15話 オデットとバスティアンは美術史博物館に来ています。
彼らが現れたという知らせが
口から口へと広がり、
それを聞いた人々が集まった
美術史博物館の特別展示場は
賑わっていました。
ここで最も人気を集めている作品は、
誰が何と言おうと、
皇帝が結び付けた
古物商の孫と捨てられた皇女の娘という
滑稽な駄作であることは明らかでした。
最初の展示室を
ゆっくりと観覧した彼らは
静かに次の展示室に向かいました。
並んで立って作品を鑑賞するだけ。
二人は何の話も交わしませんでした。
一見、仲睦まじい恋人のようでしたが、
一方では、
完璧な他人のような姿でした。
その不可思議な謎に
没頭した観覧客たちは、
今や最小限の体面も忘れたまま、
二人をチラチラ見ていました。
そのチクチクする視線を
知らないはずがないにもかかわらず、
彼らは一様に超然とした態度を
維持しました。
二番目の展示室を出る頃になると、
見物人たちは、
皇女と夜逃げを企んでいるようには
全く見えないと、
暗黙の結論を下しました。
しかし、ディセン公爵の娘と
熱烈な愛に陥ったと見るのも
困難でした。
それでは真実は一体何なのか?
三つの展示室を通り過ぎて、
好事家たちの好奇心が
最高潮に達した頃、
古物商の孫が首を回しました。
彼らは動揺し始めました。
オデットの関心は、
展示会にだけ集中していました。
最初は、見栄を張って
演技しているのかと思いましたが
ここまでくると、その真情を
認めざるを得ませんでした。
バスティアンは何の熱意もなく
絵や彫刻を見ていた視線を外して
オデットを鑑賞し始めました。
入り口から持って来た
パンフレットを開いたオデットは、
熱心な美術学生のような姿勢で
作品を探求して行きました。
概して静かに没頭している
顔でしたが、
時々、疑問が生じると、
目尻を細く曲げました。
パンフレットで解答を見つけると
微かに笑みを浮かべ、
依然として疑問が消えない時には
首を小さく傾げました。
特別展の最後の展示室には
伝統的な絵画が展示されていました。
主に神話と古典をテーマにした
裸体の作品でした。
オデットは、
展示会場の端にある絵の前に
近づきました。
同行者がいるという事実を
すっかり忘れてしまったかのように、
バスティアンの方には
一度も目を向けないままでした。
バスティアンは、
数歩の距離を空けながら
彼女の後を追いました。
広場に面した窓越しに見える
ラッツの街は、いつの間にか
春の雪で白く染まっていました。
広場を挟んで向かい合っている
自然史博物館を眺めていた
バスティアンは、
それでも、あそこではなくて
良かったと、ふと思いました。
何の興味もないという点では
あまり違いがありませんでしたが
植物標本や化石などを鑑賞するよりは
この方がいいだろうと思いました。
無駄な考えを消したバスティアンは
歩幅を広げた足取りで
オデットとの距離を縮めました。
静かに存在している
美しい物の間に立っている彼女は
まるでその風景の一部のように
見えました。
最後の作品の前に立った瞬間
バスティアンは、
この展示館のおかげで、チケット代が
もったいなくならなそうだと
言いました。
ようやく、
そばにいる男の存在を思い出した
オデットは、
ギョッとして顔を上げました。
バスティアンは、
つまらない冗談を言った人らしくない
真剣な表情をしていました。
じっと彼を眺めていたオデットは、
しばらくして、
無防備な笑みを浮かべました。
バスティアンの口の端にも
オデットと同じような笑みが
浮かびました。
オデットは、
大尉が紳士のダンスを
踊れるようにした
ラペンの有能な教師たちも、
紳士らしい眼識までは
育ててくれなかったようだと
言いました。
バスティアンは、
どんでもない。
これはラペンが育ててくれた
紳士の眼識で伝える言葉だと
返事をしました。
オデットは、
母校の名誉を
失墜させようとしているのかと
尋ねました。
バスティアンは、
ラペンの紳士たちが
寮のクローゼットの扉に貼っておいた
絵を見れば、令嬢も自分の見解に
共感するようになるだろうと答えると
何気なく笑いながら、
展示室を埋め尽くしている絵を
ざっと見ました。
煌めく額縁に収められた、
多様な裸体の饗宴が印象的でしたが、
それ以上の感興はありませんでした。
もちろん、先に見た展示館の
退屈で難解な作品とは
比べものになりませんでしたが。
真剣なまなざしで、
彼を見ていたオデットは
まさか大尉も、そんな絵を
貼っておく学生だったのかと
とんでもない質問をしました。
バスティアンは、
どうだったと思うかと、
ゆっくり聞き返して、
頭を傾げました。
予想と異なる反応に当惑したオデットは
思わず息を殺しました。
笑いの消えたバスティアンの顔は
あまりにも静かで、
何も読み取れませんでした。
この男も、
分別のない少年だった時代が
あったのだろうか?
