9話 バスティアンは皇后の誕生記念舞踏会に招待されました。
馬車がラッツの中心街に入ると、
ジェフ・クラウヴィッツは
ゆっくりと目を開けて
窓の外を見ました。
名門貴族の紋章を付けた
豪華な馬車の行列が
皇宮につながる大通りを埋め尽くし
暗くなり始めた繁華街は、
それを見物するために集まった人々で
ますます混雑し始めました。
都市の夜を照らす光の饗宴を
鑑賞していた彼の視線は、
並んで走っている馬車の紋章の上に
釘付けになりました。
金色のバラ。ヘルハルトでした。
ジェフは、そっと横目で、
馬車の窓ガラスをのぞき込みました。
帝国最高貴族と呼ばれる公爵家の主人は
彼の子供ほどの年齢の青年でした。
視線を感じたのか、公爵が
ゆっくりと、こちらを向きました。
避ける暇もなく目が合いましたが、
若い公爵は何の動揺も見せることなく
顎の先を軽く動かして挨拶することで
礼儀を尽くし、
淡々と視線を逸らしました。
今日は、ついに
ヘルハルト公爵を紹介してもらえる。
そう言うと、
ジェフは期待に満ちた目で
向かいの席に座っている
息子を見ました。
本を読むことだけに集中していた
フランツは、ようやくビクッとして
顔を上げると、
それはどういう意味かと尋ねました。
ジェフは、フランツの婚約者が
ヘルハルトの社交範囲内にいる
家門の娘なので、フランツと公爵の
橋渡しをしてくれるだろうと
答えました。
しかし、フランツは、
クラインの令嬢とヘルハルト公爵は
個人的な親交がないと返事をしました。
父子間の雰囲気を窺っていた
テオドラ・クラウヴィッツは
もし、あの子が
直接前に出るのが難しいなら
クライン伯爵が代わりに、出会いを
取り持つこともできるのではないかと
命令に近い口調で、
息子を急き立てました。
躊躇っていたフランツは、
ついに諦めたように頷きました。
同じ学校に通った年月が
いくらかあるのに、
今まで一度もまともに
話をしてみたことがないなんて。
フランツの膝に置かれた哲学書を見た
ジェフは、深いため息をつきました。
フランツは間違いなく秀才でした。
名門の家の子供たちが集まった
私立学校でも、頭角を現すほど明敏で
芸術的な感覚も優れていました。
優等生として卒業し、
帝国最高の大学に首席で合格した息子は
確かに家門の誇りと言えました。
でも学業以外の部分では、
どうだろうと思いました。
芸術だの哲学だのという
無駄な観念を追うフランツが、
ジェフには全く不満でした。
なかなか男の世界に
入り込めない女のような気質も
同じでした。
フランツを、
あの学校に入学させるために使った
お金と努力に比べると
あまり満足できない成果でした。
フランツは、
同窓生だからといって、
全員と友達になることは
できないものだ。
しかもヘルハルト公爵だなんて。
彼は、母とも親密ではないし
自分とは学年も違ったと
激怒しながら反論しました。
かなり自尊心が傷ついた顔を
していました。
二人の顔色を窺っていたテオドラは
ディセン家の令嬢も
今回の舞踏会に参加するそうですねと
素早く話題を切り替えました。
ジェフは、
貴族とは名ばかりで、
貧乏人同然の暮らしぶりだ。
そんな家の娘のレベルがどうなのかは
知れたことだと言いました。
テオドラは、
あまり否定的に考えないように。
そろそろバスティアンも
結婚すべき時期。
いずれにせよ、
皇室の血筋である妻を得て
悪いことはないだろうと
慈しみ深い笑みを浮かべた顔で
助言しました。
義理の息子の将来を
心から心配するような態度でした。
テオドラの言うことも一理あると言って
にっこり笑うジェフの顔は、
中年とは思えないほど、
魅力的で素敵でした。
テオドラは夢見るような
恍惚とした目で、夫を見ました。
運命的な恋に落ちた18歳の春からずっと
