68話 エルナは一人で大聖堂のドームに向かいました。
メイド長のカレンは、
残りの歴訪のスケジュールを
調整していたところ、
フィツ夫人から、
特に念を押して頼まれていた任務を
おろそかにしてしまったことに
気づきました。
どうしても信じられなくて、
再びカレンダーを確認してみましたが
大公妃の誕生日を忘れてしまったという
致命的なミスだけが鮮明になりました。
衝撃に包まれたカレンは、
しばらく頭を抱えたまま
机の前から動けませんでした。
何を、どこからどうすればいいのか
見当がつきませんでした。
確かに大公妃は、
何の素振りも見せませんでした。
しかも今日の午後、
頻繁に寝室のバルコニーを
出入りしながら
小さな雪だるまを作るという
子供のように情けない行動をしたのが
全てでした。
戦々恐々としていたカレンは、
立ち上がると、
大公妃のメイドを探しに行きました。
リサは使用人たちの休憩室で
のんびりと他のメイドたちの
髪をいじっているところでした。
まさか、リサも知らなかったのかと
ため息まじりの質問に、
髪を編んでいたリサと並んで座って、
自分の順番を待っていた
メイドたちの視線が
一斉にカレンに注がれました。
どういうことなのかと
無邪気に聞き返すリサの顔から、
カレンは、
誰も知らなかった。
信じがたいことだけれどそうだったと
絶望的な答えを読み取りました。
カレンは途方に暮れ、
ため息をつきながら、
すぐに付いて来るようにと、
全員に命令しました。
世も末だと、
エルナは静かに舌打ちをして
結論を出しました。
フェリアの若者たちは、
なんて放蕩なのか。
男女が密着して、
軽々しい笑いを交わすだけでなく
気兼ねなく、
互いに触れ合っていたので、
エルナは、どうしても、
目のやり場に困りました。
エルナは首を横に振り、
背筋を伸ばして座りました。
姿勢をまっすぐにすると、
えげつない世相を見つめる目つきも
さらに厳しくなりました。
その時、雪に覆われた都市の上に
定刻を知らせる鐘の音が
鳴り響き始めました。
一緒に大聖堂のドームに上った
恋人たちは、
その中でキスを交わしました。
驚愕したエルナが漏らしたため息が
白い息とともに流れ出ました。
道徳が消えた都市の放蕩が
極みに達したので、この鐘の音は
まさに末世を哀悼する
弔鐘と言えました。
目のやり場に困りましたが、
エルナは、すぐに
顔を背けることができませんでした。
あちこち目を動かしながら
再び末世の恋人たちを見て、
それから、
また真顔で視線を避けている間に
長く続いていた鐘の音が止まりました。
しかし、
その残響と入り混じった笑い声が
依然として
金色のドームの上に残っていたので
エルナの心を混乱させました。
間違った選択をしたことに気づいたのは
死ぬ気で最後の階段まで
上り切ってしまった後でした。
雪が降っているので、
がらんとしていると思っていたドームは
予想に反して、
雪景色を楽しみに来た恋人たちで
賑わっていました。
一人でささやかに、誕生日を
祝ってみようとしただけなのに、
思いがけず、さらに自分を
寂しくさせたようなものでした。
今すぐ、離れたい気持ちでしたが、
すでに疲れ切っていたため、
それすら容易ではありませんでした。
震える足で、
あれほど多くの階段を下りて行けば
20歳の誕生日に、人生を
終えることになるかもしれない。
死にたいほど惨めな気持ちだけれど
だからといって、
本当に死んでもいいというわけでは
ありませんでした。
エルナは悩んだ末、
隅のベンチに座りました。
足に力が戻って来るまで
待とうとしましたが、
なぜ一時間が経つ今まで、
酷い場面を見ながら、
この場にいるのか、
自分でも分かりませんでした。
ドームの端の通路を巡りながら
風景を鑑賞していた恋人たちが去ると
新しい恋人たちが、
その場を埋めました。
エルナは、
手すりに近づこうとしましたが
考え直して、
再びベンチに座りました。
世の中に、こんなに仲の良い恋人が
多いという事実を実感すると、
どうしようもなく、
心が切なくなりました。
気を悪くすることはない。
誕生日は来年になったらまた来る。
自分を慰めようと努力すればするほど
ますます気分が塞ぎました。
ビョルンはすっかり忘れてしまった。
いや、最初から覚えていたかどうかさえ
確信できませんでした。
両目で見つめていたけれど
実は何も見ていなかった。
あれほど甘く笑ってくれたけれど
心はなかった。
彼にとって自分は、
それっぽっちの存在だということを
