76話 レイラはカイルと再会しました。
長い沈黙を先に破り、カイルは
ビルおじさんのことを聞いたと
言いました。
レイラは依然として、
テーブルの端だけを見下ろしながら
「うん」と短く答えました。
カイルは、もう少し目を凝らして
レイラを覗き込みました。
このカフェに入って
向かい合って座った後、
レイラは、一度も
彼を見ていませんでした。
カイルはレイラに謝りました。
重々しく告げた謝罪の言葉に、
レイラは初めて頭を上げて、
「なぜ?」と尋ねました。
眼鏡の向こうに見える瞳いっぱいに
疑問を湛えていました。
カイルは、
その煌めく目に安堵しました。
ようやく、本当にレイラと
向き合った気がしました。
カイルは、
何も助けられなかったし、
そんなことも知らずに、
バカみたいな手紙を送り続けたからと
答えました。
レイラは、
そんなことを言わないで欲しい。
カイルは何も間違っていない。
これはカイルとは関係ない、
おじさんと自分の問題だと言うと
断固たる態度で、
ゆっくりと首を横に振りました。
そして、
あれはただの不幸な事故だった。
今は、すべて解決したと言いました。
カイルは、
本当に、もう大丈夫なのかと
尋ねました。
レイラは「うん」と答えると、
再び長い目を伏せました。
何度も引っ張っている
セーターの袖は、
もう手の甲をすべて隠すほど
下がっていました。
カイルは、
何かあったら正直に話して欲しい。
何でも手伝うと申し出ました。
レイラは、
なぜ、そんなことを言うのかと
尋ねました。
カイルは、
レイラが、とても大丈夫そうに
見えないからと、
力を込めた声で答えました。
袖を引っ張るのを止めたレイラは、
ゆっくりと息をすると、
両手をテーブルの下に隠しました。
カイルは、
レイラが自分のことを
知らないのかと尋ねました。
カイルは、
不吉な予感が正しかったことを、
ようやく今、確信しました。
レイラを目の前にしてみると、
彼女は一層、
彼女らしくありませんでした。
ビルおじさんは、
確かに最善を尽くして
レイラを愛したけれど、まだ、
彼女が言えない気持ちを察して
見守るほど繊細ではありませんでした。
そしてレイラは、
愚かなほど自分の気持ちをよく隠し
大変だ、苦しい、助けてくれと
手を差し伸べられない、
無駄に賢い人でした。
それに気づいた後、カイルは
レイラを注意深く観察する
癖ができました。
彼女が勇ましく、面白がって笑うほど
より深く見つめるようになりました。
もちろん、探ろうとする彼より
隠そうとするレイラの方が
はるかに上手で、
まだ、心の全てを
推し量ることができない方が
多かったけれど、
それでも、今のように、
ぼんやりとした予感くらいは
持つことができるようになりました。
カイルは、
何ヶ月も、自分の手紙に
一度も返事をくれなかったことと
このような態度で自分に接するのも
全くレイラらしくないと言いました。
レイラは、
人は変わるものだと答えると、
ゆっくり目を開けて、
カイルを見つめました。
落ち着いて沈んだ目つきが、
少し冷ややかに
感じられるほどでした。
レイラは、自分が、
カイルの知っていた
自分の姿ではないからといって、
それが、
自分らしくないわけではない。
これが今の自分だと言いました。
カイルは、
たった二つの季節が過ぎた間に、
他でもないレイラが変わったのかと
尋ねました。
レイラはカイルを直視しながら、
そんなに短い時間だけではないと思う。
それに自分たちは、
もう以前と同じような関係ではない。
返事をしなかったのは、
それが自分の答えだったから。
自分たちは終わった。
もう何も元に戻せないと、
一言一言、力を込めて話しました。
そして、レイラは、
カイルのことが嫌いになった。
エトマン夫人が許してくれても
もう、カイルが嫌いだ。
カイルと二人きりで、
故郷を離れて逃げて結婚するなんて
そんなことは考えられないと言うと
呆然としているカイルを残して
席を立ちました。
レイラは、
こんなことを言いたくなかった。
自分たちの友情だけは、
大切な思い出として
残しておきたかったから、
返事をするのを避けていたのに、
結局、こうなってしまったと
言いました。
カイルは、
嘘をつくなと言い返しましたが、
レイラは、
自分が答えられるのはこれだけ。
自分を少しでも思う気持ちが
残っているなら、
二度と会わないようにしよう。
人々がカイルと自分の名前を
一緒に口にするのも、もう嫌。
だから、お願いと言いました。
目を開けたまま、
夢を見ているような気分に襲われた
カイルは何も答えられませんでした。
その間に、レイラは荷物を持って
カフェを離れました。
ドアベルが鳴り響いた後、
カイルは我に返りました。
彼は、レイラを急いで追いかけて、
自転車に乗ろうとした彼女の肩を
