69話 エルナはドームから出られなくなってしまいました。
一人で行くと言う命令に、
立ち止まった人々の視線が一斉に
レチェンの王子に集中しました。
暗い上に階段がとても高いので
自分たちが捜索をした後に結果を・・
と言われても、
ビョルンは「いや」と言って
淡々と言葉を遮りました。
不意に呼び出されて、
戸惑っていたドームの管理人は
ぎょっとして頭を下げました。
自分が行くと言って、
王子が差し出した手の意味に
気づいた管理人は、
結局、鍵の束と灯りを渡した後に
退きました。
ここで待機するようにと言って
後に続いた一行も退けたビョルンは
ドームにつながった階段が始まる
ドアの向こうに入りました。
メイド長の報告を初めて聞いた瞬間
誕生日を祝ってくれなかったという
理由で家出をしたことに、
ビョルンはあまりにも呆れて
失笑しか出ませんでした。
一国の王子妃である女が、
どうして他国で、
このような情けない騒ぎを
起こすことができるのか。
そんなに、
祝って欲しかったなら、
せめて事前に知らせるべきだったと
怒りが頭のてっぺんまで上がった頃
ふと、ビョルンは、
フェリアへ向かっていた船上の
おそらくベッドの上で、
妻がぺちゃくちゃ喋っていた
「誕生日」のことを思い出しました。
一つの単語が引き起こした記憶が、
波のように押し寄せて来て、
ビョルンを当惑させました。
何度も躊躇いながら、
ようやく口にした
「もらいたい誕生日プレゼントが
一つある」という慎ましいお願い。
「フェリアの首都にある
大聖堂のドームに一緒に上りたい」
という馬鹿馬鹿しいお願い。
「よし、そうしよう」と、
笑いながら自分が快諾したこと。
ほんのりと上気していた頬。
照れくさそうに囁いていた声。
嬉しそうに笑っていた顔。
覚えていることさえ
知らなかった記憶が
あまりにも鮮明でした。
普段とは違っていた
昨日の姿まで浮かび上がると、
パズルの最後のピースが
合わさったように
状況が、はっきりしました。
ぼんやりと、
バルコニーの雪だるまたちを眺めながら
ビョルンは
「大聖堂」と無意識に呟きました。
ビョルンは、
まずそこから捜索しようと告げると、
メイド長が何か答える前に、
妻の寝室を離れました。
大聖堂のドームは、すでに数時間前に
閉鎖されたという事実は
気にしませんでした。
ここのようだ。 いや、
ここでなければなりませんでした。
雪が降る真冬の夜に、
開場時間が終わって
ドアが閉まった大聖堂のてっぺんに
一人で残っているというのは
話になりませんでしたが、
それでもビョルンは
それを望みました。
推測できる場所は、
この階段の先だけだから。
ここでなければ、一体どこで
彼女を探せばいいのか分からない。
これよりもっと悪い状況は
考えたくないから。
だから、むしろ
こんなとんでもないことをするほど
愚かな女であることを願いました。
「フェリア、この変態な奴ら」
螺旋階段の中腹あたりで
立ち止まったビョルンは、
悪口混じりの失笑を漏らしました。
一体なぜ、聖堂にこんなものを作って
こんな状況を引き起こしたのか。
もちろん、すべての国の聖堂が
似たような形をしていましたが
臭くて狭い急な階段を上るようにした
聖堂はフェリアのものなので、
その変態どもたちを罵るのが
最も妥当でした。
フェリアの畜生。 くそったれの階段。
一段ずつ上がるたびに、
ビョルンは、ますます呆れました。
エルナがここを、あの小さな足で、
レースの山のようなドレスを
引きずって上ったという事実が
ますます信じられませんでした。
エルナが突拍子もない根性のある
彼の妻でなかったら。
引き返していたかもしれませんでした。
必死に心を落ち着かせたビョルンは、
さらにスピードを出して
階段を上り始めました。
やがてドームに通じるドアの前に
立った時、
呼吸が多少乱れていました。
しばらく立ち止まって
息を整えたビョルンは、
落ち着いて鍵を握り、鍵を開け
古いドアを開けて、
すべての音が消えたような
静かな世界に足を踏み出しました。
だんだん遅くなったビョルンの歩みは
ガーゴイルの後方に置かれた
ベンチが見える所で止まりました。
青いマントで身を包んだ女性が
ベンチの片隅にうずくまって
震えていました。
ビョルンの口から、
他の誰でもない彼女の名前が、
穏やかなため息をつくように
漏れました。
ほっとすると同時に呆れました。
申し訳ないと思ったけれど
腹が立ちました。
ここにいてくれたことが
有難かったけれど、
ここにいることが嫌でした。
矛盾する感情が入り乱れているうちに