エルナは嫌でも
認めざるを得ませんでした。
それなのに恋人だなんて、
とんでもない。
自分をあざ笑うように
長いため息をついたエルナは、
崩れそうな心を引き締めるように
首を真っすぐに立てました。
頭にかぶったフードと
マントの形を整え、
しわくちゃになったドレスの裾も
整えました。
しかし、それもしばらくの間だけ。
冷たく湿った風が押し寄せて来ると、
その努力が、
すべて無駄になってしまいました。
諦めたエルナは、それくらいにして
冷たい手をマフの中に入れました。
今日のために悩んで選んだ服でしたが
もう気にしたくありませんでした。
どうしようもない。
どうせ一人だからと思ったエルナは
眉を顰めて辺りを見回しました。
ドームの上の恋人たちは、
依然として道徳に反した姿で
視野を乱していました。
たかが聖堂のてっぺんに
一緒に上る程度で愛が叶うなんて
お話にならない。
そんな迷信を信じるなんて、
皆、本当に純真だと思いながら
エルナは、もう一度舌打ちをして
ため息をつきました。
やはり、世も末だと思いました。
リサは顔を真っ赤にして
どうやら外に出たようだ。
どうしたらいいのかと嘆くと、
ついに我慢ができなくなって
泣き出しました。
他のメイドたちの表情も
深刻なのは同じで、
大公妃を不満に思う彼女たちでさえ
そうでした。
謝罪をし、遅くなったけれど
誕生日を祝う晩餐でも
準備しようと思って訪れた
大公妃の部屋は
がらんとしていました。
迎賓館を隈なく探しても同じでした。
大公妃が消えた。
今のところ、家出の可能性が
最も高いと思いました。
カレンは死人のような顔色で
リサを見つめながら、
妃殿下が行くような場所を
一度、よく考えてみてと
問い詰めました。
日はとっくに暮れてしまった後で、
もし大公妃に何かあったらと思うと
息が詰まりそうでした。
リサは、
本当に分からないと答えると
ブルブル震えながら
泣き出しました。
あれほど格別に
大公妃に従っていながら、
どうして誕生日一つ知らないのか。
カレンはカッとなり、
怒りが込み上げて来ましたが
リサを叱ることはできませんでした。
重大な責任を疎かにした
根本的な過ちは自分にあるので、
若いメイドを責めるのも
馬鹿げていると思いました。
とりあえず、グループに分かれて
外を捜してみよう。
一番目のグループは、
庭園と裏の森を担当し、
二番目のグループは市内に出て・・・
と指示していると、
息を切らしながら走って来た侍従が
突然「メイド長!」と口を挟んで
割り込みました。
もしやという希望に満ちて
彼を眺めていた彼女たちは、
王子が帰って来た。
妃殿下を探しているという彼の言葉に
さらに大きく絶望しました。
最も恐れていた状況が
ついに迫って来ました。
使用人たちに下していた命令を
急いで締めくくったカレンは、
震える両足をかろうじて支えながら
足を踏み出し始めました。
リサも一緒でした。
ビョルンが待っているという
大公妃の部屋の前に着いたカレンは
何度も息を整え、
乾いた唾を飲み込みました。
リサは、
まだ泣き止んでいませんでしたが
これ以上、時間を無駄にすることは
できませんでした。
震える手でノックをすると、
入室を許可する
あっさりした声が返って来ました。
カレンは手のひらの冷や汗を
数回拭き取り、
ようやくドアノブを回しました。
ビョルンは、
寝室のバルコニーに通じるドアの前で
腕組みしながら立ち、
大公妃が残していった
五つの小さな雪だるまを
見ていました。
カレンは、
すべて、自分たちの手落ちだと謝ると
深く頭を下げました。
ビョルンは、ようやく振り返って
二人と向き合いました。
カレンは、
妃殿下が消えてしまった。
使用人を総動員して捜索中なので、
おそらく、もうすぐ・・・と告げると
ビョルンは「消えた?」と
眉を顰め、低い声で問い返しました。
「エルナが、なぜ?」と尋ねる彼も
やはり何も知らない顔をしていました。
鍵のかかったドームの出入り口を
見たエルナは、
まず、現実を否定しました。
寒さで手が固まってしまい、
まともに力が入らないせいで
ドアノブをきちんと回せないのだと
自らを慰めたエルナは、
もう一度、今度はしっかり力を入れて
ドアノブを握りましたが、
いくら力を入れてもドアは開かず
内側で施錠された鍵が
ガチャガチャ鳴る音だけが
高くなりました。
ドアが閉まってしまったという現実を
認めざるを得なくなったエルナは、
今は恐怖で真っ青になり、
「ここにまだ人がいます!
