86話 レイラはマティアスに飽きられたと思い安心していますが・・・
少なくとも、
四日はかかると予想していた日程は
一日早く終わりました。
マーク・エバースは
疲れたため息をつきながら、
ホテルのロビーの
ホールに置かれた椅子に
深くもたれかかりました。
一日繰り上げるために、
公爵はこの三日間、
休む暇もなく動きました。
そして、今開かれている昼食会が
最後の公式的な日程でした。
マーク・エバースは、疲れのせいで
ぼーっとしている顔を上げて、
ホテルの窓の外をじっと見つめました。
この都市の著名な実業家と
貴族たちの招待が殺到しましたが、
公爵は残りの一日を
きれいに空けておきました。
その空白を、
何で埋めようとするのかを悟るまで、
それほど、
長い時間はかかりませんでした。
レイラ。再びその名前。
今朝、公爵はマークを呼び寄せると、
アルビスに車を送って
レイラをここへ連れて来いと
短く命令しました。
それが全てでしたが、マークは
主人があえて明かさなかった
意図まで理解しました。
おそらく今頃、車は
アルビスに到着しているだろうと
思いました。
このことを、
いつまで隠せるのだろうか?
彼は、
時々それを心配していました。
ビル・レマーがいくら鈍くても、
あれほど大事にしている養女の秘密を
いつまでも気づかないはずがないと
思いました。
二人の奥方とブラントの令嬢も
同じでした。
しかし、最近の公爵を見ると、
マークは、自分のそんな不安が
少し滑稽に感じられました。
いつからか公爵は、
あえてレイラを
隠すつもりのない人のように
振る舞っていました。
この種のことが、あまりにも
ありふれたことだとしても、
スキャンダルの主人公が
他の誰でもないヘルハルト公爵なら
話は変わりました。
完全無欠な人生に、
わざわざ傷をつけるような態度は、
今までマークが知っていた
マティアス・フォン・ヘルハルトなら
ありえないことでした。
公爵のことを心配するのもおかしい。
このことで、
最も大きな打撃と傷を負う人は
まさにレイラだけれど、
本当に隠さないつもりなら、
一体あの子を
どうするつもりなのだろうか。
マークは、真冬でも
緑の葉を付けている
一本の木の植木鉢を見ました。
マークは、
父親と同年代のビル・レマーと
個人的な親交はありませんでしたが
アルビスの使用人たちが
概してそうであるように、マークは
無愛想に見えても、人の好い庭師に
好感程度は持っていて
レイラも同様でした。
ヘルハルト家の使用人たちにとって
レイラは、
すなわちアルビスの子供でした。
たかが庭師が引き取って
育てた孤児に付けるには
大げさな表現だし、
アルビスで育った使用人の子供は
レイラだけではないのに、
なぜか、それが当然のように
受け入れられていました。
おそらくレイラのように
アルビスを愛した子供が
いないからではないかと、
マークは漠然と考えました。
領地の庭園と森、
川辺と野原を駆け回りながら
育った子供。
花が咲いた庭園や森の中の小道を
忙しく駆け回っていたあの子と、
たまに出会う時、
妖精に出会ったような
気分になることもありました。
カイルのような良い花婿に出会って
幸せになるかと思ったら、
あの子の人生は、相変らず
本当に辛酸なものでした。
それに大きく貢献している自分が
このように憐憫を抱くのは、
とてもおかしなことではあるけれど。
公爵の随行人に抜擢された日、
彼を執事室に呼んだヘッセンは
判断は、
自分たちの役目ではないことを
肝に銘じろと、
短くて重い言葉を伝えました。
マークはその意味が何なのかを
よく知っていました。
公爵の意志に従って行動するだけ。
それ以上は越権行為。
彼が気を引き締めた頃、
一群の男たちが
ロビーのホールを歩いて来ました。
昼食会が終わったようでした。
マークは立ち上がって
公爵に近づきました。
数日間の強行軍が顔負けするほど
すっきりした姿とは違い、
近くで見た彼の顔からは
微かな疲労感が滲み出ていました。
マークは、
車は昼食前に出発した。
ティータイムの頃には
戻って来ると思うと
声を低くして報告しました。
公爵は頷きました。
寝不足のせいか、
目尻が充血していました。
マークは、
車が戻って来たら客室に案内するので
それまで、少し休んだらどうかと
慎重に勧めました。
「そうですね」と
公爵は素直に応じました。
出席者たちと
別れの挨拶を交わした公爵は、
客室に向かいました。
いつものように、マークは