つかみました。
首を回して彼を見るレイラの目は、
今にも涙を流しそうなほど、
赤くなっていました。
そのせいで、カイルは、
これ以上何も言えませんでした。
彼女は、まるで、
ひびが入った窓ガラスみたいで、
もう少し追い詰めたら、
砕けてしまいそうでした。
彼の手を振り切ったレイラは
急いで自転車に乗って、
道の向こうに遠ざかって行きました。
その後ろ姿が見えなくなった後も、
カイルはしばらくの間、
その場に立ち尽くしていました。
カイルは、
何かが起こったに違いないと
確信しました。
その何かを必ず見つけ出して、
止めさせようと思いました。
復旧中の温室を見たリエットは
これは完全にめちゃくちゃだと
面白いといった風に指摘しました。
クロディーヌが睨んでも全く気にせず
クスクス笑っていました。
クロディーヌは、
こんな悲劇の前で笑うなんて、
こんなに非情な人だとは思わなったと
非難しました。
リエットは、
驚いたからだ。アルビスの天国が
一夜にしてこんなことになるなんて
誰が予想できたのかと
言い訳をしました。
リエットは、
注意深く辺りを見回しました。
前回の訪問時には、
完璧に美しい楽園を具現していた温室が
凍死した植物を取り除いたために、
至る所、花壇がえぐられていて、
爆撃を受けた廃墟のように
見えたりもしました。
リエットは、
これほどの事故を起こした庭師を善処し
ずっとアルビスで働けるように
配慮するなんて、
さすが全帝国の尊敬を一身に受ける
名家らしいと言うと、クロディーヌは
あの子が、かなり満足の行くように
愛人の役割を果たしているようだと
言いました。
リエットは、
ブラントの令嬢が、
そんなことを口にするなんてと驚き
少し目を見開きました。
しばらく唇を噛み締めていた
クロディーヌは、すぐに
本来の余裕のある表情を取り戻して
失言したことを謝りました。
リエットは、
謝る必要はない。
嫉妬するブラントの令嬢が
久しぶりに人間らしく見えて
素敵だと言いました。
嫉妬?と聞き返して、
首を横に振ったクロディーヌは、
先に温室を抜け出しました。
アルビスに到着したばかりの
リエットを連れて、ここへ来たのは、
彼が、いけしゃあしゃあと
このように、ずうずうしく
戯ればかりすることを知りながらも
彼に慰められたかったからでした。
もしかしたら
甘えたかったのかもしれませんでした。
そして、一番滑稽なのは、
そんなリエットの態度に
慰められる自分でした。
二人はお茶が用意された
小さな応接室に向かいました。
ヘルハルト公爵を除く
すべての家族が集まった席の雰囲気は
賑やかで、
和気あいあいとしていました。
クロディーヌとリエットは、
それぞれの場所で、
公爵の婚約者と仲の良い従兄として
巧みに、
それぞれの役割を果たしました。
時々、テーブル越しに
リエットと目が合うたびに
クロディーヌは、
もし両親の選択がヘルハルトではなく
リンドマンだったら
どうだっただろうかと考えました。
しかし、その瞬間さえクロディーヌは、
一人娘に、リンドマン侯爵夫人ではなく
ヘルハルト公爵夫人の座を
与えようとした両親の選択は
正しかったということを
知っていました。
世の中は急速に変化するだろうし
もしかしたら、その変化は、
旧時代の象徴のような貴族たちに
最も過酷に
押し寄せるかもしれませんでした。
帝国の名高い金融家である
ブラント一家は、
誰よりも、そのような情勢を読み取る
目利きに優れていました。
娘という理由で、正式な後継者教育を
受けることはできませんでしたが、
生まれつきの感覚と
肩越しに見て学んだ知識を持つ
クロディーヌもそうでした。
だからヘルハルトでした。
煌びやかに輝いた数多くの名前が
変革の波に流されて
消えていくとしても、
ヘルハルトは堅固に生き残り、
新しい時代の栄誉を享受するだろう。
クロディーヌが望む、
決して過去にならない、
現在の栄光が永遠に続くそんな未来が
ヘルハルトの名の中にありました。
クロディーヌの結婚式の前までに、
温室が、本来の姿を
取り戻さなければならないと
いつの間にか話題が、
来年の夏に迫った結婚式に移ると
クロディーヌは、
微笑ましい貴婦人たちの視線の中
控えめな恥じらいを見せながら
目を下ろしました。
しばらくして顔を上げると、
リエットの、
優しい茶色の瞳が見えました。
いたずらっぽく優しいその目つきが
子供の頃から、ずっと好きだったし、
もしかしたら、これからも、
そうだと思いました。
しかし、もう戻るには、
あまりにも遠い道を
来てしまいました。
微かに笑みを浮かべたクロディーヌは
再び姿勢を正しました。
振り返ることも、
後悔することもないだろうから
クロディーヌが選んだ未来は、
予想した通りの
姿のままでなければなりませんでした。
