91話 クロディーヌはレイラとマティアスの関係をカイルに話しました。
クロディーヌが去った後も、
カイルは、
しばらく、その場に留まりました。
静かに近づいて来たウェイターは、
すでに三杯目のコーヒーを置き、
手もつけていない冷めたコーヒーを
片付けました。
ぽつねんと座っているカイルの顔色は
蒼白になっていました。
クロディーヌ・ブラントに
巻き込まれてはいけない。
カイルは、
彼女の話を聞いている間、
ずっと気を引き締めていました。
どうして、レイラが、
そんなことをすることができるのか。
レイラを陥れるための策略なのは確実。
そうでなければ、あり得ない話でした。
しかし、カイルの努力とは関係なく、
疑いは、すでに心全体を
蚕食しつつありました。
レイラと一緒にいる公爵を見ると、
わけもなく不安で焦っていました。
いつからか始まったのか分からない、
その異常な気分の正体が
今になって、ようやく
理解できるような気がしました。
本当にそうなら、
自分たちは一体何だったのか?
クロディーヌは、
カイルが首都に発った直後、
時を待っていたかのように、
二人の関係が始まったようだと
話しました。
悪意をあえて隠さずに投げかけた
クロディーヌの言葉が
彼女の策略であることは、
すでに、その瞬間、見破りました。
しかし、おかしなことに、カイルは
策略だと思っていた
ブラント令嬢の言葉が、
真実かもしれないという考えを
抱くようになりました。
クロディーヌ・ブラントを
よく知っているとは言えなかったけれど
いくら彼女がレイラのことを不満に思い
気に障ったとしても、
自分の名誉を汚してまで、
レイラを踏みにじる人ではないことを
確信していました。
ブラント令嬢の自尊心が
あまりにも孤高だからでした。
骨の髄まで貴族である、あの令嬢が、
レイラ一人をいじめようとして
主治医の息子の前で体面を傷つけて、
自分の婚約者にまで、
傷を付けるはずがない。
しかし、カイルは
疑いが確信に近づくことを
否定するかのように
激しく首を横に振りました。
他の誰でもないレイラだからでした。
よろめきながら立ち上がったカイルは、
このくらいでカフェを離れて、
街に出ました。
冷たい風に当たっても、
頭の中は、
なかなか、すっきりしませんでした。
どこに向かって行くのかも
分からないまま、フラフラしながら
道を歩きました。
目頭が赤くなり、息が苦しくなっても
カイルは止まりませんでした。
ある瞬間からは、
まともに呼吸する方法が
思い浮かばなくなりました。
頭では分かっているけれど、
心では信じられませんでした。
そのギャップに、
むしろ狂ってしまいたくなる頃、
カイルは、
人通りの少ない路地の入り口に
座り込んで、頭を抱えました。
レイラに会わなければならない。
そうするしかないということを
よく知っていましたが、
一体、彼女に何が言えるのか。
カイルは、さらに途方に暮れて
目を閉じました。
会話と呼んでもよさそうな話を
交わした時間でした。
主にマティアスが尋ねて
レイラが答えましたが、
時々レイラも、些細な質問を
することがありました。
ある瞬間から、その質問が
多分に形式的だということに
気づきましたが、マティアスは、
意に介しませんでした。
レイラは怖がったり
怒ったりしない姿で彼と向き合い、
彼の言葉に耳を傾けて答え、
その理由が何であれ、
彼を知りたがっていたからでした。
顔色は穏やかで
視線を避けない大きな瞳は
澄んでいました。
マティアスは、
彼女の一言、些細な視線や目つき。
微妙な表情の変化一つ一つに
夢中になりました。
胸の中いっぱいのお湯が
ゆらゆらするような
奇妙な気分になりました。
じっと座って
レイラを見つめているだけなのに、
滑稽にも呼吸が乱れ、
理解できない緊張感に
首を横に振ったりもしました。
狂っている。
今朝感じた、まさにその甘い自嘲が
押し寄せることもありましたが
それさえも満足なので、
それで良いと思いました。
腕時計を確認するマティアスを見た
レイラは、
もう帰るのかと慎重に尋ねました。
期待感を隠せない表情でした。
永遠に、
この瞬間が続いても良いという
情けない感傷的な願いを消しながら
マティアスは「うん」と
落ち着いて答えました。
レイラは、
ずっと彼を見つめていた視線を逸らし
小さく息を吐きました。
安堵感を隠せない態度が
気に障りましたが、
マティアスは依然として、彼女から
視線を離すことができませんでした。
あの目が、もう一度自分を映すことを
望む渇望は、かなり強烈でした。
のどが渇いて息に熱がこもりました。
