2話 オデットは父親の賭けの対象になってしまいました。
夜間の乗合馬車は
歓楽街の入り口で止まり、
オデットは、
自分をここまで連れてきた
賭博場の警備員と共に
馬車から降りました。
早く行くようにと催促する男の声が
物思いに耽っていたオデットを
我に返らせました。
彼女はきらびやかな光に染まった街へ
一歩を踏み出しました。
顔を黒いベールで隠していたので
視界がぼやけていましたが、
すでに、オデットは、
父親が何度も起こした問題を
収拾しに来たので、
目的地を訪ねるのは
それほど難しくありませんでした。
ちょうど賭博場の建物の入口に
入ったところで、
「あのね、お嬢さん」と
男がオデットを呼び止めました。
足を止めたオデットは、
ゆっくりと頷くことで、
話を聞くという意思を見せました。
しかし、男は何も言わず、
深いため息をつきました。
乗合馬車の中でも、
彼は、何度もこのように
言葉を濁していました。
しばらく考え込んでいたオデットは
金額が大きいのかと、
落ち着いて問い返しました。
警備員は今回も気軽に
返事をすることができませんでした。
できませんでした。
乞食公爵の娘は
真夜中にやって来た
賭博場の警備員を見ても
それほど驚きませんでした。
じっと彼を見つめて
疲れたため息をつくと、
外出の準備をする時間をくれと
頼んだのが全てでした。
おそらく、以前のように
賭博をして借金をした程度のことだと
信じている様子でした。
気を引き締めた警備員は、
「いいえ」と答え、
断固として首を横に振りました。
賭博場に売られた女性は
オデットだけではなく、
彼は、今まで、
そのような数奇な境遇に陥った
賭博師の娘と妻を
数えきれないほど見て来たし、
彼女たちの末路がどんなものかも
よく知っていました。
運が良ければ、
お金を代わりに返すという合意が
得られるかもしれませんが、
オデットを手に入れた連中の目的は、
最初から、乞食公爵の娘だったので
そのような寛容さを示すとは
思えませんでした。
彼は感情を消した目で、
二階に続く階段を指差しました。
ゴミのような父親のせいで
身を滅ぼすことになった女性が
可哀想でしたが、そのような
あさましい同情心に巻き込まれて
自ら怒りを
招くことはできませんでした。
首と腰をまっすぐに伸ばしたオデットは
赤いカーペットが敷かれた階段を
ゆっくりと上り始めました。
貴族の令嬢には見えないほど
みすぼらしいドレスの裾が、
水の上を歩くような
柔らかな足取りに合わせて
波打ちました。
決意を固めた彼は、
急いでオデットの後を追いました。
まもなく直面する悲劇を知らない
乞食公爵の娘は、この上なく孤高な姿で
ぬかるみの中を
泳ぐように歩いて行きました。
泣き落としが通じないことに気づいた
乞食公爵は、
自分が誰なのか知っているのか。
自分をこんな風に扱ったら
大変なことになるだろうと
このような部類が口癖のように
繰り返し使う、くだらないほらで
今度は彼らを脅迫し始めました。
あらゆる煌びやかな爵位と家柄を
次々と並べ立てていた賭博師は、
皇室の女性に
むやみに触れたという知らせが
皇帝の耳に入れば、
お前たちは絶対に無事ではいられないと
ついに皇帝を武器にしました。
動物園の猿でも見るように、
彼を見物していた将校たちは
一斉に大笑いしました。
息が切れるほど、
クスクス笑っていたエーリッヒは
ついには、
涙を少し流すことさえしました。
手の甲で涙を拭ったエーリッヒは、
バスティアンの方を向いて、
彼は皇帝の姪である淑女に
謁見することになったそうだと
言いました。
光栄だと、
クスっと笑って、
誠意のない返事をしたバスティアンは
ゆっくりとした足取りで
窓際に近づき、窓を少し開けました。
そして、窓枠に斜めに寄りかかって
無意味な詐欺劇を見ていました。
乞食公爵の戯言が大げさになるほど、
見物人の嘲笑も高まっていきました。
ノックの音が聞こえて来たのは、
この泥沼に耐えるのに、
そろそろイライラし始めた頃でした。
バスティアンは、
まだ火をつけていない葉巻を
くわえたまま振り向きました。
騒ぐのを止めた乞食公爵と
見物人たちの視線も一斉に
カードルームの入口に向かいました。
突然訪れた静寂の中で、
ゆっくりとドアが開きました。
ライターを下ろしたバスティアンは
腕を軽く組んで、
新しい幕が開くのを見守りました。
古いコートと手袋、帽子。
その上に垂れ下がった黒いベールまで。
くすんで、
みすぼらしい身なりをした女が
