77話 クロディーヌはレイラをメイド代わりにしようとしています。
レイラは何と言われたのか
すぐに理解できませんでした。
確かに耳を傾けて聞いたけれど、
それらの言葉は、
めまぐるしく、頭の中を
グルグル回るだけで、
明確な意味を成していませんでした。
その心を見抜いたかのように、
エリーゼは、
当分の間、クロディーヌを
助けなければならない。
報酬は十分に払うと、
もう一度、命令しました。
しかし、レイラが戸惑っていると
エリーゼは、
クロディーヌの話し相手になることは
幼い頃から慣れているのではないか。
それ以外は、クロディーヌのメイドが
やりにくい仕事だけ手伝えばいいので
大して大変な仕事はないだろうと
言いました。
そして、彼女は眉を顰めて
不愉快な気持ちを露わにしながら
まさか断るつもりはないだろう。
クロディーヌがあれほど愛した温室を
台無しにしたビル・レマーに
善処した恩恵を考えれば、
クロディーヌに、
このような些細な助け一つ
できないでいるわけには
いかないだろうと言いました。
ビル・レマーの名前を吐き出す
彼女の口調には、
あえて隠す気のない怒りが
そのまま込められていました。
ああ、あの庭師と、声を潜めて話す
他の貴婦人たちのざわめきが、
その冷たい命令の後に続きました。
一歩離れた所で状況を観望していた
クロディーヌは、
あまり負担に思わないように。
レイラをそんなに煩わせないし
簡単なことだけ手伝ってくれれば、
残りの時間は、この邸宅で
自分の仕事をしながら
過ごしてもいいと
優しい一言を加えました。
クロディーヌは、
青ざめて血の気のないレイラの顔を
注意深く見ました。
少なくとも、
狡猾で厚かましくないという点では、
かなり高い点数を与えるに
値する子でした。
クロディーヌは、
「レイラ、お願い。いい?」と
たった一つの答えに向かって
上手にレイラを駆り立てました。
向かいに座っているリエットが
唇の形だけで
「おい、クロディーヌ!」と声をかけ
引き止めようとしたようでしたが
クロディーヌは、
引き下がりませんでした。
言わば、万が一に備えるための
措置といったところか。
彼女が自ら消えてくれないならば、
仕方なく彼女を、
夫の愛人として見守って
生きていかなければならないけれど
そうなった時は、それに相応しい秩序が
必要なはずでした。
レイラが過分な欲を出さずに、
自分の分に合った行動を
することができれば、
クロディーヌは、あえて愛人と
対立するつもりはありませんでした。
クロディーヌ自ら頼んでいるのにと、
様子を見守っていた貴婦人の一人が
不満そうな口調でレイラを責めました。
レイラは迷子になった子供のように
途方に暮れた顔で
クロディーヌを見ました。
どうか、その命令を撤回して欲しいと
切に願う目つきでした。
あの涙で濡れて澄んだ瞳が
あの無情な男の心を
とらえたのだろうか。
クロディーヌは、
かなり学究的に悩んで
レイラを見ました。
どうせ返事は決まっているのだから
急ぐことはありませんでした。
しばらくしてレイラは、
「・・・はい、お嬢さん」と
諦めたように返事をして頭を下げると
両手をギュッと握りました。
クロディーヌはお礼と言うと
明るい笑顔を浮かべながら頷き
レイラは本当に優しいと言いました。
ラッツに滞在していた4日間、
マティアスのスケジュールは、
休む暇もなく
ぎっしりと組まれていました。
ヘルハルト家が所有している事業体は
ほとんど、カルスバルに、
本社を置いていましたが、
首都であるラッツもまた、
少なからず、比重を占めていました。
皇室と政界、そして、
首都の社交界の人脈を管理する
拠点という側面でも、
ラッツは家門の領地ほど重要でした。
そのため、
先代のヘルハルト公爵たちは、
1年の半分は領地で、
残りの半分は首都に滞在し、
家門を内外から育てて来ました。
結婚して後継者が産まれた後は、
マティアスも、そのような人生を
生きていくことになるはずでした。
マティアスは、
大勢の訪問者が出て行くと、
事務所の天井をじっと見上げながら
レイラを
ここに置いたらどうだろうかと
考えました。