その願いが届いたのか、
レイラは躊躇いながら彼を見ました。
細かく噛んで食べるせいで濡れた唇が
濃いピンク色に輝いていました。
レイラは、
秘密を守ってくれますよねと
尋ねました。
マティアスは
「秘密?」と聞き返しました。
レイラは、
ビルおじさんのこと・・と
気が弱そうに言葉を濁しましたが
マティアスを見る目つきには、
相当な気合が入っていました。
そうか、そうだったと、
マティアスは、
一日中忘れていた名前を
思い出しました。
レイラ・ルウェルリンが
今、ここ、彼の目の前に
いるようになった理由が、
脅迫、助言、
あるいは、それが何であれ、
レイラが囁いた名前に
かなり不愉快になりました。
マティアスが確答しなかったため、
レイラは、さらに切迫した口調で
おじさんには、
絶対に何も知らせてはいけないと
頼みました。
ビル・レマー。
その名前を繰り返す
マティアスの青い目は、
本来の冷たい光を取り戻しました。
一体、その名前にどんな意味があって
この女は、自分のすべてを
捧げる勢いなのかと疑問を抱きました。
マティアスは、
秘密を守ったからといって、
レマーさんが、
永遠に知らないままでいられると
思うのかと尋ねました。
それは、マティアスの心からの
疑問でした。
永遠の秘密はない。
特にこの類のことはそうでした。
しかし、レイラは
理解できないと言うように
彼を見つめました。
永遠・・・って?
どう考えても変な言葉に、
レイラは反射的に眉を顰めました。
自分たちの関係は、
長くてもこの夏に、
公爵が結婚するまでだと
思っていました。
公爵が、
それ以上の執着を見せたとしても、
レイラは、
必ず終わらせるつもりでした。
それなのに、永遠だなんて。
彼と自分との間に
そんなに大げさな単語を使うなんて。
テーブルの下で握り締めた両手が
震えました。
マティアスは、水を一口飲んだ後、
結局は分かることだと
冷淡に告げました。
しかし、レイラは
「いいえ」と否定しました。
その前に、
自分はあなたから離れるという言葉を
飲み込むために、唇を強く
噛み締めなければなりませんでした。
レイラは、
言わないで欲しい。ビルおじさんに、
絶対に知られてはいけないと
懇願しました。
卑怯な手口を使う男に
そうしなければならないという事実が
悔しかったけれど、
レイラは努めて我慢しました。
ビルおじさんを
傷つけることはできない。
公爵と、どんな取引をしたのか。
その条件が何なのか。
それで、おじさんの愛するレイラが
どんな恥ずかしいことをしたのかを
知れば、
おじさんは耐えられないだろうと
思いました。
だから、
無事に公爵から逃れるその日まで、
このことは、
秘密にしなければなりませんでした。
そのためなら、
何でもできそうでした。
それが、この男のおもちゃになって
人形遊びをし、
屈辱に耐えて許しを乞い、
あらゆる不当なことを
じっと堪えることだとしても。
「どうか、お願い」と、
この種の懇願をする時、
いつものように
レイラの声が細かく震えました。
恐怖と期待感が入り混じった目を
覗き込む、マティアスの唇が
斜めに傾きました。
レイラを映すマティアスの目が
徐々に細くなりました。
美しかった。 欲しかった。
それで手に入れた。
その信念がふと滑稽に思えました。
あの女を手に入れたのだろうか。
別の男の妻になって
アルビスを去ろうとした夢は壊れ
レイラはアルビスに残り、
そして、彼の女になりました。
すべてが、マティアスの
思い通りになりました。
確かにそうだったし、
そうしなければなりませんでした。
マティアスは静かに頷いて
レイラの頼みを受け入れました。
時間の問題であるだけで、
彼女が自分の女である限り、
いつかは、
知られることになるという
話はしませんでした。
何でもないはずのこの女を
どうして手放せないのか、
握りしめても手に入らないから
狂いそうになるのか。
いつまでこんな日が続くのか、
彼自身も知らなかったからでした。
一安心したように
小さなため息をついたレイラは、
当然の手順のように
マティアスの視線を避けました。
彼を見つめるのは、いつも気まずく、
いくらか怖かったけれど、
今日は何とも言いようのない
見知らぬ気持ちまで加わりました。
レイラがつま先で
そっと床を叩いた時、
席から立ち上がったマティアスが
突然、そばに近づいて来ました。
彼はレイラの顎をぐっとつかんで
引き上げました。
逃れる術もなく、
再び公爵に向き合うことになった
レイラは、恐怖に震えながら、
体を離そうとしましたが、
彼は手に力を入れることで
離す気がないことを示しました。
