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93話 マティアスが小屋に押し入ろうとしています。
周囲を見回したレイラは、
「帰って、お願い」と
死人のような顔色で叫びました。
以前と同じように怯えた目と
生気のない姿は、
あの甘かった一日の記憶は
あなた一人だけの妄想だと
語っているようでした。
習慣的に、あの日の記憶を反芻し、
数多くの「もしも」を仮定し
道に迷ったような気持ちで
ここを訪れた自分の姿が
マティアスには耐え難く
滑稽になりました。
あえて自分にとって
何でもない女だと見なしていたけれど
この女にとって何でもないのは
むしろ彼でした。
それにもかかわらず、この女を、
この女の何かであることを
切望していたのも彼でした。
それはあり得ないことだけれど、
いつからか、そうだった。
いや、もしかしたら
最初からかもしれないと
マティアスは思いました。
レイラは後ずさりすると、
なぜ、こんなことをするのか。
そんな資格はないではないかと
再び激しく叫びました。
そのすぐ後に、
床に落ちた食料品袋の中で
ガラス瓶が割れる音が続きました。
マティアスは
「資格?」と聞き返すと、
落ちた物を拾おうとして、
身を屈めたレイラを
乱暴に立たせました。
逃げるように後ろに下がる
レイラに付いて、
彼も玄関の敷居を越えました。
レイラは、
ここまで来て、
自分にこんなことをする資格はないと
言うと、背筋を伸ばして
彼を睨みつけました。
あの日のことが、
とても古い夢のように感じられました。
やはり何の期待もしなくて正解だった。
あの不思議な一日を
遠い都市に残して帰って来て
向き合った現実は、
結局こういうことだけなのだと
思いました。
レイラは、
自分の役割を果たしているのに、
どうして、こんなことをするのか。
約束したのに、
どうして、この家まで・・・と
訴えながら、
公爵を追い出そうと努力しましたが、
圧倒的な力の差に勝つことは
困難でした。
その無力感がレイラを怒らせました。
クロディーヌと散歩をする
公爵を見たのは、
干し草をいっぱい積んだ車を引いて
アルビスの馬小屋から
帰って来る途中でした。
ビルと親しい馬小屋の番人から
小屋で育てている家畜の餌を
度々、もらっていて、昨日も
そんなありふれた日の一つでした。
彼は荷車を、
小屋まで引いて行こうとしましたが
そんなことぐらい、
いくらでも一人でできるので、
レイラは断固として断りました。
思わぬ所で二人を見つけるまでは
確かにそうでした。
邸宅の庭園と
その近くの遊歩道を離れることが珍しい
クロディーヌが、
そこからかなり遠く離れた
馬小屋と森の間の道を歩いていました。
遠くから彼らを見つけるや否や、
レイラは道端に並んでいる
一抱えの木々の間に身を隠しました。
不意にクロディーヌが振り返りましたが
レイラを見つけることは
できなかったようでした。
ゆっくり歩く公爵とクロディーヌが
反対側の道の端に消えるまで、
レイラは、
どうか見つからないようにと
切迫した気持ちで祈りました。
一緒にいる二人の前に
立ちたくありませんでした。
とっくに彼女を捨てたような神も
その願いだけは無視できなかったのか
幸い二人はレイラに気づかずに
行ってしまいました。
彼らが見えなくなると、
レイラは急いで荷車を引いて
木の間を抜け出しました。
気が急いて、
走るように歩いていたら
バタンと転んでしまい、
小道に干し草をこぼしてしまいました。
夢中でそれらを拾い上げて、
再び走るように小屋に戻った時、
レイラの姿は、
全身と髪の毛にくっついた干し草で
めちゃくちゃになっていました。
その瞬間の、安堵感と羞恥心、
悲しみと自己恥辱感が
めちゃくちゃに入り混じった
あの気持ちは
一体何だったのだろうか。
レイラはマティアスに、
こんなことをする理由は何なのか。
こんなむさくるしい所まで、
自らおもちゃで遊ぶために
訪ねてくるほど、
自分と会わなかった何日かが
とても退屈だったのかと、
無意味であることを知りながらも
刃を立てながら尋ねました。
自分を刺して引っ掻いたあの感情を
一度くらい、レイラは
公爵に返したいと思いました。
彼と一緒に過ごした一日が、
あの不思議だった気分が浮かび上がると
反発心は、
より一層大きくなっていきました。
マティアスは、
陰鬱で冷え冷えとするほど
低く沈んだ声で、レイラに
その口を閉じるよう命令しました。
レイラは、本能的な恐怖で
体が凍りつきましたが、
もう止めることができませんでした。
レイラは、避けることなく
マティアスの目を見つめながら