ジェフ・クラウヴィッツが
彼女の世界でした。
その男より重要なことは何もなく
身分の差も、家の反対も、
甚だしくは、
彼がすでに結婚しているという事実も
その熱烈な愛を
遮ることはできませんでした。
テオドラは、悪魔に魂を売ってでも
その男を手に入れたがり、
結局やり遂げました。
バスティアンに会ったら、
必ずお祝いの言葉を
伝えなければならない。
ついに皇宮に招待されることになり
皇帝から与えられた花嫁候補まで
手に入れることができて、
どんなに喜んでいるだろうと
言いました。
いつの間にか近くなった皇宮を眺める
テオドラの目に
期待感が漂い始めました。
受け入れられたのは、
テオドラの実家である
オスバルト子爵家の
努力のおかげでした。
ただし、その資格は、
クラウヴィッツ夫妻と、
その後妻の子に限定されました。
卑しい前妻の子供まで
受け入れられないのは、
貴族社会の最後の自尊心であり
テオドラの願いでもありました。
そのおかげでフランツは
後継者の座を、より簡単に
確定することができました。
しかし、バスティアンが、
まさかここまで上がってくるとは。
彼が舞踏会の招待状を受け取ったことを
初めて知った日は、
あまりにも不安でイライラして
眠ることができませんでした。
しかし、幸いにも、その苦痛は
それほど長くは続きませんでした。
ディセン公爵の娘も
この舞踏会に参加するという知らせの
おかげでした。
バスティアンが、
どんな恥をかくことになるか考えると
むしろ今回のことがチャンスのように
感じられたりもしました。
フランツは、
そんな女が自分の一族の一員になるのは
あまり名誉なことではないと
眉を顰めながら反論しました。
まるで汚物を踏んだかのような
表情でした。
テオドラは、
イリスならまだしも、
誰もバスティアンの花嫁を
自分たちの家門の人とは
思わないだろうと言うと、
のんきに笑って夫を見ました。
12歳になった年にアルデンを離れた後、
バスティアンは、
クラウヴィッツ家の屋根の下で
暮らしたことのない子でした。
彼の面倒を見たのは
母方のイリス家であり、
バスティアンも、
彼らを家族だと思っていました。
自らを卑しめてくれたも同然の
ありがたいことでした。
ジェフは喜んで頷き、
テオドラの言う通り、フランツは
ただ自分の将来のことだけを
考えればいいと勧めました。
テオドラは、
比類のない大きな愛情と自負心が
感じられる顔で微笑みました。
足かせになった元妻を
片付けた日のように。
貴族の血が混じった息子を
抱かせてあげた日のように。
そして、クラウヴィッツを
この世界の一員にしてあげた
まさに、あの日のように。
目的地に到着した馬車が止まると、
彼らの会話は中断されました。
威圧感を与える華やかな光が
皇宮の夜を照らしていました。
クラウヴィッツ大尉が到着したという
侍従の力強い叫び声が響き渡ると、
客たちの視線は、
一斉に宴会場の入口に集中しました。
フランツも、そちらを見ました。
生まれて初めて皇宮の宴会に
招待された日。
夢にも思わなかった世界に
足を踏み入れる栄光を
享受することになったのだから、
当然、浮かれて、
一気に駆けつけてくるだろうと
予想していました。
そうしなければならないのに、
舞踏会の開始を目前にして現れた
バスティアンが与えた侮辱感は、
さらに大きくなりました。
とにかく、
何に対しても偉そうにしている。
そのようにしていても、
人を狩った代価として
肉の塊をもらって食べる
下劣な獣のくせに。
乱れた呼吸を整えたフランツは
婚約者をエスコートして
見物人の群れの先頭に立ちました。
まもなく入場するバスティアンを
正面から見ることができる
位置でした。
彼らが立ち止まると同時に
バスティアンは現れました。
異母兄と自分の格差を
