5話 オデットとバスティアンの結婚話が進められています。
じっとオデットを見つめていた
老婦人は、しばらくして、
よりによって父親にそっくりだと
第一声を発しました。
僅かに眼差しが揺れましたが、
オデットは不快な感情を
露わにしませんでした。
あまりにもストレートな話し方に
少し困っただけで、
オデットを見た皇室の人々は
概してこのような反応を見せたので、
こと新しいことではありませんでした。
父親に似た顔は、
彼らがオデットを不満に思う
主な理由でもありました。
老婦人は、
確かに、子供にそれ一つでも
与えたのは幸いだった。
あの素晴らしい顔一つで、
全帝国をひっくり返した
男だったのだからと、
全く思いがけない言葉を並べ立てながら
周囲を見回しました。
彼女がこの家をどう思っているかは
眉間のしわを見れば一目瞭然でした。
オデットは、
もはや隠すことのできない
当惑した表情で彼女を見つめました。
何の連絡もなく訪ねて来た
見知らぬ老婦人は、
自分を前皇帝のいとこである
トリエ伯爵夫人だと自己紹介しました。
奇襲に近い訪問でしたが、
彼女は終始一貫、平然として
堂々としていました。
探索を終えた老婦人は
ディセン公爵について
鋭く尋ねました。
オデットが、
父親は外出している。
帰りはかなり遅くなると思うと答えると
伯爵夫人は、
あの情けない男を見る侮辱まで
甘受しなくても良いのは
本当に幸いだと、
憚ることなく非難を浴びせ、
大事にしておいた茶葉で
心を込めて淹れたお茶でしたが、
彼女は汚水でも飲んだような
表情をしました。
オデットは、
自分の前に置かれたカップを見ました。
牛乳と砂糖を加えれば、
少しはマシになるけれど、
よりによって食料品が
底をついた状態でした。
それが少し残念だと思った瞬間、
伯爵夫人は長いため息をつき、
遠回しに長々と話したくないと
前置きをして、
オデットに縁談が持ち上がった。
皇室が紹介する花婿候補だと
本論を伝えました。
「縁談?」と、オデットは
当惑して問い返しました。
心配していた悲報ではなかったけれど
これも衝撃的なニュースであることは
同じでした。
続けて伯爵夫人は、
皇帝がオデットを
結婚させたがっていることと、
皇帝自身が前に出るのは何なので
この年寄りを仲人として
前面に押し出したことを伝えました。
オデットは動揺し、
なぜ、急に皇帝が・・・と尋ねると
伯爵夫人は、
オデットを利用して、
イザベルを諦めさせようとしている。
皇室が選んだ花婿は
冷笑的に答えました。
しかし、オデットが
訳が分からない顔をしているので、
彼女が、そのことを
全く知らないことに気づきました。
確かに、
このような生活をしている子供が
社交界の事情を
知るはずがありませんでした。
トリエ伯爵夫人は、
深くため息をつきながら
首を横に振りました。
没落したディセン公爵一家が
底辺を転々としているという事実は
よく知っていましたが、
直接目にした現実は
予想よりはるかに残酷でした。
艶が出るように拭いた床と窓、
精一杯手入れした跡がうかがえる
みすぼらしい家財が、この家を、
さらに悲しげに見せていました。
トリエ伯爵夫人は、
皇帝は長女が愛する将校とオデットが
結婚することを望んでいる。
その将校は卑賤な血筋の平民で
皇女の相手としては、
到底無理な身分だと
ありのままの真実を伝えました。
クラウヴィッツは
教養のある家柄として
認められていました。
爵位はないけれど、代々、
堅実な事業を手掛けて来た
商人の家でした。
皇室に食料を納品する商人から始まり
事業を拡大してきたため、
社交界の至る所に広がっている人脈も
かなり堅固でした。
急激に事業を拡大したものの、
しばらく停滞した時期もありましたが
今は帝国の鉄道王と呼ばれ、
大富豪の仲間入りを果たしました。
名門貴族出身の妻を持つ、
現在のクラウヴィッツ家は
上流社会の一員として
受け入れられたと見ても
差し支えありませんでしたが、
最初の妻の子である長男の
卑賤な母方の血筋のため例外でした。
貧民街出身の古物商だった男は、
有名な貸金業者に成長しました。
闇の金を
すべてかき集めているという噂が
既成事実として受け入れられるほど
巨額の富を築きましたが、
そうであればあるほど、評判は、
ますます悪化し続けました。
古物商。
一生、その卑しい金貸しの名前の前に
垂れ下がった影は、今や彼が育てた
外孫のものになりました。
貴族たちは、