それが当たり前なのに、
なぜか、その姿が、
なかなか思い浮かびませんでした。
そっと目を伏せたオデットは、
今日は、これくらいで十分だと思うと
この演劇の終わりを告げました。
まだ頬と耳たぶに残っている
熱感を消そうと努力しましたが、
それは、意志の及ばない
領域にあることでした。
束の間の静寂の後、バスティアンは
いつものように乾燥して優しい声で
令嬢の意思を尊重すると、
返事をしました。
オデットは、
ようやく安心して顔を上げました。
窓ガラスに映った雪片の影が、
先頭に立って歩く
バスティアンの広い背中を
染めていました。
寮の部屋は、
確かに潔癖できれいで、
全てがきちんとしていただろうと、
オデットは一人で結論を下しました。
なんとなく、それが
似合いそうな男だったからでした。
展示場を離れた二人は、
再び一階に行って、
預けておいたコートを受け取りました。
美術史博物館の裏門を出た時、
雪の積もった階段の下で
立ち止まったオデットは、
唐突に、ここでお別れしようと
静かに告げました。
バスティアンは、
家まで送って行くのが自分の義務だと
主張しましたが、オデットは、
大丈夫。実は、
もうすぐ妹が下校する時間になる。
ちょうど学校がこの近くなので、
あの子と一緒に帰ると返事をしました。
バスティアンは、
妹も一緒に乗せて行くと提案しましたが
オデットは、
ティラが不快に思うだろうし、
自分も迷惑をかけたくないので
その気持ちだけ有難くもらうと言って
断りました。
バスティアンは、
雪がなかなか止みそうにないので
歩いて行くのは無理だと
主張しましたが、オデットは
トラムに乗ると答え、
バスティアンのおかげで、
良い時間を過ごせたことに
お礼を言いました。
オデットは優しい笑みを浮かべながら
ここまでと明確な線を引きました。
頬をかすめる雪片のように、
冷たくて柔らかい態度でした。
時計を確認したバスティアンは
勝てないふりをして頷きました。
次の約束の時間が近づいていました。
雪で劣悪になった道路の状況を
勘案すれば、そろそろ
出発しなければなりませんでした。
ある程度遅くなったからといって、
大きな問題が生じる席では
ありませんでしたが、
好意を望まない女のために、あえて、
欠礼する必要はありませんでした。
オデットは、
それでは、ポロ競技の日に
また会おうと、
事務的な挨拶を残して去りました。
その後ろ姿を眺めていたバスティアンも
しばらくして振り向きました。
オデットの記憶は、
すぐに脳裏から消えて行きました。
車に乗ったバスティアンは、
高級商店街が密集している
繁華街へ行き、
叔母にプレゼントする花を買いました。
それを積んでクロス通りへ向かう途中
信号待ちをしていた時に、
反対側の道路脇に彼女がいました。
オデットは、
美術史博物館からそれほど遠くない
トラムの停留所に立っていました。
妹の言い訳が嘘ではなかったのか、
女学校の制服を着た少女と一緒でした。
重そうな食料品の袋を胸に抱えていても
オデットは姿勢を正していました。
浮かれている子犬のように
飛び跳ねて騒いでいる妹とは
全く違いました。
オデットが何か注意すると、
しばらく静かになった妹は、
まもなく、
再びおしゃべりを始めました。
見た目はもちろん性格まで、