数歩離れて、
彼の後を付いて行きました。
かなり疲れて眠そうなのに、
公爵のまっすぐな姿勢は
少しも崩れていませんでした。
のんびりとしているように
見えるけれど、
節制した品位が滲み出ている歩き方も
そうでした。
レイラについて、
あれこれ考えていたのが、マークは
やや恥ずかしくなりました。
ヘルハルト公爵は
ただヘルハルト公爵でした。
すでに人生のあらゆる面に、
もしかしたら骨の髄まで
その名前が刻まれているはずの男。
彼にとってレイラ・ルウェルリンが
どのような意味を持つのかを
考えるのは、
少し悲しくて憂鬱なことでした。
客室のドアの前に着いた時、
マティアスは、
極めてヘルハルト公爵らしい
優雅な仕草で振り返ると、
マークに一つ頼みがあると
告げました。
立ち止まって、
車の窓の外を見ていたレイラの顔が
冷たく固まりました。
予想できなかったことではないけれど
実際に目で確認すると、
さらに呆れかえりました。
「あの・・・レイラ?」と
時間を確認した運転手は
催促しました。
彼に公爵の命令を伝えたマークは、
最大限早くと、
その点を特に強調しました。
主人の意図を理解した彼は、
普段よりスピードを上げて
車を運転することで
自分の役目を果たしました。
しかし、変化要因はレイラでした。
小屋の前の庭で、
一歩も動く気がなさそうな彼女と
揉めたため、時間がかなり遅れました。
公爵に渡された手紙がなかったら
任務を果たせなかったかも
しれませんでした。
ところで、その手紙に
何と書かれていたから、
頑強だったレイラが
心変わりしたのだろうか?
ふと、それが気になりましたが、
無駄な好奇心は、それほど
長くは続きませんでした。
カルスバルまでの移動時間を
考慮すれば、
それほど遅いとは言い難いけれど
最大限早くという命令を考えると、
かなり焦っていました。
運転手は、今、切なる思いで
レイラの名を呼びました。
するとレイラは小さな声で
運転手に謝り、
いきなり助手席のドアを開けました。
ひょっとして、
このまま逃げるのではないかという
不安から、
彼は慌てて車から降りました。
幸いレイラは、
その場にじっと立って
ホテルを見上げるだけでした。
彼らを見つけて走り出した
マーク・エバースは運転手に
どうしてこんなに遅かったのかと
言いかけたところで、言葉を失い
口を大きく開けました。
この寒い冬に、レイラは
コートもなく、ショールを一枚
羽織っていただけでした。
しかし、
煤が付いたエプロンに比べれば、
それは何でもないことのように
感じられました。
マークが驚愕した表情をすると、
運転手は、
それとなく視線を避けました。
マークはレイラに、
まずは服から・・・と言うと、
レイラは目を細め、しかめっ面で
ホテルを見ながら、
「ここですか?」と尋ねました。
そして、頑固な目つきで、
ここへ行けばいいのかと
再び尋ねました。
マークが、
そうなのだけれどと答えると、
レイラは、それでは行くと言って、
断固として歩き始めました。
まさか、そんな格好でと
マークが信じられずに
ぼんやりしている間に
レイラはすたすた歩いて
ホテルの入口に向かっていました。
ドアマンは当惑して、
マークを見つめました。
公爵の一行のようなので、
止めることもできないし、
だからといって
入れることもできなくて
困った表情をしていました。
急いでレイラを追いかけたマークは、
ひとまず、自分のコートを脱いで
レイラを包みました。
そうは言っても、依然として
良くない方向に目立っていましたが
少なくとも、
出入りを阻止されない程度には
しなければなりませんでした。
顔色を窺っていたドアマンは、
マークと目が合うと
訝し気な態度でドアを開けました。
煌びやかなロビーに入ると、
レイラの姿はさらに異様に
目立ちました。
レイラは緊張したように
びくっとしましたが、
できるだけ自然に、
何事もなかったかのようにして
退きませんでした。
マークは、
チラチラ見られているのを無視して
巧みにレイラを
エスコートし始めました。
マークはドアをノックしながら
「エバースです、ご主人様」と
声をかけました。
すると低い声が聞こえて来ました。
マークは少し声を高くし、
丁寧な口調で、もう一度、
「ご主人様」と声をかけました。
ソファーに半分横になるように
もたれて座っていたマティアスは
ようやくゆっくりと目を開けました。
入室を許可した
マティアスの低い声からは、微かに
