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65話 エルナが湖畔から戻って来ました。
躊躇っていたカレンが、
「お帰りなさいませ」と
先に口を開きました。
「はい」と返事をした
血の気のない大公妃の顔の上に
微かな笑みが浮かびました。
焦りながら、様子を探っていた
カレンの眼差しが大きく揺れました。
エルナは、
カレンのおかげで、この宮殿を出て
風に当たれて良かったと
丁寧にお礼を言うと、
カレンの横を通り過ぎて
一人で中に入りました。
カレンは、
もしかして、グレディス王女が
現れなかったのかと
希望を抱きましたが
すぐに、それは消えました。
自分を射るように見つめる
リサの目つきだけ見ても、
湖のほとりで起こったことが
分かるようだったからでした。
それならなぜ?
カレンは混乱した表情で、
大公妃を見つめました。
ただの無知で純真な子供だと
思っていましたが、知れば知るほど
本音が分からない相手でした。
まずは自分の役割に忠実であろうと
決心したカレンは、
慌てて大公妃の後を追って、
彼女を呼び止めました。
エルナは、少し疲れた顔で
振り向きました。
カレンは声を整えて、
王子が帰って来ていると告げました。
その言葉に、エルナは目を見開き、
一瞬にして表情が変わりました。
エルナは、
きっと遅くなると言っていたのに
もう帰って来ているのかと尋ねました。
カレンは、
スケジュールが変更になり、
早く戻って来た。
大公妃と夕食を共にすると
言っていたけれど、
準備をしましょうかと尋ねました。
エルナは、すぐには答えられず、
躊躇いました。
久しぶりにビョルンが
早く帰って来てくれたことは
嬉しいけれど、まだ胃が痛くて
気分が優れず、こんな状態では
食べられそうにありませんでした。
しかし、エルナは、
「妃殿下は・・・」と
代わりに返事をしようとする
リサの言葉を遮りながら、
「はい」と衝動的に叫び
準備を頼みました。
面食らっているリサの視線が
感じられましたが、
エルナは考えを変えませんでした。
ビョルンと一緒にいるから、
大丈夫そうでした。

エルナの寝室は空っぽでした。
ビョルンは目を細めて、
妻の寝室を覗きました。
エルナは、
ほとんど手を付けなかった
食事を残して、食卓を離れました。
ただ、
先に部屋に上がると言っただけで
正確な理由は告げませんでした。
彼女らしくない行動でした。
逃げ出すように
食堂を去る後ろ姿もまた同じでした。
ゆっくりと
妻の寝室を横切ったビョルンは、
机の前に置かれている椅子に
斜めに寄りかかって座りました。
ランプの光の下に置かれている
先ほどの、そのノートを見ると、
しばらく忘れていた
奇妙な不快感が蘇りました。
ビョルンは冷たく笑いながら、
そのノートを再び開きました。
グレディス・ハードフォートが
存在する限り、この世のどこにも
あなたの居場所はない。
このノートにまとめられた資料は
その一言で要約できそうでした。
毎晩のように、
メイド長と一緒に社交界の勉強をしたと
自慢しているエルナを思い出すと、
ますます呆れかえりました。
たかがこんなものを作るために
そんな手間をかけたなんて
愚かな女でした。
ビョルンは、
火種以上の価値がなさそうな
ノートを手に握り締め、
暖炉をじっと見つめました。
むしろ炎の中に
投げ入れてしまった方がマシだと
思いかけた瞬間、
浴室のドアが開く音が
聞こえて来ました。エルナでした。
ノートを閉じたビョルンは
エルナに
具合が悪いのかと尋ねました。
彼女は、病人のように
青ざめた顔色をしていました。
エルナは
断固として首を横に振って
否定すると、軽やかな足取りで
彼のそばに近づきました。
口元を上げて微笑むと、
食卓の前で見たのと同じ表情が
蘇りました。
大して心配はなさそうでした。
しかし、
ビョルンが握っているノートを
発見すると、その愛らしい表情が
瞬く間に、怒った猫のように
変貌しました。
エルナは、
なぜ、それを勝手に見ているのかと
抗議すると、ノートに向かって
慌てて手を伸ばしました。
過敏な反応を見せる女が、
薄れかけていた不快感を
再び呼び起こしました。
ビョルンは椅子から立ち上がり、
ノートを握った手を、
頭の上に高く持ち上げました。
エルナは何とかそれを奪おうとして
無駄に飛び跳ねました。
返して、自分のものだと
訴える彼女は、
険しくなった眼差しで
彼を睨みつけました。
別に、そんなに