開いたドアの向こうに立っていました。
その後ろにいる巨漢の男は、
おそらく乞食公爵の娘を迎えに行った
警備員のようでした。
ゆっくりと辺りを見回した女は、
緊張感が漂う静寂の中、
そんなに急ぐ気配もなく、
父親の元へ近づきました。
そして、再び泣き出した父親の前に
立ちはだかった女は、
父の借金がいくらなのか
教えて欲しいと、
はっきりと力を込めて尋ねました。
状況をきちんと
把握できていないようでした。
あちこちで嘲弄と野次が
飛び交い始めましたが、
女は微動だにしませんでした。
小生意気な姿勢で立ち、
そのすべての屈辱に耐えました。
眉をひそめて笑ったバスティアンは、
くわえていた葉巻を窓枠の上に
置きました。
窓から差し込んだ月明かりが、
制服を飾っている徽章と
プラチナブランドの髪を
さらに青白い色調に染めました。
舌打ちをしたエーリッヒは、
ゆっくりと女の前に近づくと、
何か勘違いをしているようだけれど
お嬢さんは、借金を返すために
呼ばれたのではないと言いました。
それでは父親を連れて行くと
毅然として答える女の声は、
この混乱に似合わず、
冷たく澄んでいました。
エーリッヒは、
それは困る。 父親は帰しても
あなたは残らなければならないと
言いました。
女が、
それは、どういうことかと尋ねると
エーリッヒは、
父親が、あなたを掛け金として
差し出した。
そして、彼がそれに勝利したと答えると
カードルームの窓際に立っている
長身の男を目で指しました。
オデットはぼう然として
息を呑みました。
何度かゆっくりと瞬きした後、
その言葉の意味を
まともに理解することができました。
震える両足に力を入れたオデットは、
釈明を要求するかのように
父親を見つめました。
彼は、
本当に申し訳ない。
こんなことになるなんて
思わなかった。
明らかに勝てるはずだったのにと
顔を苦しそうに歪めたディセン公爵は
弁解を続けることができずに、
俯きました。
自分の手に負えないことを犯した時に
度々見せて来た卑怯な姿でした。
オデットは怯えた目で
自分を取り囲んでいる集団を見ました。
軍人について、
あまり知らないオデットも、
その制服から、彼らが
海軍省の将校だということくらいは
分かりました。
首都の本部に勤める軍人は、
ほとんど上流階級出身なので、
裏通りの賭博場で犯した問題くらい、
いくらでも収拾できる力を
持った者たちでした。
誰かが、冷やかしの口笛を吹き始めると
すぐに、それは
カードルーム中に広がりました。
顔が火照るような暗示を含んだ冗談と
クスクス笑う声も続きました。
しかし、
オデットが聞くことができるのは、
不規則に鼓動する
自分の心臓の音だけでした。
全身の血が、
冷めていくようでしたが、
震える唇から流れ出る息遣いは
ますます熱くなって行きました。
窓際に立っていた男が
動き始めたのは、
ひどいめまいのせいで、
体を支えることさえ
難しくなった時でした。
無駄だと分かっていても、
オデットは閉じているドアを
見つめました。
運良く、あそこまで逃げられとしても
ドアの向こうには
警備員が立ちはだかっているだろう。
それよりはむしろ、窓から
飛び降りた方がいいのではないかと
とんでもない衝動に駆られた瞬間、
大きな男の影が
頭の上に垂れ下がりました。
いつの間にか
目の前まで迫って来た賭博場の勝利者が
そこに立っていました。
最初に女は、
恥ずかしくないのかという
破格的な言葉を発しました。
バスティアンは目を伏せながら
そっと自分に売られた女を見ました。
黒いベールの向こうに、
ぼんやりとした顔の輪郭が見えました。
女は、
帝国の将校がこのような低級な賭博に
参加したことを非難しました。
そして、人を売買する契約は
そもそも成立しないということを
まさか知らないわけではないだろうと
細く震え始めた声で、
屈することなく話し続けました。
そのくだらない虚勢が情けなくて、
バスティアンは少し笑うと、
こんな場所で法と道徳を求めるのは
あまり良い解決策ではないようだと
反論しました。
しかし、うろたえるとばかり思った女は
軍人の名誉と品位が
いつから時と場所を
わきまえるようになったのかと
意外にも挑発的に言い返しました。
あまり賢明ではなかったけれど、
少なくとも父親のように、
みっともなく泣かない点一つは
高く評価するに値すると思いました。
女は、
父親のミスを、
どうか一度だけ許して欲しい。