眠そうな気配が感じられました。
背中を立てて座った彼が
顔をなで下ろして
眠気を消している間に
客室のドアが開かれました。
顔を上げると、
男のコートに体を包んだレイラが
目の前に立っていました。
戦々恐々としていたマークは、
これで失礼すると言って、
回避する道を選びました。
いずれにせよ、
レイラをここに連れてきたので
命令を破ったわけでは
ありませんでした。
しかし、背後から聞こえて来た
自分を呼ぶ澄んだ優しい声が
去りたい一心だった彼を
立ち止まらせました。
レイラはお礼を言いながら、
極めて丁寧な態度で、脱いだコートを
マークに渡しました。
彼は微笑みながら、
「どういたしまして」と返事をすると
静かに客室を離れました。
彼の姿が消えると、
レイラは渋々振り返りました。
じっと彼女を見守っていた
公爵の眉間に、
徐々にしわが寄りました。
レイラは、
気に入らなくても仕方ない。
ストーブの掃除を
していたところだったと
主張しました。
頬が熱くなったけれど、
レイラは頭をまっすぐに上げて
その視線に耐えました。
続けて、
早く来てと言われたので、
命令に従っただけだと
唐突に言いましたが、
声は細かく震えていました。
マティアスは、
ソファーのひじ掛けに
斜めにもたれかかり、
顎を押さえながら
レイラをじっくり観察しました。
一つに編んだ髪は、半分ほど解けて
ボサボサでした。
最も呆れたのは、
煤がたくさんついたエプロンでしたが
その下に着ている服も、この場所に
似合わないように見えました。
しわくちゃの茶色のワンピースと
毛糸で編んだ靴下。
染みがついた、ごつい革靴まで
ゆっくりと鑑賞したマティアスは
意図せず、プッと笑いました。
期待していた反応ではなかったのか
レイラの肩が震えました。
マティアスは、だるい体を起こし、
棒のように硬直して立っている
レイラに近づきました。
自分は、君のこういうところが
大好きだと言うと、
彼は一歩の間隔を置いて
立ち止まりました。
近くで見たレイラの顔は
ひときわ明るく輝く光を
帯びていました。
目つきは悪かったけれど、
いつものようにマティアスは、
その点もやはり
かなり気に入っていました。
マティアスは、
いつも若干の破格があるのが
面白いと言いました。
レイラは
こんなことが面白いのかと
聞き返しました。
そして、ここに来るまでの間、
ずっと握りしめていた
くしゃくしゃの手紙を
公爵の前に差し出しました。
それを見たマティアスは平気で頷き
「うん」と快く答えると、
赤くなったレイラの頬を撫で、
「きれい」と言って
ニッコリ笑いました。
しかし、彼を見るレイラの目は、
今や露骨な怒りの色で
輝いていました。
けれども、
久しぶりに目の前にいるレイラは
美しかったので、
そのきれいな目に込められた感情が
何であるかは、
マティアスにとって
それほど重要ではありませんでした。
震えていたレイラは、
触らないでと言って、
彼の手を激しく押し退けて
後ずさりしました。
逃した手紙が、
応接室のカーペットの床の上に
落ちました。
予期せぬ出来事に驚いた姿を
隠すように、レイラは
さらに堂々と頭を上げて
公爵を睨みつけ、
脅迫しておきながら、なぜ、
笑ってそんなことが言えるのかと
抗議しました。
落ちた手紙を見た公爵は
「脅迫?」と
怪訝そうに聞き返しました。
見せかけではないその態度が
レイラをさらに驚かせました。
彼女は、
手紙に書かれていた
あの卑劣な脅迫のことだと
答えました。
今回は侍従ではなく
随行員は辛いよ(爆)
マーク・エバースは、
アルビスの子供であるレイラが
幸せになることを願っていたけれど
彼女がマティアスの愛人になったことで
彼女が幸せになる道を
阻んでいるのではないかと悩んでいる。
けれども、彼にとって
最優先はマティアス。
彼に振り回され、
レイラとのことが、いつバレるかと
ひやひやしながら、
職務を忠実に果たしている
マーク・エバースの苦労を
労いたくなりました。
運転手は、マークから
最大限早くと指示されたので、
レイラの服装のことなど
考える余裕もなかったのでしょう。
レイラが
マティアスの手紙を読んだ途端、
腹を立てて、すぐに車に
乗り込んだのかもしれません。
マティアスに捨てられるために
わざと、ボサボサの頭、
煤だらけのエプロンを付けたまま
やって来たのかもしれませんが
レイラの肝っ玉ぶりに
マティアスは
惚れ直したかもしれません。