大した秘密でもないのに。
ふざけた真似をする女をみつめていた
ビョルンの唇が歪みました。
エルナは、
それは自分のものだ。
他人の物に勝手に手を出すのは
紳士らしくないと非難しました。
ビョルンは、
そんなに道理に明るいのに、
このように滅茶苦茶な結果を
出したのかと尋ねました。
エルナは、
それはどういう意味かと
聞き返しました。
ビョルンは、
これで一体誰と付き合うのか。
メイドか、それともリスかと
尋ねました。
そんなつもりはなかったのに、
思いもよらず、ひどい言葉を
吐き出してしまった。
ビョルンは、
微かな苛立ちを帯びた
ため息をつくと、
ノートを握った手を下ろしました。
硬直したままのエルナを見ると、
気分は、さらに沈みました。
エルナは、
王子様には、どう見えるか
分からないけれど自分は本当に
一生懸命、努力したと、
拳を握りしめながら
一歩後ろに下がりました。
やがてビョルンは、
ノートを机の上に置きましたが、
それを取り戻す気力は、
もう残っていませんでした。
滅茶苦茶という、
皮肉を込めて投げかけたその言葉が
割れたガラスの破片のように
心を引っ掻きました。
また、胸が
ズキズキ痛むような感じでした。
無理やり食べ物を飲み込む時も
大丈夫だったし、
それをまた吐き出してしまった時も
我慢できると思っていましたが
今になって、その、たった一言で
崩れ落ちてしまうなんて滑稽でした。
ビョルンがエルナを呼ぶ声は
幾分、和らいでいましたが、
エルナはビョルンを見ませんでした。
靴の先を見下ろしながら、
罪のないドレスの裾だけを
ギュッと握り締めました。
泣かないでと自らを慰めながら
両目に力を込めました。
プライドを守れ。
泣かないでエルナという
呪文が無駄ではなかったのか
涙は流れませんでしたが、
赤く腫れあがった目尻を
隠すことは不可能でした。
エルナが逃げ出したくなった瞬間、
ビョルンが近づいて来ました。
彼はエルナの腰をつかむように
抱き締めると
机の前に歩み寄りました。
抵抗してみましたが無駄でした。
ビョルンは、
簡単に抑え込んだエルナを
机の前に座らせました。
そこには、滅茶苦茶と評されたノートが
置かれていました。
頭のてっぺんまでこみ上げて来た
恥辱に耐えかねたエルナは
真っ赤になった顔を上げ、
席を蹴って
立ち上がろうとしました。
しかし、いつの間にか
別の椅子をもう一つ持って来て、
隣に座ったビョルンのせいで、
エルナは戦意を失いました。
ビョルンは、
平然とジャケットを脱いで
カフスボタンを外しました。
エルナの理解できない行動でした。
エルナは、
今、何をしているのかと尋ねました。
ビョルンは、
ペンの用意をするようにと告げると
ジャケットのポケットから取り出した
万年筆を握って、
エルナのノートを広げました。
じっと、その様子を見ていたエルナは
思わず羽ペンを握りました。
ビョルンは、
指の間に挟んだ万年筆の先で
ノートに描かれた図表を指しました。
彼は、
この三人を隣の枠へ移せと
命じました。
そして、もう一度、
蓋を開けていない万年筆の先で
三人の名前をなぞりました。
グレディス王女と
親交が深いと分類されている
家柄でした。
エルナは、
でも、この人たちは、
グレディス王女と親しい仲だと
聞いていると反論しました。
ビョルンは、
その通りだと答えました。
エルナは、
すぐにインクを付けることができず
ペンをいじりながら、
どうしてなのか。
人柄が優れているのかと、
自分なりに理由を推論して
慎重に尋ねました。
ビョルンは、
自分のお金を使った人たちだと
淡々と答えました。
ビョルンの返事には
いつものように
虚を突くところがありました。
一瞬、躊躇いましたが、
エルナはインク瓶の中に
ペン先を浸しました。
力を入れて握った羽ペンの先が、
今この瞬間の心のように
ブルブル震えました。

王子のお金を使った人々の名前を
移すことから始まった
図表の修正は、深夜まで続きました。
ビョルンがペン先で名前を指し、
エルナが、その名前を
指示された欄に移す度に、
ビョルンは、その家門の来歴を
簡潔に説明してくれました。
要点だけを
簡潔にまとめたものだったので
エルナも容易に理解できました。
修正された図表を点検した
ビョルンが万年筆を置くと、
エルナもインクの瓶の蓋を
閉めました。
一方的に偏っていた
みすぼらしい図表は、今ではかなり
バランスの取れた形になりました。
注意すべき名前は
依然として多かったけれど、
