97話 クロディーヌはレイラに話をするのを止めません。
あなたの人生を台無しにした男。
何も聞こえていないような
ぼんやりとした意識の中でも、
その言葉は、針の先のように痛く
入り込みました。
レイラの目が揺れるのを見た
クロディーヌは、
驚くべきことだと言うように、
目を丸くしました。
クロディーヌは、
ヘルハルト公爵が
レイラを手に入れるために、
カイル・エトマンとの結婚を
台無しにするのに一役買ったことを
まさか、知らなかったのかと
尋ねました。
自分の髪の毛を握っていた
クロディーヌの手が離れても、
レイラの視線は依然として、
クロディーヌの顔の上に
留まっていました。
クロディーヌは、
本当に何も知らなそうなその顔が
今や愛らしくなってきました。
クロディーヌは、
子犬よりもマシではなかった
孤児の少女を見下ろした、
あの幼い日のように、
レイラを見下ろしながら、
昔も今も、
あなたは本当に変わらないと
口元に曖昧な笑みを浮かべながら
言いました。
そして、クロディーヌは、
子供の枕元に座って
美しい童話を聞かせてやる
母親のように、
何も知らない、可哀想なレイラと
静かに、ゆっくりと話を続けました。
去年の夏、自分の婚約者が
レイラとカイルにしたことについて
あえて付け加えるべき言葉など
ありませんでした。
事実だけで十分なことに、
無駄なことを付け加えるほど
愚かなことはないと思いました。
エトマン夫人の指図を受けて、
彼女の従弟が
レイラの学費を盗んだ日の朝。
確かに川辺で彼と会ったのに、
警官に嘘をついたマティアス。
その後、マティアスが随行人に
ダニエル・レイナーの銀行の
財政状況を調査させた事実も
欠かしませんでした。
それについて、クロディーヌは
父親の名前を前面に出すことで
知ることができました。
クロディーヌは、
おそらくヘルハルト公爵は、
ダニエル・レイナーが犯人で、
その盗みをそそのかしたのが
エトマン夫人だということまで
察していたようだ。
そこまで分かっていたなら、
なぜ、あんなことを企てたのか、
十分、推測がつくだろう。
あなたも知っているように、
公爵は徹頭徹尾で賢い人だからと
言いました。
クロディーヌが話を続けるにつれて
レイラは、呆然となっていきました。
あの賢かった子が、一瞬で
馬鹿になってしまったように
見えました。
クロディーヌは、
その後のことは自分もよく分からない。
しかし全てが異常なほど完璧に合致し
エトマン夫人の悪行が
明らかになったのを見ると、
ヘルハルト公爵が介入しなかったとは
言い難いのではないかと話しました。
その時、クロディーヌは、
前もって、このことを口外しなかった
自分の選択に、とても満足しました。
おかげさまで、最も優れた武器を
最も適切な時に
使えるようになったからでした。
クロディーヌは
魂が抜けているレイラに向かって、
もちろん、むやみに
速断することはできない。
その後のことが気になるなら、
直接、ヘルハルト公爵に
聞いてみるように。
自分が言ったことも信じられないなら
もう一度確認してみてもいい。
少なくとも、彼は、
嘘はつかない男だからと
親切に助言しました。
レイラは、これ以上我慢できなくなり
頭を下げました。
石畳についた手は少しの血の気もなく
真っ白になっていました。
レイラは、去年の夏のことを
思い出してみました。
カイルとの婚約の話が持ち上がって
それが進んでいる間、公爵は、
もうレイラ・ルウェリンなんかに
興味がないように静かでした。
彼が再び近づいて来たのは、
すべてが終わってしまった後、
秋が始まる頃でした。
そのすべてがそうなら
全部計画だったのか。
レイラは苦痛に喘ぎながら
首を横に振りました。
そんなことはあり得ない。
人間が人間に対して、
これほどまでに残忍になれるとは
思えませんでした。
クロディーヌは、
レイラの心を覗き込んだかのように
信じたくない気持ちは分かる。
あなたの人生を台無しにしてでも
ただ、あなたを手に入れれば
それでいいと思って、
そのように扱っていたと考えると、
とても惨めになるだろうと言うと
辛らつに笑いました。
クロディーヌは、
信じたくないなら信じなければいい。
仕方がないけれど、
それはあなたの自由だから。
信じようが信じまいが、
現実は少しも変わらないけれど
気持ちだけでも楽な方を選ぶのは
間違いではないと言うと、
ベンチから立ち上がり、
レイラの前にそっと近づきました。
床に座り込んだレイラは、
今や寒気がする人のように
震えていました。
クロディーヌは、
それでも、
あなたが何も知らなかったので、
自分は安心した。
その全てを知っていても、
ヘルハルト公爵の愛人をしている
プライドのない俗物だと、
誤解するところだった。
もちろん、真実を知ってからは
心が少し痛むけれど、と言うと、
身を屈めて、
レイラの肩をつかみました。
そして、
あなたに申し訳ないと思った。