ドアを開けてください!」と
ドアを叩きながら叫び始めました。
こんなはずではなかった。
世の中に、どうしてこんなに
ついていない日があるのか。
「そこに誰もいませんか。
どうかドアを開けてください」という
力が抜けてしまったエルナの叫びが
闇の中に響き渡りました。
しかし、返って来るのは
依然として冷たい静寂だけ。
エルナは、ぼんやりとした目で
辺りを見回しました。
堅く閉ざされたドアと
雲に覆われた夜空。
そして、がらんとした
大聖堂のドーム。
すっぽかされただけでは飽き足らず
他国の大聖堂のてっぺんに
閉じ込められまでした現実を認知すると
泣いているような笑いが出ました。
方向がひどく間違ってはいるものの
一生忘れられない
誕生日になって欲しいという願いが
叶ったようでした。
どうして、こんな馬鹿げたことを
してしまったのだろう。
エルナは、呆然として
空を見上げました。
もっと早く下りなければ
ならなかったのに。
あと、もう少しだけと
未練を断ち切れず、
哀れっぽく振舞っていた結果、
この有様になってしまいました。
開かないドアを諦めたエルナは、
ドームの欄干に近づきました。
目の前がくらっとする高さでしたが
このまま
諦めるわけにはいかなかったので、
この下を通る人たちに
声が届くのを期待しながら、
ここにまだ人がいるので、
ドアを開けて欲しいと
声を張り上げてみました。
しかし、
何の役にも立ちませんでした。
焦ったエルナはハンカチを取り出し
手すりから身を乗り出しました。
しかし、まともに助けを求める前に、
ハンカチが
風に飛ばされてしまいました。
それを捕まえようとしましたが、
危うく手すりから落ちそうになり
エルナは悲鳴を上げながら
床に座り込んでしまいました。
多くの人々の足跡がついた真っ黒な雪が
ドレスを汚しましたが、
それを気にする余裕は
残っていませんでした。
魂が抜けたまま
ブルブル震えていたエルナは、
しばらくして、ようやく立ち上がり
ずっと座っていたベンチに戻ると、
ようやく息がきちんとできました。
エルナは、
ベンチの端に小さくうずくまり
涙で曇った目で遠くの空を見ると
見事なぼたん雪が降って来ました。
赤く凍りついた頬に雪が触れると、
エルナはまだ終わっていない
自分の不幸に気づきました。
エルナは涙声で「むしろ良かった」と
自分を慰めました。
顔も見たくなかったから、
明日の朝まで見なくて済む。
もし明日の朝まで生き残れるなら。
思い出したくなかった考えが
脳裏をかすめると、
それほど力が強くなかった偽悪は
すぐに崩れてしまいました。
道に迷った子供のような目で
周囲を見回したエルナは、
汚れた両手で顔を覆いました。
降りしきる雪の中から
悲しい泣き声が噴き出し始めました。
ドームの管理人は、
通路をぐるっと回って
誰も残っていないか
確認まではしなかったけれど、
これから鍵をかけると
声をかけたかもしれないですし
エルナも、
周りにたくさんいた人がいなくなれば
気づきそうなものなのですが、
色々と考え込んでいて、
周りのことなど、目にも耳にも
入らなくなっていたのではないかと
思いました。
カレンは、
大公妃が何の素振りも見せなかったと
ぼやいているけれど、
エルナの耳に入ることも構わず、
堂々と悪口を言っている人に、
今日は自分の誕生日だから
お祝いして欲しいなんて
言えるわけがありません。
だから、フィツ夫人も、
忘れるなと、
カレンに念を押したのではないかと
思います。
カレンは、本当に役に立たない
メイド長だと思います。
midy様のフィツ夫人についての
コメントを読んでいて、
ところでフィツ夫人は何歳なのかと
思いました。
原作には年齢が書いていないし、
マンガではどう見ても年寄り。
ビョルンがエルナのことを
おばあ様キラーだと思っていることから
もしかして、フィツ夫人は
ビョルンを育てはしたけれど、
乳はあげていないのではないかと
思いました。
もしかたら、フィツ夫人は、
王のフィリップの乳母をしていて、
その時、あまりにも優秀過ぎたので
次期王であるビョルンの教育も
引き受けたのではないかと
妄想してみました。
カレンは、
エルナの誕生日を忘れたり、
エルナが出かけたことにも
気づかなかったし、
midy様のおっしゃる通り、
彼女にフィツ夫人の代理は
務まらないと思います。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
次回で、全話コンプリートですが
こちらで出会えた方々と、
まだまだお話をしたいので、
ディスコードというアプリに
コミュニティを作りました。
参加を希望される方は、
スマホの場合、
画面を下までスクロールして、
月間アーカイブの下のリンクの
お問い合わせから、
メールアドレスをお知らせください。
招待URLをお送りいたします。
手すりの上の五個の雪だるまの画像を
作りたかったのですが、
なぜか、五個と入力してもAIは
六個とか七個の雪だるまの画像を生成し
日本語では通じないのかと
英語で入力もしてみましたが
結果は同じでした。
笑顔の雪だるまは、今回のお話には
不釣り合いかもしれませんが
ご容赦ください。