名前より、古物商の孫という蔑称を
より好んで使いました。
トリエ伯爵夫人は、
お金持ちの息子だけれど、
父親に嫌われているので
後継者になるのは無理。
おそらく、一生軍人として
生きるしかないだろうけれど、
その方面では、かなり有能なので、
運が良ければ、海軍提督の座ぐらいは
つかめるかもしれないと
気乗りのしない口調で、
花婿の紹介を終えました。
皇帝に忘れられて暮らしていた
遠い親戚の老人に手を差し伸べたのは
誰もこの仕事を
引き受けようとしなかったからでした。
古物商の孫と
見捨てられた皇女の娘だなんて、
一体どこの頭のおかしい皇族が
このような汚水に
足を浸したがるものか。
もし、全皇帝との深い親交がなかったら
彼女もこのような
低級な仲立ちをしませんでした。
トリエ伯爵夫人は、
率直に言って自分は、皇帝が
無駄なことをしていると思う。
社交界で蔑視され冷遇されている
立場ではあるけれど、
古物商の孫は悪くない花婿候補だ。
オデットの父親のような者の婿に
なろうとするはずがないと
一言加えると、習慣的に
縁が欠けたカップが唇に触れると
ひどいお茶の味に震えました。
その様子を見守っていたオデットは
静かに席を立って台所へ行き、
水一杯をお盆に乗せて
戻って来ました。
改めてトリエ伯爵夫人は、
驚きの目でオデットを見ました。
水の上を歩くように動く子で、
すらりとして細い体の線と
完璧なバランスの取れた姿勢が、
一見、舞踊家を連想させました。
伯爵夫人が、
一気にぬるい水を飲み干すと、
オデットは、
伯爵夫人が代わりに自分の意思を
皇帝に伝えてもらえるかと
慎重に尋ねました。
トリエ伯爵夫人は眉を顰めて失笑すると
まさか、この縁談を
拒否できると思うのかと尋ねました。
オデットは、伯爵夫人が
無駄だと話していたからだと答えると、
トリエ伯爵夫人は、
しっかりしろ。
皇帝は頼んだのではなく
命令したんだと言って
舌打ちをしました。
オデットは、
断られることを分かっていながら
その将校に
会わなければならないという
意味なのかと尋ねました。
トリエ伯爵夫人は、
頭の悪い子じゃなくて、
本当に良かったと答えました。
オデットは、
なぜ不当な要求まで
従わなければならないのかと
尋ねました。
トリエ伯爵夫人は、オデットが
ディセン公爵とヘレネの娘だからと
答えました。
利己的で愚かな恋人が犯した
蛮行の証であり、皇室の汚点。
トリエ伯爵夫人は、
その言葉の裏にある真意を
隠そうとしませんでした。
親が犯した罪の代償を
子供に背負わせるのは
苛酷なことでしたが、皇帝の見解にも
一見、妥当な面がありました。
トリエ伯爵夫人は、
これは絶好のチャンスだと思う。
オデットの人生の中で、
これよりもっといい花婿に
出会える幸運はないと言いました。
しかしオデットは、
一度も結婚を考えたことがないと
返事をしました。
トリエ伯爵夫人は、
それは分かる。
あのような父親を見て育ったのだから
そうなるのも無理はないと答えると
真っ青になったオデットを見る
トリエ伯爵夫人の目に
微かに憐憫の色が浮かびました。
トリエ伯爵夫人は、
だからといって、
一生メイドにも及ばない恰好で、
こんな乞食のような家で、
父親の尻ぬぐいをするわけには
いかないだろうと言うと、
ゆっくりと立ち上がって
オデットに近づきました。
そして、手袋をはめた手で、
血の気のないオデットの頬を
包み込みながら、
一度試してみようと勧めました。
オデットは、
世の中を生き尽くした老人のように
超然とした表情をしていましたが、
眼差しはこの上なく無垢でした。
その不調和が醸し出す雰囲気が
かなり印象的な子でした。
トリエ伯爵夫人は、
口元に満足げな笑みを浮かべながら
ひょっとしたら、古物商の孫が
女の顔一つに
目が眩む男かもしれないと言いました。
玄関で待機していた執事のロビスは
「お帰りなさいませ」と挨拶をして
丁寧に頭を下げました。
目で、さっと返事をしたバスティアンは
微かに疲労感が滲み出る足取りで
邸宅の階段を上りました。
海軍本部で開かれた晩餐会は
夜更け過ぎに幕を閉じました。
将校たちの士気高揚という名分を
掲げていたものの、
結局は無意味な冗談と笑い、
そして、その裏に隠れた
鋭い政治的駆け引きが主な目的の
席でした。
バスティアンは、
双方が差し出した酒と笑いの両方を
受けいれて飲みました。
海軍省の高位職争奪戦に
参加する意思はないけれど、