エルナが顔を上げました。
力なく瞬きしていたエルナは
「ビョルン?」と小さく囁きました。
彼は頷いて一歩近づきました。
本当にあなたなのかと、
ぼんやりと周りを見つめていた
エルナの視線が、再び
ビョルンの顔の上で止まりました。
目尻が徐々に細くなり、
空っぽだった瞳に、
少しずつ生気が漂い始めました。
「なぜ、あなたが」と尋ねる
エルナの水気を含んだ瞳に
疑問と恨みが湧き起こりました。
しばらく、
足元に広がる雪に覆われた都市を
見つめていたビョルンは、
ゆっくりと目を上げて、
最後の一歩を踏み出しました。
ビョルンは沈んだ目で
エルナを見つめながら
「こんばんは。二十歳のエルナ」
と挨拶をしました。
まるで理解できない厄介な女。
しかし、きれいで気の毒な女。
そのため、どうしたらいいか
わからなくなる、自分の妻エルナ。
ビョルンは
「お誕生日、おめでとう」と
低い声で言いました。
エルナは「来ないで!」と
鋭く叫びました。
ビョルンが立ち止まっている間に
エルナは、
急いでベンチから降りました。
よろめきながら
後ずさりする小さな足跡が、
かなり厚く積もった白い雪の上に
刻まれました。
この男は本当にひどい。
今、何を聞いたのかに気づくと、
エルナの心が砕けました。
どうしてそんなことが言えるのか。
これではダメなのに。
一体彼にとって自分は何なのか。
どれだけ、
取るに足らなくて滑稽な存在なのか。
エルナは、
どうして思い出したのかと
尋ねました。
いっそのこと、永遠に
忘れてしまえば良かったのにと
思いました。
そして、エルナは、
どうして来たのかと尋ねました。
二度と探さないで欲しいと
思いました。
エルナは、
一体、どうして、今さらここまでと
尋ねました。
砕けた心の隙間から
熱い感情が沸き起こりました。
恨んで憎んで、あらゆる努力をして
自分を悪く見せようとしても、
自分はこの男に
恋をしているという事実が、
さらにエルナを傷つけました。
目の前にいるビョルンが
虚像ではないことに気づいた瞬間、
エルナは、それに気づきました。
彼はそうでないことを
よく知っているけれど、
それでも自分はこんなにも
彼を愛している。
憎むべき今も、相変わらず
彼は救世主のようで、
邪悪な龍を退治して魔女の呪いを解き
寒くて途方に暮れた瞬間に
必ず現れてくれる童話の中の王子様。
彼のキス一つで、
すべての悲しみと苦痛が
きれいに姿を消し、
長く幸せに暮らせるようになる
眩しいほど美しい自分の救い主。
そうではないことを知っているのに
心は止まりませんでした。
それで苦しいのに、
それでも止めたくない自分が
エルナは嫌でした。
この男は本当にひどいし、
自分はあまりにも馬鹿みたいでした。
エルナは、
「行って。顔も見たくない!」と
言いました。
激しい恨みの言葉とともに、
騒々しい泣き声が沸き起こりました。
涙を拭うハンカチさえ
残っていないという事実が、
エルナをさらに悲しませました。
その瞬間、
ビョルンがやって来ました。
エルナは、
頬に触れた大きな手の感触で
彼の存在に気づきました。
いつもは少し冷たい体温が、
この上なく温かく感じられました。
背を向けようとすると、
ビョルンは力を込めて
エルナの顔をつかみ、
もう片方の手に持ったハンカチで
ゆっくり涙を拭い始めました。
長い間、エルナは大声で泣きました。
そんな自分の姿が、
どれほど滑稽でみっともないかを
考えると、
なかなか涙が止まりませんでした。
ようやく泣き止むと、
ひょっとして、
来てくれるかと思って
待っていたと
エルナは諦めたように
本音を打ち明けました。
なぜこの寒くて寂しい所を
離れられなかったのか。
何が自分の足を引っ張ったのか。
その未練の実体を、今では
受け入れることができました。
エルナは、
少しでも自分のことを特別だと
思ってくれないかと頼むと、
目をギュッと閉じて開けることで
溜まっていた涙を払い退けました。
そして、
愛でなくてもいいので、
ほんの少しだけ・・・と言うと、
空中をさまよっていた
エルナの視線が
ビョルンに向かいました。
ほんの少しだけ心が欲しい。
最後のプライドまで捨てても
どうしても口にできない
その言葉を宿した唇が震えました。
今やビョルンは、
両手で凍りついた頬を包み込みながら
エルナを見下ろしていました。
その落ち着いた目つきに込められた
感情が何なのか分からず
途方に暮れた瞬間、
鐘が鳴り始めました。
エルナは、視線を
鐘楼から、再びビョルンに
移しました。
一緒にここに上れば
愛が叶うという薄情な迷信が
