67話 カタリナはビルのせいで怪我をしましたが・・・
深く考え込んでいたカタリナは、
ビルが、可哀想だと言ったので
エリーゼの目は、
飛び出そうになるくらい
大きくなりました。
彼女は、
それはどういう意味なのか。
あの庭師のせいで
温室がめちゃくちゃになった上に
こんなに怪我までしたのにと
いきり立ちました。
カタリナは、
そんなに、ひどい怪我を
したわけでもないと返事をしました。
しかし、エリーゼは、
大抵、老婦人の意思を尊重するのに
一体どうしてビル・レマーに
そんなに甘いのか、
今回だけは理解できないと、珍しく
彼女の声に冷たい刃が立ちました。
エリーゼは、
ヘッセンが警告までしたのに
ビルが無視したのは、
おそらく、意図的なことではないかと
主張しました。
ビルは、
わざとそんなことをする人ではないと
カタリナは反論しました。
エリーゼは、
死んだ自分の鳥たちと、
カタリナの貴重な草花はどうするのかと
いつもと違って激昂した態度で
鬱憤をぶちまけました。
それだけではなく、
電灯などを設置した
宴会場と晩餐室が
使えなくなったことを思い出した
彼女の顔は怒りで熱くなり、
発電機が爆発して電気が入らないので
アルビスの年末が
めちゃくちゃになったと訴えました。
家の中に電気を入れることに
最初から懐疑的だった老婦人は
だから自分は、
あの薄っぺらい電灯などは
設置しないようにと
言ったではないかと、
あまり残念な様子を見せませんでした。
カタリナは、
もちろん自分も悲しいけれど、
庭師を罰したからといって、
元に戻せるわけではないし、
彼が弁償できる金額でもないと
言いました。
しかし、エリーゼは、
少なくとも他の使用人たちに
警告することはできると
主張しました。
カタリナは、
ビルを刑務所に送るということかと
尋ねました。
エリーゼは、
罪を犯したのなら、それ相応の
罪を償わなければならないと
答えました。
カタリナは、
ビルはマティアスが生まれる前から
このアルビスのために働いてきた人だ。
それにビルを刑務所に送ったら、
この空の下で
頼れるのが彼だけのレイラを
どうするのかと尋ねました。
エリーゼは、
庭師の養女まで、
自分たちが心配する必要はない。
あの子も、もう大人なのだから
いつまでも、
このアルビスの居候でいるわけにも
いかないと答えました。
これくらいなら
一歩譲ってくれてもおかしくないのに、
エリーゼの態度は、
いつになく強硬でした。
エリーゼは、
クロディーヌのことを考えると、
もっと心が痛み。
あの子がアルビスの温室を
どれだけ好きだったか、
よく知っているはず。
あそこで結婚式を挙げたいとまで
言った子なのに、
どれほど心を痛めるだろうか。
今からコツコツ修理をしても、
結婚式の前までに、以前のような状態に
完全に戻すことは不可能だろうと
言いました。
次期女主人が、
このアルビスで一番愛する場所を
台無しにしたのは、
カタリナもやはり気になり、
たじろぎました。
エリーゼは、
このような前例を残したら、
アルビスの秩序が
きちんと保たれなくなると、
一言一言、力を込めて言いました。
カタリナは、
その言葉も一理あるけれど、
自分には、よく分からないと言うと
ため息をつき、
ベッドの枕元に積まれている
クッションの間に
再び体を横たえました。
彼女が楽に横になれるように
メイドがベッドを整えた後、
カタリナは、
このアルビスの主人はマティアスなので
彼の結論に
従うのがいいのではないかと思うと
それとなく提案しました。
じっくり考え込んでいたエリーゼも
それはそうだと答えて頷くと、
マティアスの決めたことに従う。
賢明に決定してくれると嬉しいと
言いました。
レイラが離れの応接室に入った時、
マティアスは電話で
話をしていました。
マーク・エバースが小さく合図をすると