今後数年は、まだ軍服を着る予定なので
円満な関係を維持しておいた方が
良いと思いました。
適当な距離を置いて後を付いて来た
ロビスは、
クロス夫人から電話があった。
この知らせを聞き次第、
連絡して欲しいと言われたと
伝えました。
バスティアンは、
大したことがなさそうに頷くと
静かな廊下を歩きました。
あのムカつく縁談が、叔母の耳にまで
伝わったようでした。
それから、ロビスは、
急いでバスティアンを追い越して
寝室のドアを開けると、
手紙が一通届いていると伝えました。
そして、バスティアンが
燕尾服のジャケットを脱いだ瞬間
オデット嬢からの手紙だと、
思いも寄らなかった名前を
口にしました。
バスティアンが
「オデット?」と聞き返すと、
ロビスは服を受け取り、
皇帝に紹介された姪の名前だと
素早く説明を付け加えました。
バスティアンは、
「ああ、その淑女」と返事をすると
外したボータイを執事に渡し
テーブルの前に近づきました。
蝋で封をした淡い青色の封筒が
タバコの箱の上に
きちんと置かれていました。
身分の高い淑女が
先に連絡して来るのを待つのが
貴族の礼法だとか。
くだらない話だけれど、
その世界の決まりなので
尊重することにしました。
もちろん一番望んでいたのは
永遠に連絡が来ないことでしたが。
突然、花嫁候補を紹介されたのは
先週の末でした。
急いでバスティアンを呼び
伝えなければならない皇命があると
告げました。
ポロクラブから帰って来て
その知らせを聞いたバスティアンは
着替えもできないまま
デメル家に向かいました。
まさか、
そのような呆れた知らせが
待っているとは、
夢にも思いませんでした。
皇帝は、
親しい友人のデメル提督を仲人にして
ディセン公爵の娘を
紹介させようとしました。
英雄に与える褒賞という
もっともらしい見かけで
包装したけれど、結局は命令、
それも峻厳な軍名でした。
しばらく呆気に取られていましたが
頭の中が整理されると、
この全てが我慢できないほど
滑稽に思えました。
バスティアンは、その日のように
失笑しながら
カフスボタンを外しました。
皇帝が、このような
とんでもないことをする理由は
あの厄介な
イザベル皇女のせいでした。
侮辱的な仕打ちでしたが、
バスティアンは
異議を唱えませんでした。
いくら皇帝でも、強制的に
結婚させることはできないので、
皇帝の体面を保つほどの
誠意を見せた後に、
事を収めるのが最善でした。
バスティアンはロビスを労い、
たばこの箱を開けながら
休むようにと命令しました。
自分の仕事を
全て終えることができなくて
残念な表情をしていましたが
ロビスは反論することなく
静かに退きました。
タバコを1本くわえたバスティアンは
彼女からの手紙を指の間に挟んで、
窓際に近づきました。
窓を開けると、
甘い風が吹いて来たので、
そちらへ顔を向けると
数日前までは索漠としていた庭園に
いつの間にか、
春の花が咲いていました。
一時、有名な貴族の所有だったという
このタウンハウスは、
園芸に造詣が深かったという
前オーナーの趣向のおかげで、
見事な庭園を備えていました。
微かな苛立ちが消えるほどの
時間が流れると、バスティアンは
手紙を眺めました。
オデット・テレジア・マリー
ロール・シャルロッテ・
フォン・ディセン。
おそらく、その女性のものと思われる
名前が、欠点のない書体で
書かれているのを、
じっと見ていたバスティアンは
思わずくすくす笑ってしまいました。
バスティアンは
歌のメロディーを口ずさむように
長い名前を読み上げました。
オデット嬢。
名前一つ、とんでもない女でした。
ロビタ王国の王太子と
婚約していたヘレネが
ディセン公爵と駆け落ちしたことで
ベルクはロビタに対して
ひたすら謝罪し、
それなりの代償を払ったと思います。
そして、ベルクの皇室は、
ベルク、ロビタの双方の国民から
かなりの非難を受けたと思います。
父親に似たオデットを見ると、
皇室の人たちは、どうしても、
その当時のことを思い出して
ディセン公爵への怒りが
ふつふつと湧き起こって来るので
たとえ血が繋がっていても
オデットと会おうという気に
なれなかったのだと思います。
でも、若かりし頃のディセン伯爵が
素晴らしい顔をしているということは
オデットも
相当な美人ということなのでしょう。
マンガを読んだ時は、
オデットとトリエ伯爵夫人が
旧知の仲のように思えたので、
初対面だということに驚きました。