エルナの交友範囲に入った名前も
それに劣らず多くなりました。
エルナと目が合ったビョルンは、
詳しいことは、カレンに
きちんと教えてもらえと、
ため息をつくように言いました。
確信が持てませんでしたが、
エルナは、とりあえず
深く頷きました。
いつの間にか傷は薄れ、
馬鹿みたいなときめきだけが
残りました。
あなたはプライドもない淑女だと
自分を叱って見ましたが、
心は簡単には止まりませんでした。
「ありがとう」という
エルナの囁くような声が、
机を照らす明かりの中に
溶け込んで行きました。
どういうわけか、
ビョルンと向き合う勇気が出ず、
自分の指先だけを見つめていました。
あまりにも腹が立って、
姿を見るのも嫌だった時とは、
少し違う感情でした。
エルナは、
本当に頑張る、うまくやると
言いました。
ビョルンは
そんなことを言わないでと告げると
手でエルナの頬を包み込みました。
彼女は、
その手に導かれているうちに
いつの間にか、
ビョルンと向き合っていました。
ビョルンは
「顔を見て」と指示すると、
これまで見せたことのない
微かな笑みを浮かべました。
その些細な変化だけで、
彼の表情が一変しました。
近寄り難かった男の顔に
これほど魅惑的な微笑みが宿る
この瞬間が、エルナは好きでした。
「君が好きなあの言葉のように、
淑女らしく」と言う、
ひんやりとして柔らかな体温を
思わせるビョルンの声が
エルナの心をくすぐりました。
淑女になることを決意したエルナは
改めてビョルンに感謝の意を伝え、
最善を尽くすと言いました。
ハハハと声を上げて笑ったビョルンは
丁重な目礼で
紳士的な返事をしました。
エルナは、
自分の頬を包んでいる
ビョルンの手の上に、
そっと自分の手を重ねると、
ラルスでは、静かに何もせずに
この宮殿に滞在していることが、
あなたとレチェンにとって
良いことですよねと
勇気を振り絞って尋ねました。
ビョルンは頷きました。
エルナは、
ラルスを離れた後からは、
教わった通りに、
一生懸命、やってみるけれど、
それで大丈夫かと
再び慎重に尋ねました。
今回もビョルンは快く頷きました。
エルナは、
全世界を手に入れたかのように
明るく笑いました。
エルナは、次の国ではビョルンが、
今ほど忙しくないですよね。
そうだといいのにと話しました。
ビョルンは、その理由を尋ねました。
エルナは、
一緒に旅行ができるように。
自分は生まれて初めて
旅行をしていると答えました。
期待に満ちたエルナの澄んだ両目が
輝きました。
だるそうな眼差しで、
妻を見つめていたビョルンの唇が
わずかに歪みました。
ビョルンは、
何がしたいのかと尋ねました。
エルナは、
話せば、一緒にやってくれるのかと
聞き返しました。
ビョルンは内容を聞いてからと
答えました。
確答でもないのに、エルナの顔は
すでに願いが叶ったかのように
輝きました。
彼女は、
まずは、外国の街を
二人で一緒に歩きたいと答えました。
ビョルンは、
それが一体何だって、
こんなに浮かれているのかと
少し拍子抜けましたが、
頷いてやりました。
エルナは、素敵な所で、
一緒に美味しい物を食べて
お茶も飲もうと言いました。
ビョルンは、
やりたいことはそれで全部かと
尋ねました。
考え込んでいたエルナの瞳が
再びキラリと輝くと、
話をたくさんして仲良くしようと
答えました。
彼女なりに苦心して並べた願いが
あまりにも虚しいものなので、
気が抜けたビョルンは、
つい笑ってしまいました。
ビョルンは、
柔らかいため息をつきながら
エルナの頬を撫でました。
そして「そうしよう」と
喜んで約束すると、
両目に彼を湛えたエルナは、
花が咲くように
無垢で美しく笑いました。

大粒の雪と共に
エルナの手紙が届きました。
メイドが持って来た手紙を
受け取ったバーデン男爵夫人は、
急いで眼鏡を探し、
暖炉の前の肘掛け椅子に座りました。
手紙の知らせを聞いたグレベ夫人も、
関節炎で痛む足を引きずって
応接室にやって来ました。
エルナが
こんなに元気に過ごしていて
どんなに良かったか分からないと言って
バーデン男爵夫人は笑いを含んだ声で
エルナの手紙を読み上げました。
今やエルナはラルスを離れ
次の歴訪国を旅しているとのこと。
グレディス王女の国を離れると
手紙から感じられた妙な違和感が消え
ようやくエルナらしくなったようで
ホッとしました。
目を輝かせながら
熱心に聞き入っていたグレベ夫人は、
自分たちのエルナお嬢さんは、