鐘の音の中に浮び上がりました。
心を乱された、
あの数多くの恋人たちの姿も
一緒でした。
エルナはすすり泣きながら
キスしてくれないかと囁きました。
こんな格好で、
いきなりこんなことを言う自分が
どのように見えるか、
一瞬、忘れたいと思いました。
じっと見つめていたビョルンが
虚しい笑みを浮かべたのは、
二度目に鐘が鳴り始めた時でした。
ビョルンは眉を顰めて、
顔も見たくないのではないかと
尋ねました。
しかし頬を撫でる手は優しかったので、
エルナは勇気を出して、
キスは目を閉じてするものだからと
答えました。
ひょっとしたら、
鐘の音が止むのではないかと
焦るほど、エルナの口調も
焦燥感を帯びて行きました。
不安と焦燥に駆られた分、
切実でした。
ふと気づいたその感情に
胸が痛んだ瞬間、
ビョルンが近づいて来て、
柔らかい息遣いが
感じられるかと思ったら
唇が重なりました。
エルナは喜んで目を閉じました。
祝福のような鐘の音の中で
始まったキスは、
静かに降るぼたん雪が、
その余韻を消す瞬間まで続きました。
温かい息を吹き込むように。
静かに、優しく。
永遠の幸せを約束する
童話の中のキスのように。
底なしに惨めなのに
ワクワクしました。
勘違いだと分かっているけれど
喜んで信じたいと思いました。
こういうのが愛なら、
愛はこの男のように悪いもので、
それが悲しかったけれど
嬉しさを感じました。
階段を下りる時、
少なくとも
上った時の二倍の時間がかかりました。
一人なら、いくらでも急ぐことが
できたはずでしたが、
エルナと一緒なので、
なかなかスピードが出ませんでした。
ビョルンは灯りを持って
先頭に立ちましたが、
数段に一度ずつ、習慣的に
後ろを振り返りました。
フワフワのドレスの裾を
引っ張りながら、エルナは
屈することなく彼の後を追いました。
階段の終わりが近づいた時、
その顔に動揺の色が浮かびました。
ビョルンは、微かな光と
人の気配が流れ込む出口と
そわそわするエルナを
交互に見ました。
何を恐れているのかを悟ると、
笑いが漏れました。
こんなことをしておきながら、
今更、慎ましく怯える態度は
滑稽でしたが、ある程度、
理解できる部分もありました。
短く悩んだ末に、
灯を下ろしたビョルンは
脱いだ自分のコートで、
エルナをしっかりと包むと、
無言で、
さっと妻を抱き上げました。
そして、
慌てふためいているエルナに、
ビョルンは、
見たくないなら目を閉じてと命令し
そういうのが得意ではないかと
微笑みながら、
冗談を付け加えました。
ビョルンは、
抵抗するのを止めたエルナを
腕に抱いたまま、
残り少ない階段を降りました。
出口のドアが開くと、
エルナは隠れるように
彼の胸に顔を埋めました。
本当にそこにいたのかと、
驚いてざわめく人々の中を、
ビョルンは大股で歩きました。
誰も、あえてこの騒動について
言及することさえできないような
尋常な態度でした。
そして、馬車が再び止まるまで、
ビョルンは
妻をしっかりと抱きしめた腕を
緩めませんでした。
ベッドの上で聞き流していた
エルナのお願い。
ビョルンがこれを思い出したのは、
奇跡に近いと思います。
そして、エルナの行き場所が
そこしか思い当たらないことで、
ビョルンは、エルナのことを
あまりにも知らなさすぎることに
後悔したのではないかと思います。
ヒラヒラフワフワ、
レースがたっぷり使われているので
おそらく重いであろうドレスを着た
小さなエルナが、
ビョルンでさえ上るのが大変な
階段を上ったことで、
エルナがどれだけ、
ビョルンと一緒にドームの上ることを
楽しみにしていたかも、
分かったのではないかと思います。
そして、皆に合わせる顔がないと
思っているエルナの気持ちも
ビョルンは、
きちんと理解してくれました。
遅々とした歩みではありますが
他の人の感情に無関心だった
ビョルンが、エルナの気持ちを
思いやれるようになったのは、
すごい進歩だと思いました。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様からの
温かい励ましとお心遣いと
差し入れのおかげで
全話コンプリートできました。
本当にありがとうございました。
問題な王子様が終わりましたので
今度はバスティアンに
チャレンジしたいと思います。
こちらは「泣いてみろ乞うてもいい」の
登場人物も出て来るので、
読むのがとても楽しみです。
予定としては
月から木が「泣き乞う」
金から日が「バスティアン」を
ご紹介したいと思います。