それなら思う存分遊ぶように。
やりたいようにやって、気が済めば
帰ってくれる人だろうから。
自分から脱いだ方がいいか。いえ、
それは面白くないと言っていた。
それならば、思い通りにするように。
どうせ酷いだけなのだから、
自分はどちらでも構わないと
言いました。
マティアスはレイラに、
話すのを止めるよう言いましたが、
彼女は、
なぜなのか。
もう、これもあれも
全て面白くないのか。
それなら良かった。
自分を捨てて欲しい。
そうしてくれれば本当に有難い。
公爵が自分に与えてくれた
唯一の喜びになるからと
悪態をついていましたが、
突然、体が浮び上がる感じがしたので
悲鳴を上げました。
何が起こったのかを悟ったのは、
マティアスが、
さっと抱き上げたレイラを
食卓の上に放り投げた後でした。
マティアスは、
テーブルにレイラを押し付けながら
自分が気が狂うのが
面白いのではないかと囁きました。
レイラは、泣かないようにと
自分に言い聞かせながら、
たぶん、マティアスが
自分の涙を面白がる程度にはと、
激しく反撃しました。
しかし、傷つけたいその男は、
狂ったようにクスクス笑うことで
レイラの期待を踏みにじりました。
マティアスは、
それなら、レイラが泣かなければ、
公平な取引はできないだろうと言うと
彼女の頭を撫でていた手で
荒々しく彼女の顎をつかみ、
自分たちが互いに楽しい取引だと
言いました。
今や、レイラは
公爵を非難するどんな言葉でも
浴びせられそうでしたが、
その機会はなく、
レイラが吐き出した熱い嘆きは
近づいて来たマティアスの唇の上で
砕けました。
引き続いてすぐに、苦しそうな息が
一つに入り混じりました。

カイルは小屋の倉庫の隣に
自転車を止めました。
何度も悩んだ末に下した結論なので
彼の表情は決然としていました。
抑えることができないほど、
大きくなっていく疑問と苦悩に
押しつぶされて息が詰まるよりは、
むしろレイラの返事を
聞きたいと思いました。
ブラントの令嬢の言葉が事実なら
レイラを救わなければならないので
なおさら、
そうしなければなりませんでした。
再び以前のように
戻ることができなかったとしても、
レイラの人生が壊れるのを
絶対に放っておくことは
できませんでした。
カイルはゆっくり深呼吸することで
最後の躊躇いを消しました。
しかし、その覚悟は、
ドアの前に着く前に
不安に変わりました。
ドアは開いているのに
家の中が真っ暗な上、玄関の前に
物が散らばっていたからでした。
一瞬、呆然としたカイルは
すぐに青ざめて
家の中に駆け込みました。
そして、真っ暗な小屋が
恐ろしい考えを呼び起こす頃、
それよりもっと恐ろしい光景が
目に入りました。
台所の食卓の上に誰かがいました。
最初は大きな男だと思いましたが
すぐにカイルは、その男の下にいる
女の存在に気づきました。
「・・・レイラ?」
名前を呼ぶ声がブルブル震えました。
見ても信じられない光景に、カイルは
石像のように固まってしまいました。
彼を見る二人も変わりませんでした。
レイラ。そして・・・公爵。
その男に気づいたカイルの瞳が
凍りつく間、公爵は
ゆっくりと体を起こしました。
服が半分ほど脱げている
レイラとは違い、
彼は赤く濡れた唇以外に
乱れたところがない姿でした。
カイルの指先から始まった震えは
一瞬にして全身に広がりました。
しかし、公爵は平然とした顔で
カイルと向き合いました。
レイラは慌てて起き上がると
マティアスの後ろに隠れて
服を引き上げました。
カイルは、
一体、これはどういうことかと
尋ねると、
開いた玄関のドアと、
その入り口に散らばっている食料品。
そして目の前に立っている
ヘルハルト公爵を再び見ました。
否定できない現実が与えた絶望感が
暗く沈んだ茶色の瞳を
埋め尽くしました。
君が見た通りだと、マティアスは
大したことではないように
返事をしました。
何も隠す気がなさそうな彼の態度は
カイルが辛うじて握っていた
最後の異性の紐を切りました。
公爵がレイラを踏みにじったという
ブラント令嬢の言葉は
間違いありませんでした。
カイルは、
レイラに一体何をしたんだと叫びながら
公爵に突進しました。
レイラがそれに気づいた時、
すでに二人の男が
一つになった後でした。
レイラは悲鳴を上げて
カイルを止めましたが、
喧嘩は、ますます激しくなりました。
しかし、
カイルがむやみに飛びかかっても
マティアスは、あえて
殴り合いをする気さえないかのように
熱意なしに阻止しているので
喧嘩と呼ぶのも滑稽に見えました。
そして、
それでも威嚇的に見えるのは
むしろマティアスでした。
レイラは、