きっと立派にやり遂げられると
思っていた。今や、
本当に立派な大公妃殿下になったと
感嘆の声を上げました。
2人の老婦人が
エルナが手紙に書いて来た
見知らぬ不思議な世界の話を
交わしている間に、
メイドが紅茶を運んで来ました。
バーデン家の孫娘が
レチェンの大公妃となって以来起きた
最大の変化の一つでした。
王室がバーデン家の邸宅を
改修してくれました。
王妃自ら下した決定だと
伝えられました。
バーデン男爵夫人は
頑なに断りましたが、
王室の意地を曲げることは
不可能でした。
結婚が決まったのと、ほぼ同時に
始まった邸宅の改修工事は
結婚式を挙げる前に終わり、
新しい家には、
規模に見合った使用人が
補充されました。
長年、名ばかりの御者として
生きてきたロイスにも、
ついに実力を発揮する馬車が
現れました。
エルナが起こした奇跡でした。
エルナとの思い出を回想していた
グレベ夫人は、
あと数日で、
お嬢さんの誕生日だけれど、
遠くにいても、
祝ってもらえますよねと
心配そうに尋ねました。
バーデン男爵夫人は
穏やかに微笑みながら、
エルナのそばには
世界で一番心強い家族がいるので
そうなるだろうと答えました。
グレベ夫人は、
確かに、20歳の誕生日は
お姫様のように過ごすだろうと
言いました。
ようやく安心したグレベ夫人の顔にも
明るい笑みが広がりました。
二人の老婦人は、
懐かしさのこもった眼差しで、
窓の外を見つめました。
静かに降り積もる雪が、
世界全体を白く染め上げていました。
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マンガでは、
エルナが湖畔から戻ってすぐに
ビョルンがエルナの顔色が
悪いことに気づいたので、
グレディスと対峙したことで
エルナの顔色が悪かったのだと
思いました。
しかし、原作では、
湖畔から戻って来てすぐに
ノートのシーンになるのではなく
その前に無理して
ビョルンと一緒に夕食を取り、
それを吐いてしまったことが
書かれていました。
この時のエルナは、
娘狸との対峙で受けた心のダメージに
無理して食事をとって
吐いてしまったことで
体のダメージが加わり、
なおさら顔色が悪かったのですね。
でも、エルナは
なかなかビョルンと一緒に
食事ができないので、
無理をしてでも、一緒に
食べたかったのだと思います。
いじらしくて、健気だと思います。
ビョルンのお金を
使っているというのは、
ビョルンからお金を
借りているとうことですよね。
お金の借主は、
貸主を無下にできないでしょうから
エルナのことも
手ひどく扱わないはず。
さすがビョルンだと思いました。
エルナが
ビョルンにお願いしたことは
些細なことかもしれませんが、
ビョルンとは、
デートさえしたことがなかったので
普通の恋人同士がすることを
やってみたかったのだと思います。
バーデンのおばあ様は、
エルナの異変に
気付いていたのですね。
マンガだと、いきなりフェリアに
飛んでしまいましたが、
そこへ行くまでに、
エルナが少しずつ元気を取り戻せて
良かったと思います。
それと、
前話のmidy様のコメントの中で
ビョルンが跪いて公然と
エルナにプロポーズしたことが
グレとは大きく違うということに
同感です。
国王が結婚を認めたのだから、
きちんと求婚書を送ることが
できたはずなのに、
病院へ行ってプロポーズするなんて、
王族の常識から外れている。
それなのに、なぜ、ビョルンは
そのような行動を取ったのか。
もしかしたらビョルンは、
パーベルが、
バーデン男爵夫人の入院費を
払っていると聞いて、
このままでは
エルナを先に取られると思い、
すぐに
行動に移したのではないかと
思いました。
花瓶の赤いバラを
持って行ったのは、愛する女性に
手ぶらでプロポーズしてはいけないと
本能で感じたのかもしれないと
思いました。
***********************************
いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
kumari様の63話へのコメントの中の
付録『問題な王子様の女性陣』
見事に女性たちを漢字で表現している
kumari様の感性の豊かさに
感動しました。
グレディスの墓碑銘に
強欲恥不知無責任桃鈴蘭魔女と
書きたくなりました。
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