あの時、婚約者の誤った選択を
傍観していなかったら、
あなたは公爵の寝床の世話をする
愛人ではなく、
心から愛されるエトマン夫人に
なれたかもしれないのにと
言いました。
レイラは、震える唇を
かろうじて動かしましたが、
依然として、
声を出すことができませんでした。
クロディーヌの手を振り払う気力も
残っていませんでした。
クロディーヌは、
けれども、すでにこうなっていて、
幸いにもヘルハルト公爵は
あなたのことを、
結構可愛がってくれているのだから、
そんなに
悪いことばかりではないと思うと
言って、再び微笑みました。
そして、クロディーヌは、
自分はこれからも
あなたと仲良くするつもりだ。
自分の夫になる人が
とても欲しがっていた子だから、
自分も最低限の尊重は
見せなければならない。
だから、過度な罪悪感で
縮こまったりしないように。
けれども、結婚後も自分たちが
同じ領地に住むのは、
本当に馬鹿げたことだから、
その前に、アルビスを離れてくれると
信じている。
ヘルハルト公爵なら、
すでにあなたの進退を、
決めていると思うので、
この点は、
深く心配しなくてもいいだろうと
言うと、もう一度、
レイラの頭を撫でました。
そして、一歩後ろに下がって
まっすぐな姿勢で立ちました。
彼女の影の下にいるレイラは、
さらに、小さくみすぼらしく
見えました。
クロディーヌはレイラに、
立つように。自分はあなたが
ヘルハルト公爵の女として
持つべき品位を保って欲しいと
要求しました。
しかし、レイラが、
なかなか体を支えられないでいると
クロディーヌは彼女を助け起こし、
子供を諭すような穏やかな口調で
もう挨拶をするようにと
促しました。
そして、クロディーヌは、
これからも、
今までのように仲良くするためには
自分たちの間に、
明確な秩序が必要ではないかと
言いました。
死んだ人のような顔になり
自分の体一つ支えられない子に
少し苛酷な仕打ちだと思いましたが
クロディーヌは、
次期ヘルハルト公爵夫人としての威厳を
守ることにしました。
赤くなった目で
彼女を見上げていたレイラは、
かろうじて頭を下げました。
自分の体がどのように動いているのか
今、何をしているのか、
まともに認知できない顔でした。
眉を顰めたクロディーヌは、
もう一度。礼儀正しさをわきまえろと
冷たく命令しました。
とても酷い女の子。
まだ泣かないレイラが
クロディーヌをさらに冷たくしました。
震える手を、
やっとの思いで握ったレイラは、
先ほどより、さらに深く
頭を下げました。
靴の先に、おそらく涙のような
大きな水滴が落ちて来ました。
雨のように降り始めたその涙に
寛容を取り戻したクロディーヌは、
その辺で引き下がり、
「よし、いい子ね」と褒めました。
非常に礼儀が足りないけれど、
クロディーヌは、これ以上
問題にしないことにしました。
レイラは言葉が途切れるや否や、
また座り込みました。
壊れた人形のように、
多分に見苦しい姿でした。
クロディーヌはレイラを残して、
蔓バラのパーゴラを離れました。
突き刺すような自責の念と幻滅は
忘れることにしました。
守るべきもののためなら、
いくらでも酷くなることができる。
クロディーヌが学んで来た、
そして生きなければならない人生は
そのようなものでした。
クロディーヌは、
パーゴラへ続く小道の端で
ゆっくりと振り返りました。
冷たい床の上に崩れ落ちたレイラは、
声さえ出せずに泣いていました。
クロディーヌは穏やかな表情で
小道の角を曲がりました。
バラの花壇の間にある
庭の中央の道を通って
大理石の階段の前に近づくと、
彼女を発見したメイドが
嬉しそうに近づいて来ました。
しかし、メイドが質問する前に
先にクロディーヌが
荷造りをするようにと命令しました。
メイドは、
ブラント家に帰るのかと尋ねました。
クロディーヌは、
そうすると答えました。
メイドは、
公爵が戻って来るのを待って
会ってから帰った方が
いいのではないかと勧めましたが、
クロディーヌは微笑みながら、
「お願い」と
頑強な意思を伝えました。
忠直なメイドは、
これ以上、問い返すことなく、
頭を下げて命令を受け入れました。
クロディーヌは首をまっすぐにし
優雅な足取りで
階段を上り始めました。
夏が来る前に、
もしかすると、春が熟す前に、
全てが元の場所に戻るという
強い確信がありました。
ビル・レマーが戻って来た日に
カイル・エトマンは去りました。
カイルの帰還が
騒々しい話題になったように
突然去ったカイルに対する噂も、
レイラの名前と共に、
あっという間に村中に広がりました。
急に帰って来て、
急に立ち去るなんて。
結局レイラの気持ちを
変えることができなかったようだ。
可哀想に。
まだ、分からない。
両親に会うために、
しばらく故郷に立ち寄ったのかも。
まさか。最近、エトマン夫人とは、
ただのぎこちない関係では
なかったらしい。
あの仲が良かった母子が?