少しの間、
何かを探るような目つきで
レイラを見下ろしていた公爵は、
まもなく手を離しました。
レイラは震える手で
公爵の体温が残っているような顔を
擦りました。
熱が上がった頬が
ほんのりと赤くなりました。
ばれないよう努めてみましたが
隠す方法はありませんでした。
マティアスは一歩下がると、
「行くぞ」と言って
手を差し出しました。
チラチラする周囲の目と耳を
感じたレイラは、
渋々、その手を握りました。
マティアスは痛いくらいに強く
レイラの手を握りしめました。
危うく悲鳴を上げそうになった
唇を噛み締めながら、
レイラは慌てて視線を落としました。
彼が結んでくれた靴紐が、
彼の歩みに従って揺れていました。
カイル・エトマンは
アルビスに向かっていました。
エトマン家に続く分かれ道は
すでに過ぎたので、
目的地は、アルビス以外に
ありませんでした。
マティアスは眉を顰めて
車の窓から
通り過ぎる彼を見ました。
その瞬間も、カイル・エトマンは
ただ前だけを見て歩いていました。
主治医の息子が
アルビスを訪ねる理由は
ただ一つ、レイラでした。
彼女が座っていた隣の席を見る
マティアスの眼差しが
冷たく沈みました。
レイラはカルスバル市内で
先に車を降りました。
用事があると言い訳をしましたが、
あまりにも明白な嘘でした。
しかしマティアスは許可しました。
レイラは再び苛立たしげに
哀願する目つきで
彼を見つめていましたが、
マティアスは、これ以上、
それが嬉しくありませんでした。
以前のように、彼女が、
自分の前で乞うて、
きれいに泣く姿を見ると、
楽しくて満足したのとは
全く違う感情でした。
それなら何を望んでいるのか。
その疑問が、頭の中を満たすほど
大きくなった頃、
カイル・エトマンを発見しました。
彼といたレイラの姿を
無意識に思い出したのは、
そのせいなのかと考えました。
二人は縁談が壊れるまで
いつも一緒でした。
そして、
カイル・エトマンのそばにいた
レイラは、
いつも明るくて幸せそうでした。
そこまで思い出すと、
思わず乾いた唾を飲み込みました。
彼がどんなことをしても
手に入れられない、あの美しい微笑を
カイル・エトマンには
惜しみなく与えた女。
そんな顔で医者の息子を見つめながら
レイラはぺちゃくちゃ、可愛らしく
騒ぎ立てたものでした
マティアスは、
カイル・エトマンの名の前で
これ以上、超然とできないことを
認めざるを得ませんでした。
レイラは、すでに自分の女だから、
叶わなかった初恋の相手が
帰って来たことを
気にしないでいられるという余裕は
もうありませんでした。
レイラがカイルを
受け入れられないという事実も
無意味でした。
カイル・エトマンは
マティアスが切望しているものを
見ました。
そして、もしかしたら、
その事実は、永遠に
変わらないかもしれませんでした。
やがて見つけた答えが
マティアスを泥沼に
引きずり込みました。
最も恐ろしいのは、
手に入れられないことを知っても
この渇望を止められないことでした。
できることなら、マティアスは、
彼らの過去まで、
すべて自分のものにしたいと
思いました。
しかし、邸宅の前に止まった
車から降りたマティアスの姿からは
いかなる混乱の跡も
見つけられませんでした。
予定通りなら、ブラント家に
帰っているはずだったクロディーヌが
列をなして並んでいる
使用人たちの間から歩いて来て、
マティアスを出迎えました。
マティアスは疑問のこもった目で、
まだアルビスに滞在していたのかと
尋ねました。クロディーヌは
もう少し一緒に過ごしたくて
待っていたと、平然と答えると、
自然に腕を組みました。
クロディーヌは、
公爵も自分に会いたかったと思うと
告げると、車の後部座席を
チラッと見た目を上げ、
マティアスを見つめながら、
そうしてもいいですよねと
尋ねました。
いつかカイルは、
レイラとマティアスのことを
知ることになるでしょうし、
それが先に延びるほど、
カイルはレイラのことを想って
より長い間、
苦しむことになるかもしれません。
けれども、レイラ憎さのために、
クロディーヌがカイルを
利用したことは許せません。
そして、クロディーヌが頑張って
レイラ自らマティアスの元から
去らせようとしても、
すでにマティアスはレイラへの愛で
おかしくなっている状態。
まだ、マティアスは、
いつものヘルハルト公爵として
振舞っていられるけれど、
今まで愛というものが何かを知らず
愛とは無縁だったマティアスが
レイラを失ってしまったら、
心が壊れてしまうように思いました。