そのために断念した幸せまで
すべて合わせた分、完全無欠に。
クロディーヌの結婚話が終わると、
自然にリエットの縁談話になりました。
クロディーヌもよく知っている、
良い家門で育った、
美しくて優しい令嬢なので、
リンドマン家としても
損することのない結婚のはずでした。
夕食まで時間があったので、
クロディーヌは頭痛を言い訳にして
客用寝室に戻りました。
メイドが薬を取りに行っている間、
クロディーヌは暖炉の前に座って
じっと炎を見つめました。
彼女が知っているレイラは賢くて、
自分の身の程に合わないほど
高潔な自尊心を持っていました。
そのような女は、
男の陰に隠れた愛人として
生きていくことができないから、
時がくれば、
自ら消えてくれるだろうと
思いました。
しかし、常に「万が一」というものが
存在する可能性がある。
クロディーヌは無防備な状態で、
万が一のことに直面する
無謀なことをする気は
少しもありませんでした。
その決心を固めた頃、
薬を取りに行ったメイドが
戻って来ました。
クロディーヌが姿勢を直して座る間
小走りで近づいて来たメイドは、
カーペットの端に躓いて
倒れてしまいました。
けたたましい悲鳴とともに、
お盆と薬瓶、
水の入ったコップが転がる音が
響き渡りました。
眉間にしわを寄せたまま
立ち上がったクロディーヌは
ゆっくりとメイドの前に近づき
大丈夫かと尋ねました。
顔を真っ赤にしたメイドは
慌てふためいて体を起こしました。
メイドは、
本当に申し訳ないと謝りました。
クロディーヌは、
グラスの破片で切った女中の手の甲から
血が流れているのを見て、
大丈夫ではないみたいだと
指摘しました。
メイドは、
大したことではない。
ただ少しチクッとするだけなので
こんな傷はすぐに・・・と
言いかけましたが
クロディーヌは微笑みながら
「いいえ」と言って、
メイドの言葉を遮りました。
そして、右手が使えなくなったから、
自分の世話をするのが難しくなったと
言いました。
その言葉にメイドが戸惑っていると
クロディーヌは、
そうではないかと確認しました。
顔色を窺っていたメイドは、
「はい」と返事をすると、
急いで頷きました。
ブラント家から付いて来た彼女は
幼い頃から
クロディーヌの世話をして来た
忠実なメイドで
口が重くて機転が利き、長い間
クロディーヌの寵愛を受けて来ました。
しばらくして、
メイドの怪我をした右手に、
しっかりと包帯が巻かれました。
彼女と一緒にクロディーヌは、
悠々とエリーゼと貴婦人たちが
談笑している応接室に向かいました。
クロディーヌの予想通り、
怪我をしたメイドを見たエリーゼは
クロディーヌが不自由そうなので、
この家のメイドの一人を付けてやると
提案しました。
しかし、クロディーヌは、
貴賓を迎えるために、
アルビスの使用人は皆忙しいので、
自分が仕事を奪うわけにはいかないと
断りました。
エリーゼは目を丸くしました。
彼女は、
メイドなしではいられないし
自分たちの気持ちも落ち着かないと
言いました。
すると、クロディーヌは、
レイラを呼んでもらえないかと
頼みました。
エリーゼは、
庭師の養女のレイラのことかと
尋ねました。
クロディーヌは、
彼女とは子供の頃から会っていて
気楽な仲だし、今は冬休み中なので、
レイラも忙しくないだろうから
許してもらえるなら、
レイラを数日そばに置きたい
と頼みました。
ブラント伯爵夫人に睨まれても、
クロディーヌは意に介さず
丁寧に自分の意思を伝えました。
エリーゼは、
経験のない彼女が、
クロディーヌの世話をできるかどうか
分からないと心配しましたが、
クロディーヌは、自分のメイドが、
手が不自由でやりにくい仕事だけ
数日手伝ってくれれば良いので、
それほど難しくないだろうし、
実は、彼女を
話し相手として置きたいと言いました。
エリーゼは、
確かに子供の頃から親しかったので
レイラが一番楽かもしれないと言って
頷くと、鐘を鳴らしてメイドを呼び
レイラを連れて来るよう命令しました。
カイルはレイラの身に何が起こったか
知らないので、自分の思いの丈を
レイラにぶつけているけれど、
彼女にとって、
それは苦痛でしかないと思います。
また、レイラは、
クロディーヌという婚約者がいる
マティアスの愛人になったことでも
苦しんでいる。
そして、今度はクロディーヌが
レイラをメイドとしてこき使って
苦しめるのでしょうか。
とことん苦しめられるレイラが
可哀想でなりません。
クロディーヌは子供の頃から
リエットが好きだったようですね。
でも、賢い彼女は愛を選ぶより
マティアスと結婚することが
賢明だと考えている。
でも、その既成観念が
彼女を苦しめているので
ついリエットに
頼りたくなるのかもしれないと
思いました。