ラッツにあるヘルハルト家の邸宅は
代々家の主人の住まいとして
使われていましたが、
同時に、家の主人の
愛人の住まいでもありました。
父親が一番長くそばに置いて
大事にしていた愛人も、
やはりこの邸宅で暮らしました。
たまに父親に会いに首都に立ち寄る時は
当然のように、
彼女を見るようになりましたが、
マティアスはもちろん、
母親もそれを当然のこととして
受け入れました。
そして父親は、愛人のことが
決してアルビスの垣根を越えて
入らないようにすることで、
妻と子供に対する礼儀を尽くしました。
それが、マティアスが知っている
ヘルハルトの秩序でした。
そうだね。それがいい。
手に入れても
捨てることができなければ、
この欲望の有効期間が、予想より
長くならざるをえないならば、
そのような秩序に従うのが
正しいことでした。
結婚後もレイラをアルビスに置くのは
お話になりませんでした。
しかし、レイラ・ルウェリンの
頑固な目つきが思い浮かぶと、
マティアスは思わず眉を顰めました。
レイラが素直に、愛人としての人生を
受け入れるとは思いませんでした。
何より、自分の命のように
大切にしているビル・レマーに、
自分が公爵の愛人であることを
明らかにするよりは、むしろ
舌を噛んでしまう女でもありました。
「レイラ」
マティアスは、
甘美な独奏のようなその名前を
繰り返しながら
ゆっくりと顔を撫で下ろしました。
かなり気に入った、
レイラのあの愚かな気性が、
再び耐えられなく、もどかしくて
イライラしました。
彼には、愛人に与えられるものが
無数にありましたが、
彼の美しい愛人は、何一つ
受け取ろうとしませんでした。
手の中にしっかり握りしめても、
完全に自分のもののように、
なかなか感じられない女でした。
持っているのに切望する気持ち。
顎の先を触りながら
考え込んでいたマティアスは、
結局、これといった結論を
下すことができないまま
長いため息だけをつきましたが
その瞬間、自分が習慣のように
レイラのことを
考えているという事実に、
ふと、気が付きました。
結局、このような気分を
味わうことになるだけだということを
知りながらも、毎瞬間、
あの気に障る女のことを考えました。
ファレル大佐の到着を知らせました。
マティアスは短く頷いて立ち上がり
身なりを整えると、
力強く優雅に歩きながら、
執務室を出ました。
後を付いて来たマーク・エバースは、
先ほど自然史博物館から
こちらからの問い合わせに対する
返事が来たと告げました。
マティアスが足を止めると、マークは
春に博物館の通路の天井の
クリスタルオーナメントの
新しい装飾を作った職人は、
皇室に宝石を納品する
クロッケンという商人だそうだ。
自然史博物館のものと
同じように注文すればいいかと
尋ねました。
マティアスは普通に頷いて
そうするようにと答えましたが、
二歩も歩かないうちに、
翼を黄色にして注文するようにと
指示し、廊下を進みました。
子供のように感嘆しながら
色とりどりの鳥の形をした
クリスタルオーナメントが
飾られていた博物館の通路に向かって
走って行ったレイラの後ろ姿、
背伸びをして鳥に手を伸ばした姿、
その明るい笑顔、
導かれるように後を付いて行って、
ひょいと
レイラを抱き上げた瞬間の気持ちまで
全て生々しく浮び上がりました。
自然史博物館の前を通った瞬間、
あれをあげたら、あの日のように
笑ってくれるのではないかと
ふと、マティアスは考え、
ただその理由だけで、
春に自然史博物館の通路を
飾っていたのと同じオーナメントを
突き止めて注文するよう
指示しました。
彼らしくないことでした。
そういえば、あの日、
レイラが博物館を見物している間、
とてもウキウキして
幸せそうに見えました。
あらゆる標本と化石の間を
走り回りながら、
熱心に観察しメモを取り
感嘆していました。
あれほど行きたがっていた大学に
通わせてあげるようにしたら、
それは受け入れてくれるかも。
応接室の扉の前に着いた頃、
マティアスは、ふと考えました。
カイル・エトマンと同じ大学であるのは
気に障るけれど、
すでにレイラは自分の女なので