エトマン夫人はレイラに
少し悪質だった。
三階の執務室にいるヘルハルト公爵が
呼び鈴を鳴らしたことで
お喋りが中断されました。
客が来たようでした。
緊張したメイドたちは、
それぞれの持ち場に戻り、
最も長い経歴を持つメイドは
お茶を盆に乗せて
急いで階段を上りました。
ヘルハルト公爵は、
それほど仕えるのが難しい
主人ではありませんでした。
むしろ公爵一家の中で、
最も寛容だと言って良い方でした。
ところが、どういうわけか、
気難しくて鋭敏な性格を
余すところなく
むき出しにする奥方より、
公爵を扱う方が
もっと難しいというのが、
執事から下級使用人に至るまで、
皆の共通した見解でした。
そのおかげで、
公爵の呼び鈴が鳴ると、
アルビスの使用人たちは
数倍速く動くようになりました。
メイドがノックをすると
入室を許可した公爵の声は、
いつものように低くて穏やかでした。
何気なく執務室に入ったメイドは
公爵と向かい合って座っている客が
意外にも、アルビスの天国を壊した
あの問題の
庭師のビル・レマーだったので
目を見開きました。
レイラは復旧作業が真っ最中の
温室の壁のそばで立ち止まりました。
帝国中の温室を隅々まで探し回り、
苦労して空輸して来た貴重な植物も、
ビル・レマーの一行と共に
戻って来ました。
元の状態に戻るには、
もう少し、時間が必要だろうけれど、
遅くともこの夏、
公爵の結婚式の頃までには、
おおよそ本来の姿を取り戻すことが
できるはずでした。
両手が痛くなるほど
強く握ったレイラは、
深呼吸を繰り返しながら
心を落ち着かせました。
ビル・レマーは、
レイラが心を込めて用意した
食卓の前に座ることもできずに、
公爵の命令で、
公爵邸に呼ばれました。
ビルは、
大したことではないように
喜んで侍従の後に付いて行きましたが
レイラは、急に不安に襲われ、
息が止まりそうでした。
すっかり大きな娘になったと思ったら
相変わらずレマーさんの後を追い回す
チビッ子だったんだと
レイラを発見した庭の働き手の一人が
意地悪な冗談を言いました。
レイラは慌てて表情を変えて
彼と向き合うと、
おじさんに会いたかったと
返事をしました。
幸い、不自然にならないように
笑うことができました。
笑いを爆発させた労働者たちは、
すぐに温室の中へ向かいました。
再び一人になると、レイラの微笑は
一瞬にして消えました。
まさか約束を破って、ビルおじさんに
手を出すつもりではないだろう。
レイラは、
冷たい目で邸宅を見上げました。
底知れぬ恥辱と混乱、
悲しみと苦痛が襲った胸には、
もう一つの感情しか
残っていませんでした。
心臓の奥深くに打ち込まれた
鋭い氷の欠片のような憎悪でした。
レイラが心身ともに立ち上がる力を
失わせるほど、
これでもかこれでもかと
レイラを叩きのめしたクロディーヌ。
そこまでレイラを攻撃しなければ
気が済まないほど、
クロディーヌにとってレイラは
脅威だったのだと思います。
向かうところ敵なしだった
クロディーヌにとってレイラは
唯一の敵と言えるかもしれません。
けれども、クロディーヌは
怒りの矛先を間違えていると思います。
レイラの戦意を失わせるほど、
彼女を奈落の底に突き落とす手腕を持ち
利用できるものを、適切に利用できる
才覚を持ち合わせているクロディーヌは
公爵夫人という付随的な立場に
留まるにはもったいないと思います。
跡継ぎは男だという古い観念に囚われ
クロディーヌを後継者にしなかった
父親と、
娘がヘルハルト公爵夫人となって
帝国一の貴婦人になることで
夫や愛人たちへの恨みを晴らそうとした
母親を怨むべきだと思います。