の時代が到来しました。
幸いにも、
フィリップ二世の子孫たちは
彼とは違って穏健な治世を続けました。
しかし、
いつ歯をむき出しにするか分からず
不安になった大陸各国は、
最も強力な同盟である婚約を結ぼうと
努力しました。
そのため、グレディスが
レチェンの王太子妃に選ばれた時、
ラルスは天を貫くほどの
達成感と自負心を味わいました。
しかも、その相手は
狂犬の再臨と呼ばれる王太子、
ビョルン・デナイスタだったので
なおさらでした。
まだ自分の時代を切り開いていない
若い王太子でしたが、
それでも、ちらほら見える気質は
間違いなく、彼の曾祖父でした。
征服者。冷徹な狂犬。
グレディスとのことで、
ビョルン・デナイスタが
王太子の座を明け渡した時、
レチェンを除く全大陸が
安堵し、胸をなで下ろしたのも
無理はありませんでした。
アサ・ハードフォートは
深いため息をつくと、
想念を振り切って頷きました。
王は、
ビョルンを再び婿にして
王座に就かせることができなければ
むしろ権力から遠ざかった
王子のままでいる方が、
ラルスにとっては、
はるかに良いことだと
正直に話しました。
ビョルンは、それなら互いに
最善の結果を迎えたわけだと
返事をしました。
王は、疑問に満ちた目をして、
ビョルンとレチェンにとっても
これが最善だというのかと
尋ねましたが、
ビョルンは軽く微笑みました。
一点の後悔も見られないけれど
依然として彼の曽祖父の気質が
輝いている顔でした。
ビョルンは、
内側では、激しい変革の波と
旧時代の秩序を調整し、
外側では、危険な状態の平和が、
さらに傾かないようにする
混乱した時代なので、
征服者ではなく交渉者を
必要としていると言いました。
王は、
ビョルンがその役割に
ふさわしい君主になる自信がないので
弟に王冠を渡すという意味かと
尋ねました。
ビョルンは、決心したら、
そのような君主に
なれないことはないし、
自分に与えられた王冠の重さが
むやみに押し付けてもいいほど
軽くないこともよく知っている。
しかし、レチェンには
その価値に完全に合致して、
その時代を最も栄光に導いていく
適任者がいるので、
自分は、一度しかない人生を
自分の意思とは違う価値に
捧げたくないだけだと言いました。
王は、
王冠に未練のないビョルンが
捧げたがっている、
その価値とは何かと尋ねると、
ビョルンは、
おそらく、一生のんびりと、
贅沢に暮らすことくらいではないかと
答えました。
一国の国王と一対一で会談する場で、
立派に戯言を喋る生意気な王子を
ぼんやりと見つめていた
アサ・ハードフォートは
思わず失笑すると、
とても美しい価値だ。
ラルスの銀行を買い入れるのも
そのためなのかと尋ねると、
ビョルンは、
王が有閑王子の暇つぶしにも
関心を持ってくれて光栄だと
皮肉を言いました。
王は「暇つぶし」と呟くと、
ビョルンは、
ラルスのアレクサンダー王子も
先日、レチェンの名馬を
購入したと聞いていると言いました。
競走馬一頭を買い入れた王子の趣味と
ラルスの銀行を合併しに来た
ビョルンの野望を、
同一線上に置く彼の厚かましい態度に
再び王は笑いました。
ビョルンは、
この同盟を守るために
両国が支払った代価を
レオニードはよく知っている。
だから不安に思わないように。
婚姻がなくても、
この同盟は堅固であり、
レオニードの治世が続く間もそうなる。
これは、デナイスタの名誉をかけて
差し出すことができる約束だと
言いました。
じっと彼を見つめていた
アサ・ハードフォートは、
低いため息をつきながら頷きました。
愚かな娘が逃してしまったものが
何かを痛感すると、
深い後悔の念が湧いて来ました。
ビョルンは笑顔を取り戻すと
目でドアを指して、
もう、あのドアを開けてもいいか。
厄介者の王子が、
怒ったラルスの国王に
殴られるのではないかと、
レチェンの大臣たちが
心配しているはずだからと
言いました。
王は、厄介者だと自任したついでに
そのような噂まで
甘受してみるのはどうかと
悪戯っけのある若い王子の言葉に
冗談で応酬しました。
ビョルンは、
困っているかのように
眉を顰めると、
どうもそれはちょっと。
新婚旅行中であることを
考慮して欲しいと、
王を直視しながら、
自然に自分の結婚のことを
思い出させました。
最後の未練まで捨てた
アサ・ハードフォートは笑いながら
王子の気持ちはよくわかる。
ところで、一体そんな結婚まで
あえて決行した理由は何なのか。
君の花嫁は、一体、
どれくらい素晴らしい女性なのかと
純粋な疑問から始まった
質問をしました。
カレンは静かにため息をつき、