深く気にする必要はありませんでした。
マティアスは、
一段と軽くなった気分で
応接室のドアを開けました。
一瞬にして私情をすべて消し、
完璧な
ヘルハルト公爵の顔になっていました。
自分たちが初めて会った場所が
まさに、ここだったのを
覚えているかと、クロディーヌは、
子供の頃の美しい思い出を
思い出すかのような口調で話しました。
石像のように固まった姿で
彼女の向かいの席に座っていた
レイラは、震える目を上げて
周囲を見回しました。
そういえば12歳の夏、
クロディーヌのおもちゃとして
連れて来られて捨てられたのも
この応接室でした。
レイラは目を伏せて
「はい、お嬢さん」と
丁寧に答えました。
大変なことではないだろうという
クロディーヌの言葉は
嘘ではありませんでした。
いくつかの
細々とした身の回りの世話を除けば
体を使わなければならないことは
ほとんどありませんでした。
レイラに与えられた役割は、
幼い頃と少しも変わらず、
退屈しているブラントの令嬢の
話し相手でした。
クロディーヌは、
あの日が昨日のことのようだけれど
もうこんなに時間が経ったなんてと
呟くと、残念そうな表情で
ため息をつきました。
その時、手を怪我した彼女のメイドが
中へ入って来て、
午後の小さなティーパーティーのために
着替えなければならない時間だと
告げました。
レイラは、
開いたままにしていた本棚を閉めて
クロディーヌの後を追いました。
彼女が泊まっている客用の寝室には
メイドが選んだ
ドレスやアクセサリーが
すでに用意されていました。
レイラがするのは
それを美しく着せるだけ。
メイドは目をつぶっていても
できるだろうと言いましたが、
このような服と装飾品に
慣れていないレイラには、
決して容易ではないことでは
ありませんでした。
見守っていたメイドは
そうではないと大騒ぎしながら
近づいて来ました。
ドレスの複雑な装飾に慌てて、
うろたえていたレイラの頬が
微かに赤くなりました。
レイラが慌てるので、
そんなことを言わないでと、
メイドを叱ったクロディーヌは、
レイラに優しく微笑みかけながら
大丈夫だから続けるようにと
促しました。
他のメイドを呼ぶ気が全くない
クロディーヌの顔を見たレイラは、
何とかこの仕事を無事に終えるために
努力しました。
熟練したメイドなら、
すぐに終えられたはずの支度に
時間がかかりましたが、
クロディーヌは一度も急かすことなく
辛抱強く待ってくれました。
しかし、最善を尽くしても、
レイラが貴族の令嬢の装いを
完璧に整えることが
できるはずがありませんでした。
鏡の前に立ったクロディーヌは
小さくため息をつくと、
レイラがかぶせてくれた帽子を脱ぎ、
続いて手袋、ショール、ネックレスを
外しました。
そのクロディーヌの動作が、
のんびりしているせいで、
さらに冷たく厳しく感じられました。
自分の手で、それらを
身に着け直したクロディーヌは、
曖昧な笑みを浮かべながら
レイラの方を向きました。
少し前とは比べ物にならないほど
優雅で洗練された姿でした。
クロディーヌは、
可哀想にと言うと、静かな目で
レイラをじっと見つめました。
そのまなざしが想起させた
幼い頃のような無力感に
レイラの体が硬くなりました。
失望したり、苛立ちを示さないように
努力する声で、クロディーヌは、
相変わらず、何も知らないと
ため息をつくように
優しく囁きました。
レイラが何一つ受け取らないと
分かっていても、
レイラの笑顔見たさに
今度は鳥のオーナメントまで
プレゼントしようとし、
大学まで行かせようとするマティアス。
彼の必死な気持ちは理解できるけれど
レイラは、
鳥のオーナメントをもらっても、
大学に行かせてもらっても
喜ばないと思います。
けれども祖父や父親の愛人たちが
贅沢させてもらったり、
夫に愛人がいても、
平気だった母親を見ていた
マティアスにとって、
それが常識になっているのかも
しれません。
レイラを侮辱することで、
彼女より自分が上であることを
示したいクロディーヌ。
そうしなければ、
自分のプライドを保てない彼女を
哀れに思います。