人々に証明しようとした
フランツの期待は、バスティアンが
第一歩を踏み出した瞬間に
粉々に崩れ落ちました。
バスティアンは躊躇うことなく
前を進みました。
皇太子と言っても差し支えないほど
傲慢な登場でした。
しかし、それよりも
フランツを驚かせたのは、
バスティアンと挨拶を交わす
華やかな面々でした。
高位貴族から政財界の名士まで
海軍大尉の社交範囲内に
ありそうもない人脈でした。
その光景を見守っていた
クライン家の令嬢は、
彼はヘルハルト公爵とも
親交があったのかと
無邪気に感嘆しました。
フランツは唇を固く閉じて
息を呑みました。
バスティアンに向かって近づいた
マティアス・フォン・ヘルハルトが
先に握手を求めたところでした。
全く理解できない状況でしたが、
二人がすでに旧知で、
社交的な話を交わすほどの
親交があるという事実は明白でした。
焦ったフランツは
冷たくなった手を上げて
眼鏡を直しました。
その間、
ヘルハルト公爵との話を終えた
バスティアンが振り向きました。
目が合うと、バスティアンは
平然とフランツに近づいて来て
挨拶をしました。
簡単に口を開くことができない
フランツに関心を持つのを止めた
バスティアンは、
その隣にいる婚約者に目を向け、
また会えて嬉しいと挨拶しました。
幸い、自分の婚約者より明敏な
クライン伯爵の娘は
皇宮で大尉に会えることができて
感慨深いと社交的な挨拶をすることで
ぎこちない雰囲気を和らげました。
フランツは、彼らの会話が終わる頃
わざと余裕のある笑みを浮かべながら
バスティアンに、
ついに皇宮に入ることができた
感想について、
声を整えて尋ねました。
後継者教育が、かなり厳しいのか
前よりも痩せた姿でした。
ゆっくり皇宮の大宴会場を
見回したバスティアンは
あまりにも感激して
一生の栄光にしようと思っている。
お前がそうだったようにと
頷きながら微笑みました。
これだけで十分な答えだったのか、
フランツの顔が赤くなりました。
まあ、それも悪くないと、
後になって虚勢を張る瞬間にも、
フランツは、
苛立ちを隠せませんでした。
その時、最後の客の到着を知らせる
叫び声が聞こえて来ました。
待ちわびていた、
まさにその名前でした。
フランツは急いで
宴会場の入り口に向かいました。
そして、しばらくすると、
ある白髪の老婦人に先導されて
若い淑女が入場しました。
バスティアンの最初の
皇宮舞踏会を台無しにする
問題の花嫁候補でした。
フランツは興奮した目で
兄の女を見ました。
何かが間違っているという
予感がしたのは
オデット嬢がホールの中央に
着いた頃でした。
こんなはずはない。
到底、話にならない現実を否定する
フランツの顔が
一瞬ぼんやりとしました。
知らず知らずのうちに出てきた悪口が
群衆の驚嘆の中に染み込みました。
ますます大きくなる心臓の鼓動が
世の中のすべての騒音を消した瞬間
皇帝が投げつけた腐った肉の塊、
乞食の美しい女に向かって
バスティアンが動き始めました。
いくら自分の野望の邪魔になる
花嫁を、
皇帝に押し付けられたからといって
腐った肉の塊はないでしょう😡
マティアスだって、
レイラに酷いことをしているけれど
彼女のことを腐った肉の塊なんて
言ったりしなかったと思います。
もう本当に酷いです。
後で、良い所を見せてくれないと
許しません(笑)
テオドラも、
なかなか情熱的な女性ですね。
どれだけのことをして
ジェフを手に入れたか
明らかになっていませんが、
そこまでするほどジェフが
魅力的な男性だというのは
意外でした。
それにしても、この二人の息子なのに
フランツは男として小さ過ぎます。
頑張って後継者教育をしても
クラウヴィッツ家を
父親と同じくらい盛り立てて行くのは
難しそうです。