固くなった首筋を揉みました。
机の前に座った大公妃は、
すでに何時間も、レチェンの貴族年鑑を
暗記していました。
おかげでカレンも身動きが取れず、
大公妃のそばを
守っているところでした。
この家門はどうか。
あの家門はどうか。
絶え間ない大公妃の質問攻めに、
カレンは頭が痛くなりそうでした。
カレンの顔色を窺った大公妃は
彼女に謝り、
とても疲れているのではないかと
尋ねると、静かに微笑みました。
カレンは、それを否定し、
当然すべきことをしているだけだと
決まった答えを機械的に出しました。
しかし、エルナを見る目からは
遠慮なく
不満な様子が滲み出ていました。
王室の末っ子で
ようやく12歳になったグレタ王女も
この無知な大公妃よりは
多くのことを知っているに
違いないと思いました。
エルナは、
カレンがビョルンと、
長い年月を共にして来たと
聞いていると話しました。
カレンは、小さな王太子だった頃から
仕えていると返事をしました。
エルナは、
メイド長がとても忠実な人だと
フィツ夫人が話していた。
自分もそう思うと言いました。
ひっきりなしに
無駄な言葉を並べ立てる
エルナを見たカレンは目を細めて、
何を話したいのか
聞いてもいいかと尋ねました。
エルナは、
ビョルンを大切にして愛している分、
自分のことを不満に
思っているかもしれないということを
理解しているという意味だと、
依然として
穏やかな笑みを浮かべた顔で、
虚を突く言葉を投げかけました。
続けてエルナは、
彼の妻として、
自分が至らないことを知っているし
メイド長の目にも
そう映っているだろうと言いました。
カレンは、
何を言っているのか・・・と呟くと
エルナは、
だからもっと熱心に学ぶ。
恥ずかしくない大公妃になれるように
頑張るので、
どうか自分を助けて欲しいと
頼みました。
カレンはビクッとして
乾いた唾を飲み込みました。
ベッドの意外では
何の役にも立たないのに、
主人の役割はしたいようだと
思いました。
腹が立ったけれど、だからといって
歯向かうこともできないので
カレンは恥辱に堪えながら
命令を受けました。
満足そうに微笑んだ大公妃は、
再び貴族年鑑に集中し始めました。
うんざりしていた質問攻勢は、
日が暮れて、
ようやく終わりました。
夫と夕食をする期待で
浮かれた大公妃が
着替えに行っている間、
カレンは、
ズキズキする頭を抱えながら
冷たい風に当たりました。
その頃、
王子が急に送って来た伝言が
届きました。
仕事で遅れるので
先に食事をしろという内容でした。
一緒に、その知らせを聞いたメイドは
このままでは、半年も
もたないのではないかと言って
キャハハと笑いました。
カレンは無礼を叱る代わりに
一緒に笑いました。
それから、カレンは、
大公妃に伝言を伝えに行くメイドを
断固たる態度で呼び止めると
後で知らせるように。
妃殿下は、今着替え中だそうだから
こんな時に、
突然割り込むのは失礼だと
言いました。
せっかく念入りに身支度をした後で、
約束をすっぽかされたという
知らせを聞くことになる
大公妃の顔を想像しながら
笑って騒ぐメイドたちの声が、
夕方の闇の中に広がりました。
あれはジェイドではないかと
驚いた目をしたメイドが、
カレンを引き止めました。
彼女が指差す方を見たカレンの目が
大きくなりました。
グレディス王女のメイドである
ジェイドが、急いで彼女に向かって
走って来ていました。
ラルスの王は、
ビョルンを王太子の座に戻すのが
両国にとっても最善とか
偉そうなことを言っているけれど、
彼が考えているのは
自分の国と愚かな娘のことだけ。
そんなことも、ビョルンが、
わかっていないと思っていたのなら
彼こそ愚かな王だと思います。
だから、四人の子供たちも
出来損ないなのだと思います。
カレンはメイド長なので、
皆の模範となる立場でありながら
率先してエルナを馬鹿にし、
悪口を言い、王子の伝言まで、
わざと遅らせて伝えるという
意地悪をする。
そんなことをすれば、
リサ以外のメイドが追随するのも
当前だと思います。
それに、カレンも他のメイドたちも
平民だと思いますが、
その彼女たちが、堂々と
太公妃であるエルナの悪口を言ったり
彼女に不利益を与えれば、
王室不敬罪に問うこともできると
思います。
けれども、エルナが何も言わずに
我慢しているから、
彼女たちの横暴が
まかり通ってしまう。
この後、エルナがグレディスに
ガツンと言ってやる時のように、
メイドたちにも、
言ってやればいいのにと思いますが
エルナは、
メイドたちの言っていることが
あながち間違いだと思っていないので
何も言えないのだと思います。