今にも泣き出しそうな顔で
カイルの名前を叫びました。
身長と体格は似ているけれど、
公爵は、戦場で
勲章を受けた軍人なので、
彼が、これ以上
我慢しなくなった瞬間、
どんなことが起きるか、
火を見るよりも明らかでした。
よろめいたカイルは、
お前は人間なのか。
どうして、レイラに
こんなことをするのかと叫ぶと
再びマティアスに飛びかかりました。
泣いているレイラに
一瞬、視線を向けたマティアスは
その拳を、
避けることができませんでした。
彼が切れた唇の先から流れた血を
手の甲で拭き取っている間に、
カイルは、
青白くなって震えているレイラに
近づきました
カイルは、
あの野郎は、いつから
こんなことをしていたのかと
尋ねました。
レイラは何か言おうとして
口を開きましたが、
熱い息だけが不規則に
漏れるだけでした。
カイルは
レイラの手首をつかみました。
レイラのように
カイルも泣いていました。
彼は、自分が助けてあげるので
一緒に行こうと言って、
すぐにレイラを、
この小屋から連れ出す勢いで
振り向きましたが、公爵が
二人の前に立ちはだかっていたので
彼らは一歩も踏み出せませんでした。
冷酷な表情とは違って、
傷ついた口元に浮かんだ笑みは
穏やかでした。
「退け」とカイルが吐き出した
軽蔑のこもった言葉にも公爵は動じず
首を少し動かして
カイルを見上げたのが全てでした。
公爵の瞳に込められた
ヒヤッとするような怒りに
気づいたレイラは、「ダメ」と
恐怖に震えながら呟きました。
マティアスは、
レイラをチラッと見た後、
すぐに再びカイルを見つめ、
その瞬間、血のついた公爵の手が
カイルの顔に飛びました。
レイラが悲鳴を上げる間もなく、
二人の男の戦いは
あっという間に激しくなりました。
レイラを放したカイルは
今や、やけくそになり、公爵も
これ以上、適当な防御を
続けませんでした。
殴り合う二人の男の影が
濃くなった闇の中で、
目まぐるしく入り乱れました。
「やめてください!」と
叫んだレイラは、
カイルの名前を呼びながら、
床に倒れたカイルに駆け寄りました。
全身でカイルを庇っている
レイラの背中を見る
マティアスの目に、
氷の破片のような刃が立ちました。
レイラは、
再び立ち上がろうとする
カイルの肩をつかむと、
お願いだから止めて欲しいと
懇願しました。
猛烈な怒りに捕らわれていた
カイルの目が、
ようやくレイラに向かいました。
「あの野郎がお前を・・・」と呟く、
歪んだカイルの顔は、
今や涙でびしょびしょでした。
喘ぎながら吐き出す一言一言が、
まるで熱い泣き声のようでした。
レイラは、そんなことではないと
否定して首を振ると、
顎の先に溜まっていた涙が
ポロポロと落ちました。
近づいて来たマティアスの影が
見つめ合っている
カイルとレイラの上に落ちました。
そして、マティアスは腰を屈めて
レイラの肩を掴もうとしましたが
「・・・私が、好きなの」と
首を絞められている時のような声で
囁いたので、
マティアスの手が止まりました。
もう一度、レイラは、
さらに震えが大きくなった声で
「私が・・・好きなの」と
泣きながら囁きました。
血の滲んでいるカイルの目が
一瞬、空っぽになったように
ぼんやりとしました。
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クロディーヌに聞かされた話が
本当であると、いずれカイルが
確信することになったとしても、
このように、
レイラとマティアスが一緒にいる現場を
見ることになってしまったことが
とても辛くて悲しいです。
作者様は、カイルに対して
どうしてこんなに
惨いことをするのか、
恨めしく思ってしまいました。
苦労を知らず、
天真爛漫に育って来たカイルが
母親の闇の部分を知り、
心から愛し、結婚を望んでいた
レイラを失ってしまったことで
彼の人生に暗い影が落ちないよう
心から願っています。
クロディーヌは、
マティアスと一緒にいるところを
わざとレイラに見せるために、
いつもと違う散歩コースを
選んだのでしょう。
レイラは、自分がいることを
見られていないと思ったけれど、
クロディーヌは、
しっかりレイラを見ていました。
本当に意地悪なクロディーヌだと
悪口を言いたくなりますが、
婚約者に悪い虫が付いていれば、
結婚する前に退治したいと思うのは
女性として当然なのかなと思います。
マティアスは、
自分の欲望を満たすことには
精を出すけれど、
レイラを守ろうという気がないのが
残念です。
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