代わりに父親の借金を返すと、
まっすぐな姿勢で、
厚かましく要求しました。
窮地に追い込まれた境遇に
似つかわしくない態度でした。
バスティアンは、
「どうしよう?嫌だ」と
気が進まなさそうに返事をしました。
依然として口元に浮かんでいる
形式的な笑みが、冷酷な目つきを
より一層際立たせていました。
女は震えていて、これ以上、
隠すことができなくなった恐怖が
全身から滲み出ていました。
サディスティックな快感を与える
光景でしたが、このような圧制は
バスティアンの好みでは
ありませんでした。
バスティアンは、
命令は自分が下す。
自分が賭けで手に入れたのだからと
言って、最後の準備をしました。
あんな女と絡んで嘲笑される
遊び道具の役割は
この程度で十分でした。
バスティアンは、これ以上
我慢する気はありませんでした。
しかし、このまま女を行かせれば、
もっと面倒なことが続くだろうと
思いました。
期待感に満ちた一行の顔を見た
バスティアンの視線が、
再び乞食公爵の娘に向かいました。
女を隠しているベールが
ふと気に障りました。
あれを取り除かせて侮辱を与えれば、
何とか満足のいく見せ物に
なるだろうと思いました。
もちろん、そのすごい美貌を
一度確認してみたいという
安っぽい好奇心も、
全くなかったわけでは
ありませんでした。
バスティアンは、
そのベールをめくれと
簡潔に命令しました。
そして、鋭い警戒心を露わにする女を
じっと見つめながら、
そちらのお金には興味がない。
お金の代わりにもらった
そちらも気が進まない。
しかし、一方的に、
損害を被るわけにもいかないので、
顔を一度見る程度で済ませると、
何の情熱もない説明を続けました。
顔色を窺っていた公爵は、
早く望み通りにして、
ここを離れようと、
娘を催促し始めました。
苦境から逃れることができて、
ただ嬉しい顔をしているどこにも、
娘を辱めた父の罪悪感は
見当たりませんでした。
喉元までこみ上げてきた怒りを
飲み込んだオデットは、
濡れた目を上げて男と向き合いました。
あまりにも恥辱的な要求でしたが、
これが最善の解決策であることを
よく知っていたので、
拒否することはできませんでした。
今のところ、あの男が
オデットの唯一の希望でした。
ベールの端を握った女性は
約束を守れるかと尋ねました。
色あせた手袋をはめた手が
ブルブル震えていましたが、
声だけは、驚くほど冷静でした。
名誉と品位に続いて信義。
賭博場で見つけるには
あまりにも高潔な性質が
滑稽だったけれど
バスティアンは、快く頷きました。
長い一日。彼は疲れていて、
何よりもこのショーが退屈でした。
女の躊躇いが長引くと、
「早く」と父親が前に出ました。
娘のベールを、直接、
剥がすかのような勢いでした。
その手を断固として拒否した女は
自らベールを捲り上げました。
細長い首と力を込めて閉じた唇、
端正な鼻筋。
黒いレースの下に隠されていた
女の顔が徐々に明らかになるほど
見物人たちの興奮も
次第に高まって行きました。
バスティアンは落ち着いた目で
女を見ました。
その気だるそうな顔が眉を顰めた瞬間
ついに、彼女がベールを脱ぎました。
一瞬、
静かになったカードルームの中で
乞食公爵の娘が、
ゆっくりと頭を上げました。
バスティアンは、
自分を真っすぐ見つめる彼女の目に
喜んで向き合いました。
女は、青と緑が絶妙に混ざった瞳を持ち
怯えた幼い獣のようでもあり、
疲れ果てた老婆のようでもある
その大きな目には不思議なほど、
澄んだ光が宿っていました。
息を殺していた将校たちが
ざわめき始めましたが、
バスティアンは、
何の動揺もない視線で
目の前の女を見守りました。
赤く染まった目元と、長い睫毛の影が
とても目立って見えるのは、
おそらく女性が、あまりにも
色白のせいのようでした。
夜のように黒い髪と青白い肌の対比が
女性の印象を、
さらに鮮明に際立たせていました。
斜めに傾いたバスティアンの口元に
少し虚脱感が入り混じった笑みが
浮かびました。
乞食公爵はひどい詐欺師だけれど
賭け金に関しては
決して嘘をついていないことは
明らかでした。
少なくとも、
彼の娘が美しいという点だけは
完璧な真実でした。
もし、ゲームに勝ったのが
バスティアンでなければ
オデットは、クズな父親のせいで、
将校たちの誰かの慰み者に
なっていたのだと思います。
賭けをするためなら、
平気で娘を売るような父親の元に
生まれたオデットが哀れです。