驚くほど似ているところがない
姉妹でした。
タバコをくわえたバスティアンが
ライターを探している間に、
トラムがやって来ました。
寒さに震えていた人たちが
勢いよく駆け寄ると、オデットは
すぐに後ろの方へ押し出されました。
どうやら、このトラムに乗るのは
無理なようでした。
バスティアンは、その瞬間、
彼女が、とても
みすぼらしい身なりをしていることに
ふと気づきました。
ブラウスとスカートは
確かにきちんとしていたけれど、
コートが古過ぎました。
花が咲く頃に始まった縁談のせいで
まだ冬服を
用意できていなかったようでした。
大きなクラクションが
道路に鳴り響きました。
ライターを置いたバスティアンは
ため息をつきながら
車を発車させました。
停留所に向かっている間に
停車していたトラムが出発しました。
予想通り、乗れなかった乗客が
残っていましたが、
オデットの姿は見えませんでした。
口にくわえていたタバコに
火をつけたバスティアンは、
スピードを落とさずに
停留所を通り過ぎました。
割り込もうとする人々に押されながらも
混雑したトラムに、
どうしても乗り込もうとする
根性が残っていた女を乗せたトラムが
遠ざかって行きました。
深く吸い込んで吐いた煙の中で、
バスティアンは再び女性を忘れました。
鍵を探している間にドアが開きました。
オデットとティラは驚きの表情で
開いたドアの向こうを見ました。
どういうわけか酒臭い父が
そこに立っていました。
何を突っ立っているんだ。
さあ、入れと言うと、
ディセン公爵は一歩下がって
道を開けました。
信じられないことでしたが、
まず、オデットが家の中に入りました。
グズグズしていたティラも
すぐ後に続きました。
オデットから渡された食料品を
台所まで運んでくれた彼は、
食卓の端に座りました。
普段とは全く違う態度でした。
着替えて出て来たオデットは、
夕食を用意すると告げると、
再び台所へ行って
エプロンをかけました。
父親は相変わらず
食卓に座っていました。
オデットが、
シチューに使うジャガイモの
下ごしらえを終えた後、
意味深長な表情を浮かべていた父親は
オデットの年齢は二十歳だったかと
尋ねました。
オデットは、
二十一歳だと淡々と答えながら
小麦粉の袋を開けました。
目を丸くしたディセン公爵は、
ようやくまともに知った娘の年齢を
繰り返し呟きました。
とても動揺しているようでもあり、
嬉しそうでもある顔でしたが、
オデットは、その理由を
聞こうとしませんでした。
どうせ父親が
理解できないということを
よく知っていたからでした。
グズグズしていたティラも
台所へ来て、
せっせと食事の準備するオデットを
手伝い始めました。
雪が降った四月の週末、
ディセン家の夕方は
久しぶりに平穏でした。
オデットの年齢さえ
はっきり覚えていなかった
ディセン公爵。
オデットに男がいると聞かされて
慌てて年齢を確認したのでしょうけれど
もしかして二十歳、あるいは二十一歳は
ヘレネが駆け落ちした年齢で
オデットが、
もう、そのような年齢になったことで
動揺しているような嬉しそうな顔を
したのではないかと思いました。
酒と賭け事に溺れて
娘まで売ろうとしたディセン公爵が
初めて見せた父親らしい態度。
マンガでは描かれていなかったのが
残念です。