マティアスは、ようやく
ゆっくりと顔を向けました。
チラッとレイラを見たマティアスは
もう下がってもいいと言うように、
マークに目配せしました。
その瞬間にも、
壊れてしまった邸宅の発電機を
修理する日程を話し合う通話が
自然に続いたので、レイラは、
さらに焦った表情をしました。
受話器を下ろしたマティアスは
レイラの方へ体を向けると、
「忙しかった」と言いました。
そして「レマーさんのおかげで」と
付け加えましたが、その言葉には、
これといった怒りも憐憫も
含まれていませんでした。
ソファーに座ったマティアスは
「座れ」と言って
向かいの席を指差しました。
レイラは急いで首を横に振り、
乾いた唾を飲み込みました。
マティアスは、
再び座れと言う代わりに、
足を組んで座りました。
少なくとも、
謝罪の言葉を聞く意思が
あるのではないかという希望に
支えられ、
レイラは足を震わせながら、
彼のそばに近づきました。
まずレイラは、
本当に申し訳ないと
深く頭を下げて謝罪しました。
マティアスは、
まるで訳が分からないと言うように
彼女をじっと見つめながら、
謝る理由を尋ねました。
レイラは、いつの間にか、
冷や汗でびしょ濡れになった
両手を合わせながら、
どうか一度だけビルおじさんを
許して欲しい。
自分が代わりにお願いすると
しきりに頭を下げながら懇願しました。
そして、マティアスの沈黙に
勇気づけられたレイラは、
公爵も、おじさんのことを
分かっていると思うけれど、
絶対にわざとそうしたのではない。
おじさんは電気が何なのか、
発電機が何なのか、
それを、どう扱えばいいのか
全然知らなかった。
倉庫で働いていた時、
その音のせいで頭痛がすると
時々、話していた。
そのせいで、あんなことをした。
ビルおじさんが、
老婦人と温室に害を及ぼすなんて
考えられないと
ここに来る途中、
ずっと考えていた言葉を
たどたどしく話し続けました。
込み上げて来る感情を抑えるため
何度も言葉が途絶えましたが、
マティアスは、
辛抱強く待ってくれました。
レイラは、
たかがこんな言葉では
拭うことができない過ちだと
承知しているけれど、
どうか一度だけ、ビルおじさんを
許して欲しいと訴えました。
レイラがギュッと握り締めて
ブルブル震えている両手は、
血の気がなく青ざめていました。
マティアスは、低くて柔らかい声で
レイラを呼びました。
レイラは赤くなった目を上げて
彼を見つめました。
マティアスは、
ビル・レマーに対して
善処して欲しいということかと
どうしてもレイラが、
先に出せなかった言葉を
代わりに言ってくれました。
恥知らずだけれど、
レイラは涙を飲み込みながら
頷きました。
「善処」と、
淡々とその単語を囁くマティアスは、
レイラの靴を見ました。
警察署まで走って行って来たので
土ぼこりがたくさん付いた
古い茶色の靴でした。
その後、マティアスの視線は
靴から黒いストッキングを履いた
細い足へと上がり、
ふくらはぎの中央にある
濃い灰色のスカートの裾で
止まりました。
間違いなく、
きれいな服を買ってやったのに、
いつも、こんな
修道女のような身なりでした。
その後、マティアスの視線は
チェック柄のコートと
きちんと前を留めていないコートの
前立ての間から現れた赤いセーターと
ブラウスの広い襟を通り過ぎた後、
切実な懇願のこもった
レイラの瞳に届きました。
マティアスは、
その目をじっと直視しながら、
「自分がなぜ?」と尋ねました。
何を言われたのか、
すぐに信じられなかったレイラは
ボーッとしました。
マティアスは、
一体、なぜ、ビル・レマーに対して
善処しなければならないのかと
尋ねると、眉を顰めながら
ゆっくりと立ち上がりました。
そして、
発電機が爆発した。
危うく祖母が亡くなるところだった。
温室は無惨に壊れたと
一つずつ事実を話す度に、
一歩ずつマティアスはレイラに近づき
今や二人の間の距離は、
一歩にも満たなくなりました。
マティアスは、
このひどい損害は
すべてビル・レマーのせいなのに
なぜ、善処するのかと尋ねました。
レイラは、マティアスに
懇願しました。
マティアスは、
謝ったら、そのすべての過ちに対して
善処しなければならないのかと
尋ねながら、
レイラのブラウスの襟を撫でました。
肩に届くほど広い襟のこのブラウスは
秋の遠足でアルビスにやって来た日に
着ていたし、
車にはねられて怪我をした夜、
自ら脱いだ、
あのブラウスでもありました。
そういえば、 校長に紹介してもらった
雑貨店の息子と
並んで立っていたあの夕方にも
このブラウスを着ていました。
もしかしたら、
アルビスを去る決心を固めて
転勤を申し込んだ日にも、
この服を着ていたかもしれないと
考えました。
マティアスは、
君は何なのかと尋ねました。
特に力が入ることなく、
冷淡でもないけれど、より酷い言葉が
少しずつ流れ出ました。
レイラは、
不意に頬を打たれたような表情で
彼を見上げました。
ちょうどその瞬間、
襟を縁取っているレースを
触っていたマティアスの指が
レイラの顎の先に触れました。
そして、
一度、言ってみるようにと促すと
指一本で、簡単に
レイラの顔を持ち上げました。
ぼんやりとした目から、
溜まっていた涙が流れ落ち
マティアスの指を濡らしました。
彼は、再び、
一体、君は何なのかと
尋ねました。
わざと悪く見せているというには
あまりにも無情で乾いた声でした。
あれは自分だけの夢だったのか。
レイラは、アルビスの秋を
思い出させようと努めるように
一生懸命、公爵を見つめました。
休むことなく涙が流れ出ましたが、
一時も目を逸らしませんでした。
約束どおりフィービーを助け、
怪我をしたレイラを治療し、
たまに軽い笑いと冗談を
交わした時間。
とても見慣れないこの男を
じっと見つめるようになる瞬間が
多かったことを、
レイラは確かに覚えていましたが、
ガラスの表面のような公爵の目は、
まるで、
そのすべてを消した人のように、
ただ無感覚なだけでした。
唇は動くものの、レイラは、
なかなか言葉を続けることができず
全身が震え始めました。
冷たい鉄格子の向こうに
閉じ込められていたビルおじさんと
壊れたアルビスの天国、
そして、今目の前に立っている
この残酷な男の顔が、意識の中で
目まぐるしく交錯しました。
マティアスは、
ペン一本さえ、
タダで受け取らないくらい高潔なのに
こんな一方的な要求をするのは、
あまりにも厚かましいのではないかと
尋ねました。
レイラは、さらに力を入れて
唇を噛んでみましたが、
すすり泣くのを我慢できませんでした。
しかし、マティアスは、
まるで何も聞こえていない人のように
静かなだけでした。
マティアスは、
自分は損をする商売はしない。
残念だけれど、君の哀願や涙などは、
ビル・レマーの罪と
引き換えにするほどの価値はないと
言いました。
レイラは、
自分たちは、どうしても
それを弁償することができないと
訴えました。
マティアスは、
弁償とは違う。取引とは、
相手が望むものを与え、
君が望むものを得ることだと話すと
片手全体で、
レイラの顎を掴みました。
そして、そのような取引なら、
応じる気もあると話すと、
その価値を見定めるかのように
じっくりレイラを観察しました。
その視線が何を意味するのかを
悟ったレイラは、
びっくり仰天して後ずさりしました。
素直に彼女を手放したマティアスは
何事もなかったかのように
ソファーに戻って座りました。
彼を睨むレイラは、
もはや恐怖ではなく、
怒りでブルブル震えていました。
レイラは、
そんなわけにはいかない。
公爵はクロディーヌと婚約した。
二人はもうすぐ結婚すると
主張しました。
しかし、マティアスは
「それで?」と聞き返すと、
レイラの涙で濡れた手を
ハンカチで拭き、
視線を斜めに上げました。
何の呵責も憚りも
見当たらない目つきが、
一見、けだるそうにさえ見えました。
真っ青になったレイラが
ふらついている間に
電話が鳴り始めました。
マティアスは、
先程と変わらない身振りで
ゆっくり立ち上がると、
電話機が置かれたテーブルの前に
近づきました。
そして、
いずれにせよ好きなようにしろ。
君が決めることだからと言うと
まだ持ち上げていない受話器を
軽くつかんで、レイラを見ました。
そして、
心が決まったら言うように。
君の意思を喜んで尊重すると
言いました。
レイラは、
どうやって?と尋ねましたが、
マティアスは「行け」と命令をすると
背を向けました。
受話器を持ち上げる
簡潔な身振りのどこにも
汚い取引を提案した男の
欲望のようなものは見当たらず、
まっすぐで優雅な姿勢で立ち
祖母の体の状態について話をする彼は
鳥肌が立つほど完璧な
ヘルハルト公爵に過ぎず、
レイラ・ルウェリンなんて、
彼にとって
何でもありませんでした。
レイラは、苦しい息を吐きながら
よろよろと離れを出ました。
離れは、明るい光を放っているけれど
レイラの目の前には
真っ暗闇だけが広がっていました。
離れの二階と船着き場を結ぶ
屋外の階段の中間で、レイラは、
つい、ヘタヘタと
座り込んでしまいました。
凍り付いた川が反射する
月明かりに包まれると、
美しくて残酷な悪夢から
ようやく目覚めた気分でした。
レイラは
大学へ行くお金を貯めるために、
自分の服は最低限の枚数しか
持っていないのかもしれません。
そして、マティアスが買ってくれた
ワンピースを着ていないのは、
仕事や家事をしている時に、
そんな高価な服を
着るわけにはいかないと
思ったからかもしれません。
そして、コートを汚された直後、
マティアスが買ってあげたコートを
着て、靴も履いていたのに、
今、両方とも身に着けていないのは
先程と、
同じ理由なのかもしれないですし
それに加えて、
マティアスが買ってくれたものを
着ることに、クロディーヌへの
後ろめたさがあったのかもしれません。
そんな気持ちを、マティアスが
理解できるはずもありませんが。
発電機と温室の修理は、
莫大な費用がかかります。
ヘルハルト家にとって、
出費は痛いけれど、
それほど、負担に感じる金額ではないと
思います。
けれども、レイラとビルおじさんには
到底払えない金額。
秋にマティアスと、
今までにない良い関係を築けたので
謝るだけで、
ビルおじさんの罪を許し、
弁償も勘弁してもらおうとしたレイラは
考えが甘かったもしれません。
マティアスがレイラに
要求した対価は、レイラの尊厳を
踏みにじるかもしれませんが
マティアスにとって
レイラを手に入れることは
莫大な損失とビルおじさんの罪を
許すほどの価値が
あるということなのだと思います。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
初めてコメントされた方も
いらっしゃって、
こちらのコメント欄も賑わって来たのが
嬉しいです。
はてなブログには、
皆様からいただいたコメントに
返信する機能がありませんので、
もしかしたら、
無視されたと思われる方が
いらっしゃるかもしれませんが、
ここで、このような形で
お礼をお伝えすることで
ご容赦ください。
同じ文章を読んでも、
それぞれ感じることは様々。
色々な考えに触れることができるのも
楽しみの一つとなっています。
お話のほぼ1/3まで来て
新たな展開を迎えそうですが、
皆様と一緒に、
レイラとマティアスの行方を
見守って行きたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。